第2話:血の代償と黒影の咆哮
紅血の力を解放し、魔導兵器《黒鉄の獣》を撃破したリュシエンヌ。その勝利は、彼女の命の炎を激しく燃やし尽くす代償を伴った。
リュシエンヌが意識を失う中、戦場は休む間もなく次の脅威を迎える。それは、反乱軍最強の切り札、〈黒影将軍〉グラディウス。彼の放つ「恐怖の瘴気」は、兵士たちの戦意を奪い、帝都の門を破ろうとしていた。
主が倒れた今、帝都の命運と姫の安寧は、ただ一人の騎士に託される。
「私は、殿下の騎士です」
主への揺るぎなき忠誠を胸に、ノーラは単騎、絶望的な戦場へと駆ける。これは、紅血の姫の盾となるべく、騎士が己の全てを賭す物語。
I. 勝利の代償
夜が明ける頃、帝都の城壁前は黒煙と血の匂いが立ち込めていた。反乱軍の第一波は撃退されたものの、帝都軍の疲弊は甚大だった。
リュシエンヌは、ノーラに抱きかかえられ、辛うじて戦場を離れた。紅血の光は消え失せ、その身体は蝋燭の火が消えた後のように冷えきっている。
「リュシエンヌ様、大丈夫ですか? 脈が、こんなにも弱く……」
ノーラは血と煤に汚れたリュシエンヌを、皇宮内の野戦病院へと運んだ。彼女の銀色の瞳は不安に揺れていた。紅血を解放した後のリュシエンヌは、文字通り命の炎を燃やし尽くした状態になる。
「……ノーラ。心配、ないわ」
リュシエンヌの声は、蚊の鳴くようにか細かった。だが、彼女の瞳には、まだ真紅の残光が宿っている。
「戦わなければ、皆が死ぬ。私は、選んだの。これが、私の道」
ノーラは何も言わず、ただ固く頷いた。彼女は知っている。リュシエンヌが背負う宿命の重さを。その力を振るうたびに、彼女の「人」としての時間が削られていることを。
「医官! 殿下の手当てを急いで!」
ノーラは医官を呼びつけると、すぐさま老将ハーゲンを探しに向かった。
城壁の上では、片目に眼帯をかけた老将ハーゲンが、血まみれの杖にもたれて立っていた。彼の周囲には、槍を失い、盾を砕かれた兵士たちが膝をついている。
「ハーゲン将軍!」
「ノーラ嬢か。姫君はご無事か?」
「はい。ですが、重度の疲労です。すぐには立てません」
ハーゲンは深く息を吐いた。
「そうか……だが、我々は感謝せねばならぬ。姫君が紅血の力を使わねば、あの黒鉄の獣に城壁は破られていた。この勝利は、我々の命を繋いだ」
彼は周囲の兵士たちを見渡し、声を張り上げた。
「兵よ! 姫君は我らを救われた! 我々の剣は、姫君の覚悟に応えねばならぬ!」
兵士たちの間に、再び弱々しいながらも鬨の声が響いた。だが、その喜びは長くは続かない。
「報告! ゼルヴァン公爵の本隊が、早くも第二波の攻撃準備に入りました!」
伝令が血相を変えて駆けつけてきた。
「敵は、我々が疲弊しきっていることを知っている! 休む間もなく、東門を中心に全軍突撃の構えです!」
ハーゲンは杖を強く握りしめた。
「くそっ……まるで我々の力を試すように。姫君なしで、どう持ちこたえるというのか……」
II. 黒影将軍、戦場を支配す
その時だった。地を這うような、重く禍々しい声が戦場全体に響き渡った。
「勝利の喜びに浸るがいい。だが、その喜びは、すぐさま恐怖に変わる」
黒煙の向こうから、黒き甲冑に身を包んだ巨躯が、悠然と歩を進めてきた。
「……黒影将軍、グラディウス!」
ハーゲン将軍の顔色が、初めて恐怖に染まった。
グラディウスは漆黒の大剣を肩に担ぎ上げ、動く死体のように重々しい足取りで前進する。彼の周囲にいた敵兵すら、その威圧感に一歩後ずさった。
「姫よ……その血をよこせ。貴様がどれほど力を誇ろうとも──漆黒は紅を呑み込む」
その声は、兵士たちの背筋を凍りつかせ、鼓動を乱す呪言のようだった。
グラディウスは、ただその存在そのものが、兵士たちの戦意を削いでいく恐怖の化身だった。
「ひ、ひるむな! 弓兵、放て!」
