第11話:紅血殺しの準備とノーラの決意
リュシエンヌは覚醒し、ノーラは自己犠牲の契約を胸に沈黙する。姫の命を護るため、ノーラはあえてリュシエンヌの傍を離れ、決死の遊撃戦へ。
一方、敗走したゼルヴァン公爵は、紅血の力を無効化し奪い取るための最終兵器「紅血殺し(ブラッド・スレイヤー)」の準備を急ぐ。帝国の命運を賭けた最終決戦の幕が開く。
I. 覚醒の光と騎士の沈黙
グラディウスの軍勢を打ち破った勝利の歓声は、夜が明けてもなお帝都に響いていた。しかし、皇宮の野戦病院の一室は、深い沈黙に包まれていた。
ノーラ・フォン・ヴァレンシュタインは、リュシエンヌのベッドの傍で、その目覚めを待っていた。リュシエンヌの顔色は、儀式以前の蒼白さから回復し、微かな血色が戻っていたが、ノーラが昨日感じた契約の反動、すなわち自身の命を護るためにリュシエンヌの生命力を消費した事実が、ノーラの心臓を締め付けていた。
ノーラの左手の甲の紅い痕は、目覚めていないリュシエンヌの体温と共鳴し、穏やかに光っていた。
(私は、殿下の盾。だが、殿下を護る度に、殿下の生命を代償に消費する……。この契約は、私たちの愛を、自己犠牲の連鎖に変えてしまった)
ノーラは、この残酷な真実をリュシエンヌに伝えるべきか、深く葛藤していた。もし伝えれば、リュシエンヌは二度と紅血の力を使わなくなるだろう。それは、帝都を守る最大の力を封じることであり、結果的に帝国全体の滅亡を招く。しかし、伝えなければ、リュシエンヌは自覚なく自身とノーラの生命力を削り続けることになる。
「……ノーラ」
か細い声が、沈黙を破った。リュシエンヌが、ゆっくりと目を開けた。
リュシエンヌの真紅の瞳は、以前のような疲労と苦痛の色ではなく、透き通るような穏やかな光を湛えていた。彼女の視線は、真っ直ぐにノーラを捉えた。
「ノーラ……また、私を護ってくれたのね」
リュリュシエンヌは、自分の身体の異変を感じていなかった。むしろ、彼女は「自身の中に、ノーラの温かい意識がある」という、不思議な感覚に満たされていた。
「殿下! お目覚めになられたのですね!」ノーラは涙をこらえ、リュシエンヌの手を握った。「ご容態はいかがですか? もう、痛みは……」
リュシエンヌは微笑んだ。その笑顔は、ノーラにとって何よりも代えがたい光だった。
「不思議ね。身体はまだ重いけれど、心はとても穏やかよ。まるで、私の魂の一部に、貴女が寄り添ってくれているみたい」
ノーラは、リュシエンヌのその言葉に、胸が潰れるような思いがした。リュシエンヌは、魂の契約がもたらした精神的な安寧だけを感じ取り、生命力の消耗という現実には気づいていなかったのだ。
「ノーラ、貴女の傷はどう? グラディウスの攻撃を受けたのでしょう」
「私の傷はもう大丈夫です。殿下の……守護の光のおかげで、精神的に回復しました」ノーラは嘘をついた。彼女は、この残酷な真実を、姫の安寧を最優先するために、沈黙という形で封印することを決意した。
(殿下。私は、あなたを護るためなら、この身に降りかかるいかなる罪も背負います。どうか、今はその光を、帝国の希望としてください)
リュシエンヌはノーラの左手の甲に触れた。ノーラの紅い痕が、リュシエンヌの指先に触れた瞬間、微かに熱を帯びた。
「ノーラ、ありがとう。貴女がいてくれて、本当に良かった」
リュシエンヌの安堵の言葉は、ノーラにとって、最大の報酬であり、最も重い鎖となった。
II. 参謀の報告と次の戦況
リュシエンヌの目覚めは、宮廷内に瞬く間に広がり、ユリウスとカイル、そしてハーゲン将軍が病室へと駆けつけた。
「殿下! お目覚め、誠におめでとうございます!」ユリウスは心から安堵の表情を見せた。
