第5話:夜襲の刃と紅血の残響
参謀ユリウスの偽装工作は、裏切り者たちを欺くどころか、決定的な行動へと駆り立てた。リュシエンヌの命を狙う暗殺の刃が、皇宮の夜を切り裂く。
病床の姫と重傷の騎士、そして老将軍。彼らの守りは極限まで薄い。騎士団長カイルと、辛うじて動けるノーラが、内部の闇と対峙する。
I. 闇に潜む刃
夜。皇宮の野戦病院の周囲は、ユリウスの厳命により、近衛騎士団が厳重に警備していた。しかし、闇は騎士団の目を欺き、静かに忍び込んでいた。
暗殺者の標的はただ一つ、リュシエンヌ・フォン・アウローラ。彼女の命が絶たれれば、和平と称した裏切り者の思惑が成就し、ゼルヴァン公爵への恭順が実現するからだ。
リュシエンヌの病室は、病院棟の奥、最も警備が手薄になりやすい場所に位置していた。夜の静寂の中、かすかな金属の擦れる音が、ノーラの耳を打った。
ノーラはベッドで横たわっていたが、浅い眠りの中にいた。その銀色の瞳は即座に開かれた。腹部の激痛を無視し、彼女は枕元に置いてあった剣の柄を握りしめる。
(来たか……!)
暗殺者は、音もなく、窓の外から病室の扉の前にまで到達していた。彼らの装束は黒一色で統一され、顔は覆面で隠されている。間違いなく、宮廷内の裏切り者が送り込んだプロの殺し屋集団だ。
「誰だ!」ノーラは立ち上がり、剣を構えた。その動きは傷のために鈍いが、騎士としての本能が、彼女を動かしていた。
暗殺者たちは返事をしない。彼らは任務遂行のみを目的とする冷徹な道具だった。扉を破り、三人の暗殺者が病室になだれ込んでくる。
ノーラはリュシエンヌのベッドの前に立つ。その細身の身体は、病床の姫を隠すように、盾となった。
「リュシエンヌ様には指一本触れさせない!」
暗殺者の一人が短剣を閃かせ、ノーラ目掛けて飛びかかった。ノーラは、その短剣を己の剣で受け止めた。キィン! 激しい衝撃が全身を襲い、腹部の傷が開きそうになる。
(重傷の身では、正面から三人相手は無理……!)
ノーラは即座に判断し、部屋全体を使うことを決めた。彼女は飛び退き、リュシエンヌのベッドを盾にし、暗殺者たちの連携を分断した。
「リュシエンヌ様、どうか耐えて……!」
その時、ノーラの足元から、微かな「紅血の残響」が立ち昇った。それはリュシエンヌが放った力の余波であり、ノーラの決死の覚悟に呼応するかのように、微かな紅い光となって部屋全体を包んだ。
暗殺者たちは、その光に一瞬怯んだ。彼らが恐れるのは、紅血の力が今、再発動するのではないかという疑念だった。
その一瞬の隙を、ノーラは見逃さなかった。彼女は剣を水平に払い、一人の暗殺者の喉元を切り裂いた。しかし、同時に別の暗殺者の短剣が、ノーラの左肩を深く切り裂いた。
「ぐっ!」ノーラは呻き、血が白い病衣を濡らす。
II. 兄の剣と騎士の怒り
その激しい音を聞きつけ、病院棟の外で警備に当たっていたカイル・フォン・ヴァレンシュタインが駆けつけた。
「ノーラ! 無事か!」
カイルは病室になだれ込むと、妹が血を流しながらも、姫を守り立っている姿を見た。そして、その部屋の中にいる暗殺者たちの存在、そして彼らを送り込んだ裏切り者たちの意図を瞬時に理解した。
カイルの怒りは、まさに噴火のようだった。
「貴様ら……! 一体誰の指図だ! 帝国の希望に刃を向けるなど、騎士の風上にも置けぬ!」
カイルは迷いなく剣を抜いた。彼の剣は、ノーラのような洗練された美しさではなく、剛直で圧倒的な力に満ちていた。
カイルの一撃は、暗殺者たちを一掃するほどの破壊力を持っていた。剣が閃くたびに、暗殺者たちが悲鳴を上げて倒れる。彼は瞬く間に残りの二人を斬り捨てた。
しかし、一人の暗殺者が、最後の力を振り絞ってリュシエンヌのベッドへと突進した。
「姫君の首を、いただく!」
「させるか!」
カイルは叫んだが、距離が遠い。その時、血を流しながらも立ち尽くしていたノーラが、身体を回転させ、剣を投げた。
ノーラの剣は、暗殺者の喉元に深く突き刺さった。
静寂が戻った。カイルはノーラの元へ駆けつけ、その肩を支えた。
「ノーラ! お前、なんて無茶を……」
「兄上……間に合って、よかったです」ノーラは笑った。その顔は蒼白だったが、安堵に満ちていた。
カイルは、リュシエンヌの無事を確認すると、妹の傷を縛り、静かに言った。
「この暗殺者たちは、単なる道具ではない。レオンハルト公爵め……我らの猶予は既に尽きたようだ」
III. 参謀の謀略と裏切りの炙り出し
