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月と星の書架  作者: 沙也
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――あ、好きかも。

 定時を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、張り詰めていた糸がふつりと切れたような気がした。

 オフィスの窓から見える空は、曖昧な灰色に塗り潰されている。春先特有の、雨を含んだ重たい雲だ。

 周囲では帰り支度を始める同僚たちの足音や、また明日、と交わされる軽快な挨拶が飛び交っている。その喧騒が、まるで水槽の外の出来事のように遠く感じられた。

 私はデスクの上の書類を丁寧に揃え、パソコンの電源を落とす。黒くなった画面に映り込んだ自分の顔は、朝よりも幾分くたびれて見えた。

 結月星衣、二十八歳。独身、彼氏なし。

 これといった特技もなければ、ドラマチックな悩みもない。

 毎日同じ時間に起き、満員電車に揺られて会社に行き事務仕事をこなし、また電車に揺られて帰る。休日は積んだ本を消化するか、無心で小麦粉を練ってお菓子を焼くか。

 誰に迷惑をかけるわけでもない、平穏で、堅実な生活。

 それを「幸せ」と呼ぶこともできるだろう。けれど、時折どうしようもない閉塞感が胸の奥底に澱のように溜まっていくのを感じるのだ。

 鞄を手に立ち上がったとき、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。嫌な予感がして画面を確認すると、案の定、母からのメッセージだった。

『星衣、元気? 来月の従妹の梨沙ちゃんの結婚式だけど、着ていく服はあるの? もしないなら、週末一緒に見に行きましょうか? ついでに、お母さんの知り合いの息子さんがね――』

 メッセージの後半を目にする前に、私はそっと画面を閉じた。見なくてもわかる。どうせまた、見合いの話か、誰かの紹介だろう。

 二十代後半。地方出身の母にとって、この年齢で独り身の娘というのは、どうにも座りの悪いものらしい。

「……はぁ」

 無意識のうちに深い溜息が零れる。結婚願望がないわけではない。いつかは誰かと温かい家庭を築きたいと、漠然とは思っていた。

 けれど、若い頃のような「恋に恋する」熱量はもうないし、合コンやマッチングアプリで自身の市場価値を査定されるような場に出向く気力も湧かない。

 仕事と趣味の読書とお菓子作り。それで生活のほとんどは埋まってしまうし、それなりに充実もしている。無理をしてまで、誰かと一緒にいる必要があるのだろうか。

 そんな言い訳を自分に重ねて、気づけば恋愛というフィールドから随分と遠い場所まで来てしまっていた。

 そろそろ、結婚は無理かもしれない。そんな諦念が、雨の日の古傷のようにずきりと痛む。

 私は思考から逃げるようにオフィスを出て、エレベーターに乗り込む。今日は真っ直ぐ家に帰りたくなかった。

 いつもの満員電車に揺られ、いつものコンビニで夕食を買い、いつもの部屋に帰る。そのルーティンをなぞるだけの自分が、ひどく空虚なものに思えたからだ。

「……少し、歩こうかな」

 会社の最寄り駅とは反対方向へ、私はあてもなく足を向けた。知らない道を歩くというのは、少しだけ冒険に似ている。普段は見過ごしてしまうような街路樹の緑や、古びた喫茶店の看板、どこかの家から漂ってくる夕飯の匂い。

 三十分ほど歩いただろうか。空はいよいよ暗くなり、ぽつりぽつりと雨粒がアスファルトを叩き始めていた。傘は持っていない。予報では降らないと言っていたのに。ついてないな、と肩をすくめ、雨宿りができそうな場所を探して視線を巡らせる。

 大通りから一本入った、閑静な路地裏。雑居ビルと住宅の隙間に、ぽつんと灯る暖かな明かりを見つけた。

 煉瓦造りの壁に、蔦が絡まる古い建物。軒先には、古めかしい木製の看板が掲げられている。

 『月見書店』

 その名前に、吸い寄せられるように足を止めた。お洒落なカフェかとも思ったが、硝子戸の向こうには背の高い本棚が並んでいるのが見える。

 こんなところに、本屋さんがあったなんて――。

 読書好きを自認していたけれど、職場の近くにこんないい雰囲気の書店があることを知らなかった。雨脚が強くなってきたこともあり、私は逃げ込むようにその扉を開ける。

 カラン、コロン。

 真鍮のカウベルが、心地よい音色を奏でる。

 一歩足を踏み入れた瞬間、懐かしい匂いに包まれた。古紙とインク、そして微かに漂う珈琲の香り。店内は決して広くはないけれど、天井まで届く本棚が迷路のように入り組み、そこかしこに本が溢れている。大型書店のような整然とした美しさはないけれど、店主の愛着が感じられるような、温かみのある空間だった。BGMはなく、外の雨音だけが静かに響いている。