ハーゲンは声を振り絞ったが、放たれた矢はグラディウスの黒甲冑に触れることなく、まるで闇に吸い込まれるように霧散した。
「無駄な足掻きよ」
グラディウスは一歩踏み出し、大剣を一振りする。
漆黒の閃光が奔り、城壁の石畳を深々と抉った。
兵士たちの膝が、音を立てて崩れ落ちる。恐怖に心臓を握りつぶされ、武器を持つ手が震える。
「このままでは、兵の士気がゼロになる……!」
ハーゲンは悟った。姫君がいない今、グラディウスの「恐怖」の力に対抗できる者など、この場にはいない。
III. 騎士の決意と分断
野戦病院。ベッドに横たわるリュシエンヌの傍らで、ノーラは冷静に状況を分析していた。グラディウスの出現、そして彼の目的が「紅血の力」にあること。
「リュシエンヌ様……」
ノーラはそっと姫の手を握った。リュシエンヌはまだ意識が朦朧としている。
その時、ハーゲン将軍の伝令が駆け込んできた。
「ノーラ様! 黒影将軍が、東門に集中しています! 彼の黒い瘴気が兵士たちの心を砕いています! このままでは門が破られます!」
ノーラの銀色の瞳に、強い決意の光が宿った。
「私が、行きます」
「な、何を仰る! あなたまで倒れれば、殿下を誰が……」
「私が行くからこそ、殿下はここで休めるのです!」
ノーラは漆黒の鎧を纏い、剣を握りしめた。
「グラディウスの狙いは殿下です。私が殿下の盾となり、時間を稼ぐ。将軍には、その間に東門の防衛線を再構築し、市民の避難経路を確保していただきたい!」
「しかし、あの巨将を相手に、たった一人で……」
「私は殿下の騎士です」
ノーラは凛とした声で言い放った。
「殿下が紅血の力で帝都の未来を賭すなら、私はこの命で、殿下の現在を守り抜きます」
彼女はリュシエンヌにそっと口づけを落とした。
「必ず、戻ります。約束です、リュシエンヌ様」
ノーラは数十名の遊撃兵を率い、血煙が立ち込める東門へと馬を駆った。
IV. 黒と金の対峙
東門前。グラディウスはすでに城門に迫っていた。彼の周囲に渦巻く黒い瘴気は、触れた兵士たちの生命力を奪うかのように、戦意を削ぎ取っていく。
「ふむ……誰一人、私の前に立てぬか。やはり恐怖こそが、戦場を支配する」
グラディウスが低く唸った瞬間、城門は破城槌の一撃で大きく軋んだ。
その時、グラディウスの背後から、一つの光が差し込んだ。
「止めなさい、黒影将軍!」
ノーラだった。金の髪を炎に照らされ、その姿は夜の戦場に立つ黄金の騎士のようだった。
グラディウスはゆっくりと振り返った。
「ほう……紅の姫の傍らにいた、ただの騎士か。貴様の忠誠心は褒めてやろう。だが、この漆黒は、貴様のような脆い光では呑み込めぬ」
ノーラは剣を構え、一切怯むことなくグラディウスを睨みつけた。
「脆いなどと、誰が決めましたか! 私は、私が仕える主の希望を、貴様のような闇に渡すつもりはありません!」
ノーラは地を蹴った。
銀色の瞳に、リュシエンヌへの想いを全て込めて。
帝都防衛の第二ラウンドは、紅血の姫の盾たるノーラの、決死の単騎突撃によって幕を開けた。
「紅血の吸血姫戦記」、第2話「血の代償と黒影の咆哮」をお読みいただきありがとうございます。
第1話の勝利の代償は大きく、リュシエンヌは休養を余儀なくされました。そして、その隙を突くように現れた黒影将軍グラディウスの圧倒的な存在感と、彼が放つ「恐怖」の力は、帝都全体に新たな絶望をもたらしました。
しかし、その絶望の中、ノーラは迷うことなくリュシエンヌの「盾」となることを選びました。次回、ついに黄金の騎士ノーラと、漆黒の巨将グラディウスの激突が始まります。リュシエンヌの紅血の力なしに、ノーラはグラディウスの恐怖を打ち破ることができるのか?
そして、姫の身を案じ、宮廷で動くノーラの兄たち(カイル、ユリウス)の存在にもご注目ください。
第3話「忠誠の剣、闇を裂く」に、どうぞご期待ください!