翌朝、カイルは暗殺者の死体をレオンハルト公爵の私邸の門前に投げ込み、公然と挑戦状を叩きつけた。
一方、ユリウスは、この事件を最大限に利用しようと動いていた。
作戦会議室。ユリウスは、負傷したノーラとハーゲン将軍、そしてリュシエンヌの姿がない中、毅然と会議を主導した。
「昨夜、リュシエンヌ殿下が暗殺されかけました。これは単なる敵の奇襲ではありません。内部の裏切り者による凶行です」ユリウスは冷徹に言い放った。
レオンハルト公爵は顔色を変えずに、優雅に扇を広げる。
「何を言うか、ユリウス殿。姫君の敵は外の反乱軍だ。騎士団の警備の不備ではないか?」
「警備の不備ではありません。暗殺者は、騎士団の目を完璧に欺き、皇宮内部の機密通路を熟知していました」ユリウスは公爵をまっすぐに見つめた。「そして、彼らが持っていたのは、反乱軍の標準装備ではない、宮廷貴族が私的に使う短剣でした」
ユリウスはここで、あえて決定的な証拠は提示しなかった。彼の狙いは、裏切り者たちを追い詰めることではなく、「裏切り者が誰であるか」を他の重臣たちに明確に認識させることだった。
「公爵。暗殺者が姫の命を狙ったのは、姫が病床で動けないと知っていたからです。しかし、昨夜の襲撃にも関わらず、今朝、姫は完全に回復されたという報告が入りました」
ユリウスは、嘘を、まるで揺るぎない事実であるかのように言い放った。
「な、なんだと……?」公爵は扇を落とし、目を見開いた。
「姫は今夜、全兵士に向けて直接演説を行い、出陣の号令を下す予定です。これをもって、公爵が懸念されていた『和平の検討』は完全に却下とさせていただきます」
ユリウスは、「姫の回復」という偽情報を流すことで、裏切り者たちを極度の混乱に陥れた。彼らは、姫が本当に回復したのか、それともこれは罠なのか、判断がつかなくなる。
そして、ユリウスの真の目的は、この混乱に乗じて、裏切り者たちが自滅するのを待つことだった。
IV. 紅血の光、再び
その夜。皇宮の広場は、集められた兵士たちの熱気で満ちていた。
リュシエンヌは、ノーラとカイルに支えられながら、バルコニーに現れた。彼女の顔色はまだ蒼白だったが、その真紅の瞳は揺るぎない光を放っていた。リュシエンヌは、ユリウスの計画を知らされていた。
兵士たちの間に、どよめきが走る。
「姫君だ! 本当に回復された!」
「これで勝てる! 紅血の姫がいれば!」
リュシエンヌは、深呼吸をした。その身体はまだ紅血の代償で悲鳴を上げている。彼女は、演説を終えれば、再び倒れるかもしれない。
それでも、彼女は声を張り上げた。
「兵よ! 聞いてほしい!」
彼女の声は、病み上がりとは思えないほどの力と決意に満ちていた。
「私は昨日、命を狙われた。外の敵だけでなく、内なる闇も、我々の希望を摘もうとしている」
兵士たちの間で、ざわめきが起こる。
「だが、私は生きて、ここに立っている! それは、私の隣にいるノーラが、ハーゲン将軍が、そして私の騎士団が、命を賭して私を守ってくれたからだ!」
リュシエンヌはノーラの顔を見た。ノーラの目には涙が浮かんでいた。
「私は知っている。貴様らが何を恐れているか。飢えか? 死か? それとも、グラディウスの恐怖か?」
リュシエンヌは胸に手を当てた。
「恐れることはない。私が、貴様らの盾となる。私の紅血の力が、この帝都の、そして貴様らの心に宿る限り、闇は決して希望を呑み込むことはできない!」
演説が終わった瞬間、兵士たちの絶叫のような鬨の声が、帝都の空を切り裂いた。士気は最高潮に達した。
その夜、リュシエンヌは再び倒れた。しかし、彼女が発した「希望の光」は、ユリウスの思惑通り、裏切り者たちを混乱させ、帝都軍に新たな戦闘の意志をもたらした。
そして、その光は、再びグラディウスの注意を引くことになった。
第5話「夜襲の刃と紅血の残響」をお読みいただきありがとうございます。
リュシエンヌの命を狙った暗殺者の襲撃は、ノーラとカイル兄上の覚悟の共闘によって阻止されました。そして、参謀ユリウスの大胆な偽装工作と、リュシエンヌの魂の演説が、帝都軍の士気を最高潮に高めました。
しかし、この「希望の光」は、グラディウスと、そしてゼルヴァン公爵の真の切り札を呼び寄せることになります。
次回、第6話「漆黒の再襲と古の文献」では、グラディウスが再び門前に現れ、ノーラは姫の力を守るため、紅血の力の秘密を記した古の文献を探し始めます。どうぞご期待ください!