 先客はいないようだ。私は濡れた肩をハンカチで拭いながら、ゆっくりと店内を見て回った。置かれている本は新刊のベストセラーというよりは、少し前の文芸書や、専門的な図鑑、海外の翻訳小説などが中心だ。私の好みに合うラインナップに、心が弾む。

 指先で背表紙をなぞりながら、棚の間を彷徨う。

 ふと、一冊の本が目に留まった。子供の頃に大好きだった、海外の児童文学だ。絶版になっていて、ずっと探していたハードカバー版。

「あ……」

 思わず声が漏れる。こんなところで出会えるなんて。運命めいたものを感じて、私はその本を宝物のように抱き締めた。

 雨宿りのつもりだったけれど、これは買わずにはいられない。私は本を手に、店の奥にあるレジカウンターへと向かった。

 レジには誰もいなかった。呼び鈴を鳴らすべきか迷っていると、奥のカーテンが揺れ、一人の男性が姿を現した。

「いらっしゃいませ」

 低く、落ち着いた声。紺色のエプロンを身に着けたその人は、二十代半ばくらいだろうか。

 夜のような深い色をした髪が、歩く度に揺れる。整った顔立ちをしているけれど、どこか無機質で、感情の色が見えない。

 私はカウンターに本を置き、財布を取り出した。

「お願いします」

「はい」

 彼は短く答えると、手際よくレジを打ち、金額を告げる。代金を支払うと、彼は「カバーはおかけしますか?」と尋ねてきた。

「あ、はい。お願いします」

 私の返事を聞くと、彼はカウンターの下から茶色のブックカバー用紙を取り出す。

 私の視線が、彼の手元に釘付けになったのは、そのときだった。

 なんて、綺麗な指なんだろう。男の人にしては白く、細長い指。けれど華奢なわけではなく、第二関節の節が少しだけ高く、しっかりとした骨格を感じさせる。

 彼は本を紙の上に置くと、流れるような動作で包み始めた。紙を折り込む指先の動きには、一切の無駄がない。

 端を折り、本に沿わせ、きゅっと空気を抜く。その所作は、まるで壊れ物を扱うかのように繊細で、同時に神聖な儀式のように厳かだった。

 さぁ、すっ、という紙の擦れる音だけが、静寂な店内に響く。私は息をするのも忘れて、その手元に見入ってしまった。

 本を包むという、ただそれだけの行為なのに。どうしてこんなにも、胸が締め付けられるのだろう。

 視線を少し上げると、彼の伏せられた睫毛が、白い頬に長い影を落としているのが見えた。感情を読み取らせない、静かな横顔。世界から切り離されたような、その佇まい。

 どくん、と心臓が大きく跳ねた。

 理由なんてわからない。ただ、彼の横顔を目にした瞬間、直感が告げていた。

 ――あ、好きかも。

 それは雷に打たれたような激しい衝撃ではなく、静かな水面に一滴の雫が落ちたような、ささやかで、けれど決して消えることのない波紋だった。

 恋と呼ぶにはあまりに唐突で、頼りない感情。

 けれど、私の目はもう、彼から離れられなくなっていた。

「……お待たせしました」

 本を包み終えた彼が、商品を差し出す。その声で我に返り、私は慌てて本を受け取った。

「あ、ありがとうございます……」

 指先が触れそうになり、心臓が早鐘を打つ。彼は私の動揺になど気づかない様子で、淡々とレシートを渡してくれた。その胸元に、小さなネームプレートが光っている。

 『水瀬』

 みなせ、さん。心の中でその名前を反芻する。

 フルネームも知らない。年齢も知らない。どんな声で笑うのかも、何が好きなのかも知らない。

 知っているのは、この『水瀬』という苗字と、本を包む指先の美しさだけ。

 それなのに、私の胸の奥は、久しぶりに感じる熱で満たされていた。店を出ると、雨はすっかり止んでいた。濡れたアスファルトの匂いが、何故だか甘く感じられる。

 抱き締めた本の重みと、網膜に焼きついた彼の手の動き。私は何度も振り返りながら、その小さな書店の灯りを目に焼きつけた。

 


