第6話:漆黒の再襲と古の文献
魂の演説で士気を回復させたリュシエンヌは、再び深い眠りに落ちた。彼女の「希望の光」は、〈黒影将軍〉グラディウスの注意を強く引く結果となる。
姫の命を守るため、ノーラは治療法を求め、皇宮の禁じられた書庫へと向かう。一方、帝都の門前では、グラディウスの漆黒の再襲が始まろうとしていた。
I. 姫の眠りと新たな予感
皇宮の広場での演説から数時間後、リュシエンヌは再び野戦病院のベッドで静かに眠っていた。その脈は微弱で、全身の力が抜け切っている。演説によって一時的に精神力を使い果たしただけでなく、ユリウスの偽装工作のために、回復途中の身体にさらに負担をかけた結果だった。
ノーラは、その横で膝をつき、治療薬の調合を急ぐ医官たちを鋭い銀色の瞳で見つめていた。カイルが送り込んだ近衛騎士団の精鋭が、病院の周囲を厳重に固めている。
「医官。殿下の容態は?」ノーラは静かに問う。
「ノーラ様……生命に別状はありません。しかし、これ以上の紅血の解放は、殿下の精神と肉体を不可逆的に損なうでしょう」医官は声を潜めた。「あの力を使うたびに、姫様の寿命が削られているように感じます」
ノーラは固く拳を握りしめた。
(私の忠誠心だけでは、殿下を守れない。グラディウスから、宮廷の裏切り者から、そして何よりも殿下の宿命から……)
その時、ユリウスが静かに病室に入ってきた。彼の顔には疲労の色が濃いが、その目は冴え渡っていた。
「ノーラ。兄上から報告だ。反乱軍が、再び東門に戦力を集中させ始めた」
「グラディウスが、動くのですね」ノーラは即座に理解した。
「そうだ。昨夜の姫の演説と、我々の偽装工作が、奴らの警戒心を解くどころか、怒りと焦燥を招いた。グラディウスは、姫が本当に回復したのか、それともこれは最後の足掻きなのか、直接確認しに来るだろう」
ユリウスは静かに言った。「そして、もし姫が再び倒れれば、内部の裏切り者たちは間違いなく二度目の凶行に及ぶ。今、我々に残された時間はない」
ノーラは立ち上がり、剣を握った。
「私が東門へ向かいます。グラディウスを引きつけ、時間を稼ぎます」
「待て、ノーラ」ユリウスが止めた。「君の傷はまだ深い。グラディウスの恐怖の瘴気は、君の精神を再び蝕むだろう。今は、兄上に任せるべきだ」
ノーラは首を横に振った。
「兄上は宮廷内の防衛が必要です。そして何より、私はグラディウスと戦うだけでは勝てないことを知りました。私には、姫を根源から守る方法を見つけなければならない」
ノーラは、リュシエンヌが眠るベッドを見つめた。紅血の力は、なぜリュシエンヌを蝕むのか。その力は、本当に単なる呪いなのか?
「ユリウス様。私に皇室の禁書庫への立ち入りを許可してください。紅血の力と、その代償について記された古の文献を探します」
ユリウスは驚いた顔をした。皇室の禁書庫は、皇帝の許しなくしては誰も入れない場所であり、そこには帝国の忌まわしい歴史の秘密が隠されていると噂されていた。
II. 禁書庫の探索と古代の秘密
ユリウスはしばし沈黙した後、小さく頷いた。
「わかった。禁書庫への立ち入りを許可する。ただし、君の傷は深い。警備として近衛兵数名をつける。決して無茶をするな」
ノーラは、傷ついた身体を顧みず、すぐに禁書庫へと向かった。禁書庫は皇宮の地下深く、冷たく湿った空気が漂う場所に位置していた。
彼女は、古の羊皮紙や石板が並ぶ書架の間を、急ぎ足で歩いた。彼女の銀色の瞳は、「紅血」「呪い」「アウローラ(皇帝家の姓)」「覚醒の代償」といったキーワードを追う。
数時間後、埃を被った奥の棚で、ノーラは一冊の石板と革紐で綴じられた古文書を見つけ出した。表紙には、紅い血のような染みと、古い言葉で『緋色の守護者(アウローラの盾)』と記されていた。
ノーラは、古文書を急いで開いた。そこには、代々皇帝家が伝えてきた歴史とは全く異なる、紅血の力の真の起源が記されていた。
それは、吸血鬼の呪いなどではなかった。
太古の時代、帝国に「深淵」と呼ばれる異世界の闇が襲来した際、当時の皇帝家が、その闇に対抗するために自己犠牲の呪文と、膨大な生命力を代償とした「対深淵魔導兵器」として、紅血の力を開発したという。
『——緋色の守護者は、その力を解き放つたび、世界の命運を護る代償として、自らの命の契約を喰らう。契約を断ち切らねば、力はやがて理性を喰らい、純粋な「守護の魔物」と化す』
ノーラは震えた。リュシエンヌの力は、呪いではなく、世界を護るための壮大な自己犠牲の契約だったのだ。そして、力の代償とは、単なる生命力の消耗ではなく、「人」としての理性の崩壊であった。
(リュシエンヌ様は、怪物になどなりはしない……! 彼女は、世界を護るための契約を背負っているだけだ!)