「ユリウス、貴女の知略でグラディウスを退けたと聞きました。見事です」リュシエンヌは感謝の言葉を述べた。
ユリウスは、リュシエンヌの安定した様子を確認すると、すぐに軍事的な報告に移った。
「殿下、グラディウスは一時撤退しましたが、ゼルヴァン公爵軍は依然として健在です。そして、我々はレオンハルト公爵の裏切りにより、次の敵の戦略を予測しています」
ユリウスは、グラディウスの恐怖の瘴気が通用しなかった今、ゼルヴァン公爵が紅血の力を物理的に無力化する手段に訴えてくるだろうと予測した。
「ノーラが禁書庫で発見した古文書によれば、紅血の力は『対深淵魔導兵器』として開発されたもの。当然、それを無効化する『対紅血兵器』が存在する可能性が高い。そして、ゼルヴァン公爵は魔導工学の権威です」
カイルは不安を露わにした。「対紅血兵器だと? もしそれが本当なら、姫の力が無力化されてしまうではないか!」
リュシエンヌは静かに頷いた。「覚悟はしていました。ゼルヴァン公爵は、ただ私を殺したいわけではない。紅血の力を奪いたい。そのためには、無力化し、安全に捕獲する方法を用意するはずです」
ノーラは、契約の秘密を胸に秘めたまま、ユリウスに質問した。
「ユリウス様。その『紅血殺し』と呼ばれる兵器の、具体的な情報は?」
「確たる情報はありません。しかし、ゼルヴァン公爵が以前、『古代の魔導鉱物を用いた、エネルギー吸収装置』について研究していた記録があります。もし、その技術を完成させていれば……」ユリウスは言葉を濁した。
その装置は、紅血の力を無効化するだけでなく、吸収し、ゼルヴァン公爵自身のものとする可能性を秘めていた。
ユリウスは、リュシエンヌとノーラをまっすぐに見つめ、今後の作戦を提案した。
「殿下。我々は、紅血の力に頼る最終防衛の体制から、遊撃による消耗戦へと戦略を転換します。姫の守護の光を**『希望の象徴』として帝都内部に留め、我々騎士団が『姫の剣』**として外へ出る」
リュシエンヌは、ノーラを見た。ノーラの瞳には、「行かせてください」という強い意志が宿っていた。
「わかったわ。ユリウス、貴女の知略に、私の命と未来を賭けるわ。ノーラ、貴女は私の騎士。『紅血の守護者』として、私と帝国の命運を、貴女の剣に託します」
ノーラは、リュシエンヌの言葉に深く頭を下げた。この決定は、ノーラとリュシエンヌが離れることを意味していた。離れていれば、魂の共鳴は弱まる。ノーラが負傷しても、リュシエンヌの生命力を消費することはない。それは、ノーラが秘密の契約の代償を避けるための、自己の決断でもあった。
III. ゼルヴァンの最終兵器
一方、ゼルヴァン公爵の本陣では、グラディウスの敗走によって、最終決戦の準備が加速していた。
巨大な魔導工廠の奥深くに、『紅血殺し(ブラッド・スレイヤー)』と呼ばれる巨大な兵器が組み上げられていた。それは、黒い古代の魔導鉱物で構成された巨大な捕獲檻のような形をしており、内部にはエネルギーを吸収するための複雑な魔導回路が張り巡らされていた。
ゼルヴァン公爵は、その兵器の設計図を検分しながら、グラディウスに冷徹な命令を下した。
「グラディウス。貴様の恐怖の瘴気は、もはや姫の『守護の光』には通用しない。姫の力が、理性を伴う安定期に入ったのだ。貴様は、その力で帝都を攻めるのではなく、姫を誘い出すための囮となれ」
グラディウスは、敗北の屈辱を噛み締めながら、無言で頷いた。
「御意。姫を、この『紅血殺し』の射程距離に誘い出します」
ゼルヴァン公爵は、不敵な笑みを浮かべた。
「良いか、グラディウス。この『紅血殺し』は、姫の力を無力化するだけでなく、その力を完全に奪い取る。奪った紅血の力は、闇の主への最高の貢物となるだろう」