 

 それから、私の生活は一変した。

 といっても、外から見れば何の変化もないだろう。相変わらず仕事は忙しいし、母からの結婚プレッシャーも続いている。

 変わったのは、私の内側だ。

 火曜日と金曜日。

 これが、私が自分に課した「月見書店に通う日」のルールだった。

 毎日通いたい気持ちはあるけれど、それはさすがに怪しまれる。仕事帰りに毎日立ち寄る女なんて、どう見てもストーカー予備軍だ。彼に「変な客」として認識されるのだけは、絶対に避けなければならない。

 だから、週に二回。火曜日は、週の半ばの疲れを癒すため。金曜日は、一週間頑張った自分へのご褒美として。そう理由をつけて、私はあの店に通うようになった。

 そして、店に行くときは必ず一冊、本を購入することを決まりごとにした。これは、彼を見るための「場所代」のようなものだ。本を買うという正当な理由があれば、堂々とあの空間にいられる。

 今日も私は、火曜日の定時退社を勝ち取り、早足で路地裏へと向かった。


 カラン、コロン。

 扉を開けると、いつもの匂いが出迎えてくれる。

 レジカウンターの奥には、定位置に座る水瀬さんの姿があった。彼は手元の伝票に視線を落としていて、こちらには気づいていないようだ。

 紺色のエプロン姿。少し猫背気味の姿勢。それを見るだけで、強張っていた肩の力がふっと抜けていくのがわかる。ここが、今の私の唯一の聖域だ。

「いらっしゃいませ」

 入店に気づいた彼が顔を上げる。目が合った瞬間、軽く会釈をされた。

 ほんの僅かな反応。それでも、彼が私を「見た」という事実だけで、今日一日の嫌なことなんて全部吹き飛んでしまう。

 私は会釈を返し、努めて平静を装って本棚の前へと移動した。買う本を選ぶふりをして、本の隙間から彼の様子を盗み見る。

 今日は伝票の整理をしているようだ。長い指が、紙の上を滑るように動く。その動作の、なんと優美なことか。無駄のない所作は、まるで完成された芸術品のようだ。

 私は文芸書の棚の陰に隠れ、息を潜めてその横顔を見つめる。

 話しかけたい。その声をもっと聞きたい。

 どんな本が好きなのか、休日は何をしているのか、甘いものは好きなのか。

 知りたいことは山ほどある。けれど、私にはそんな勇気はない。

 ただの客という立場を崩すのが怖いのだ。もし話しかけて、迷惑そうな顔をされたら。素っ気ない態度を取られたら。

 そう思うと、足が竦む。

 それに、こんなふうに物陰からじっと見つめているなんて、やっぱり気持ち悪いだろうか。

 本を買うという建前があるとはいえ、下心満載で通い詰めている自分に、時折猛烈な自己嫌悪が襲ってくる。

 二十八歳にもなって、まるで中学生みたいな片思い。もっとスマートに、大人らしい恋愛の始め方があるはずなのに。

 それでも――。

 ふと、彼が作業の手を止め、小さく息を吐いて窓の外を見上げた。

 その瞬間の、どこか憂いを帯びた瞳の色。それを見てしまうと、もう駄目だった。ただ見つめているだけで、こんなにも胸が満たされる。彼の存在が、紺色のエプロンが、私にとっての安心の象徴になっていく。

 このままでいい。

 名前も知らない、言葉も交わさない関係でいい。この静かな空間の片隅に、私がいてもいいという許しさえあれば、それだけで幸福だった。

 


 

 ……はずだった。

 けれど、人の欲というのは恐ろしい。ただ見ているだけでいいと言い聞かせながら、心のどこかでは、もっと近づきたいと願ってしまう。

 彼の表情を動かしてみたい。私に向けられる「いらっしゃいませ」以外の言葉を聞いてみたい。

 そんな小さな出来心が、ある日、私の背中を押してしまったのだ。


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