ノーラは、古文書の奥に記された、「契約を安定させるための儀式」についての記述を発見した。それは、紅血の力を持つ者が、最も信頼し、愛する者の「強い想い」を触媒として、力を安定させるという、詩的でありながら恐ろしい儀式だった。
ノーラは古文書を抱きしめた。
「リュシエンヌ様……必ず、あなたを救います。その契約を、私が共に背負います」
III. 漆黒の咆哮
ノーラが禁書庫で真実に辿り着いたその時、帝都の東門では、戦いが再開されようとしていた。
〈黒影将軍〉グラディウスが、再び門前に現れた。その周囲には、以前よりも濃く、禍々しい黒い瘴気が渦を巻いている。グラディウスの存在そのものが、絶望を具現化していた。
グラディウスは、城壁の上に立ち尽くす兵士たちを見上げ、低く唸った。
「無駄な光を放ちおって。紅の姫。貴様が倒れているのは承知している。その張り子の希望を、今度こそ砕いてくれる」
グラディウスは、巨大な黒鉄の大剣を大地に突き立てた。ゴオオオオ……!
地鳴りのような咆哮と共に、黒い瘴気が空へと立ち昇り、帝都全体を覆い始めた。兵士たちは、その瘴気に触れた瞬間、戦意を失い、武器を取り落とし、次々と膝をついていく。
「くそっ、これが奴の真の力か!」
現場を指揮していた騎士団の隊長が叫ぶ。士気は急速に崩壊し、防衛線は一気に後退を余儀なくされる。
「全員、退避せよ! このままでは全滅だ!」
グラディウスは、崩れゆく防衛線を冷徹に見つめ、一歩一歩、門へと近づいていく。
「姫よ。貴様の忠誠の騎士はどこへ行った? 貴様の希望は、この程度の闇で消えるのだ」
その時、グラディウスの背後の丘から、一隊の騎馬隊が駆け下りてきた。
騎士団長カイル・フォン・ヴァレンシュタインが、その先頭に立っていた。
「黒影将軍! 貴様を野放しにはしない!」
カイルは、リュシエンヌの騎士団長としての誇りと、妹ノーラを守りきれなかった怒りを剣に込め、グラディウスに斬りかかった。
グラディウスは、カイルを一瞥した。
「また、脆い忠誠の騎士か。貴様ら、何度同じ過ちを繰り返す」
カイルの剣は、グラディウスの甲冑に火花を散らす。その威力はノーラの比ではなかったが、巨将の甲冑には傷一つつけられない。
「無駄だ!」
グラディウスの反撃。カイルは辛うじて大剣を避けたが、その余波で愛馬が地面に叩きつけられ、カイル自身も地面に転がった。
「くっ……これが、化け物か……」
グラディウスはカイルを踏みつけることなく、冷たく言い放った。
「姫を連れてこい。さもなくば、この帝都は、一晩で灰になるだろう」
IV. 参謀の覚悟と兄の誇り
カイルがグラディウスに足止めされている間、ユリウスは皇宮の作戦会議室で、一人の重臣と対峙していた。それは、裏切り者の筆頭、レオンハルト公爵だった。
「ユリウス殿、観念しなさい」公爵は高笑いした。「姫君の偽装工作は、グラディウスの再襲を招いた。あなたは失敗した。今すぐ、姫君を我々に引き渡せ。和平が唯一の道だ」
「公爵、まだ諦めていませんよ」ユリウスは静かに言った。
ユリウスは、先ほどカイルに命じていた。もし自分が公爵に捕らえられたら、宮廷全体に裏切りの証拠を流すようにと。
「公爵は、ゼルヴァン公爵に恭順することで、より高い地位を約束されているのでしょう。しかし、ゼルヴァン公爵の目的は、帝国の再建ではありません。紅血の力、そしてその力の背後にある闇の主の計画に加担しているに過ぎない」
ユリウスの言葉が、公爵の顔から笑みを消した。
「なぜ、それを……」
「すべて、調査済みです」ユリウスは冷徹だった。「私は、あなた方裏切り者がいるからこそ、姫の隣で戦うことに意味を見出します。兄上とノーラが外で命を賭しているのに、内から崩壊させるなど、ヴァレンシュタイン家の名誉が許さない」
その時、ユリウスの袖の下で、通信魔導具が微かに光った。ノーラからだ。
ユリウスは、その通信を秘密裏に受信した。ノーラが禁書庫で紅血の真の起源と、安定の儀式について知ったこと。そして、グラディウスの真の目的が、闇の主の計画にあることを。
「公爵、もう時間切れです」ユリウスは言った。「あなたの裏切りは、姫の力の前には、単なる取るに足らない小石に過ぎない」
ユリウスは立ち上がり、通信魔導具を通じて、カイルに撤退とノーラの発見を指示した。
カイルは、グラディウスの前に立ち上がり、剣を大地に突き立てた。
「黒影将軍。今日は退く。だが、すぐに姫が回復し、紅血の真の力が貴様を打ち砕くだろう」
カイルはグラディウスに一礼し、馬を駆って撤退した。グラディウスは追撃せず、ただ漆黒の瞳でカイルの言葉を吟味した。
「……紅血の真の力、だと? 小賢しい……」
しかし、グラディウスの黒い瘴気は、完全に帝都の士気を砕いた。兵士たちは戦意を失い、東門は事実上の無人地帯となった。
帝都防衛の戦線は、絶望的な状況に陥った。ノーラが手に入れた古文書の秘密だけが、この闇を覆す唯一の光だった。
第6話「漆黒の再襲と古の文献」をお読みいただきありがとうございます。
グラディウスの再襲により、帝都の防衛線は崩壊寸前に陥りました。しかし、ノーラは姫を救うため、紅血の真の起源を記した古文書を発見しました!
それは、紅血の力が吸血鬼の呪いではなく、世界を護るための古代の契約であることを示していました。
次回、第7話「契約の儀式と二人を繋ぐ絆」では、ノーラが古文書に記された「契約の安定儀式」を実行し、リュシエンヌの治療を試みます。その儀式には、ノーラの「愛と想い」が必要となるのですが——。どうぞご期待ください!