ゼルヴァン公爵の真の目的は、帝国の支配ではなく、闇の主への献上にあった。彼は、闇の主の力によって、世界の支配者となる野望を抱いていた。
「準備は三日で完了する。三日後、貴様は全軍をもって帝都を包囲せよ。そして、姫の騎士ノーラを誘い出し、姫を単独でこの兵器の射程圏内へと導け」
ゼルヴァン公爵の戦略は、姫の騎士であるノーラの忠誠心を利用したものだった。リュシエンヌが戦場に出ることはない。しかし、ノーラが窮地に陥れば、姫は必ず動く。
「ノーラ・フォン・ヴァレンシュタイン。貴様の献身的な愛が、姫の命運を、そして世界の運命を決めることになるだろう」
IV. 騎士の誓いと別れの夜
皇宮の野戦病院。ノーラは、出撃に備えて、傷の手当てを念入りに施していた。カイルの甲冑を身に着け、剣を研ぐノーラの姿は、孤高の騎士の決意に満ちていた。
その背後から、リュシエンヌが、そっとノーラを抱きしめた。
「ノーラ……。行かないでほしい、と言いたいところだけど」
リュシエンヌの声は、微かに震えていた。
「殿下……」
「私は、貴女の騎士としての誇りを奪うことはできない。貴女は、私が最も信頼する私の剣だもの。貴女の剣が、帝国の希望を切り開く。それはわかっている」
ノーラは振り返り、リュシエンヌの顔を見つめた。この愛する主のために、自分はどんな犠牲も払う。そして、契約の真実は、永遠に沈黙する。
「殿下。私は、必ず勝利し、無事に戻ります。そして、戻った暁には……あなたの傍を、二度と離れません」
ノーラは、「あなたの生命力を消費しない」という誓いを、この「二度と離れない」という言葉に込めた。
リュシエンヌは、ノーラの頬に手を触れた。
「わかったわ。約束よ。私は、貴女が戻るまで、この帝都の『希望の光』として、ここで待ち続ける」
リュシエンヌは、ノーラの左手の甲の紅い痕に、そっと口付けた。
「その痕は、貴女が私を護ってくれた証。そして、私たちが結ばれた証ね」
ノーラは、リュシエンヌの唇の感触が、自分の心臓にまで響くのを感じた。
(殿下。この痕は、あなたと私の自己犠牲の契約の証です。私があなたを愛する限り、私はあなたを護るために、この宿命を背負い続けます)
二人は静かに抱き合った。ノーラの身体から、リュシエンヌの生命力が微かに流れ込んでいる。しかし、ノーラはその事実を押し殺し、リュシエンヌの安堵の温もりだけを感じ取ろうとした。
そして夜が明け、ノーラはカイル、ハーゲン将軍と共に、決死の遊撃戦へと出撃した。
リュシエンヌは、ノーラの後ろ姿が消えるまで、その部屋の窓から見送っていた。彼女の瞳には、「希望の光」が宿っていたが、その光の裏側で、微かな疲労の色が、再び忍び寄ってきていた。
「紅血殺し」が起動するまでの猶予は、あと三日。ノーラとユリウスの知略は、ゼルヴァン公爵の最後の切り札を打ち破ることができるのか。そして、ノーラの自己犠牲の契約は、いつまで秘密でいられるのか。世界を揺るがす最終決戦の幕は、既に切って落とされていた。
第11話「紅血殺しの準備とノーラの決意」をお読みいただきありがとうございます。
ノーラは愛と献身から、契約の真実を伏せることを決意し、姫の傍を離れて遊撃戦へと出撃しました。リュシエンヌの命を護るための、孤高の戦いが始まります。
そして、ゼルヴァン公爵の最終兵器「紅血殺し」がその姿を現し、帝都への総攻撃まで残された猶予は三日。
次回、第12話「遊撃の剣と公爵の誘い」では、ノーラたちが敵の補給線に対し激しい遊撃戦を展開します。しかし、ゼルヴァン公爵はノーラの忠誠心を突く、悪魔的な誘いの罠を仕掛けます。どうぞご期待ください!
 




