《蒼苔の窟》初めての魔法
朝の街は、まだ涼しい風が石畳を撫でていた。
宿の扉を押し開けた瞬間、ジークが大きく伸びをして声を張る。
「よっしゃー! 初ダンジョンだ、気合い入れていくぜ!」
ザンドフェルンの朝の通りに、ジークの声がやたら元気よく響く。
「もう……そんなにはしゃいで……こっちは夜も眠れなかったのに……」
ティナがこれからいく迷宮の不安さに、小さくため息をつき、弟を横目でにらむ。
「心配しすぎよ、ティナ」
リーナがやわらかく微笑み、娘の肩に手を置く。
「ジークは元気なほうが、みんなも安心できるでしょ」
「おう、任せとけ!」
ジークは胸をドンと叩き、ティナは呆れ、父のガイは低くぼそりとつぶやいた。
「……元気すぎて突っ走らなきゃいいがな」
――(ほんと、いい意味で“家族旅行”みたいだな。)
『……お前も混ざれば? ほら、遠慮して端っこ歩いてんじゃねえよ』
脳内のボルトがニヤつく声で言う。
(……意識させんのやめろ、俺が空気読めない子みたいになるだろ)
――この雰囲気、緊張より期待の方が大きい。
カミナは小さく息を吸い込み、胸の奥の鼓動を確かめた。
今日は、村での暴走以来――初めて雷魔法を使う日だ。
あのときの眩しさと轟音が、まだ耳の奥に残っている気がする。
街外れの小道を進む途中、ガイがふと隣のカミナを見やる。
「……雷魔法、あれから調子はどうだ?」
「とりあえず制御はできるかな……
でも……一瞬、敵を痺れさせるくらいしかできないと思う」
「ほんの一瞬の差が、生死を分ける。それで十分だ」
ガイは短く言い切り、視線を前へ戻す。
その背中は、朝靄の中でもぶれず、頼もしさを放っていた。
ザルドフェルン迷宮群・第一迷宮《蒼苔の窟》
やがて、岩肌に穿たれた大きな洞窟が現れる。入口には簡素な柵とギルドの紋章が刻まれた石碑。
「このダンジョンは二十階層だ。五階ごとにフロアボスがいる。今日はとりあえず五階層を攻略後、出現する帰還陣で帰るぞ」
ガイが説明を終えると、全員は頷き、洞窟の薄暗がりへと足を踏み入れた。
――陣形は昨夜の相談通りだ。
前衛:鉄壁式のリーナと破剣式のジーク。
中衛:全流派を扱えるガイ。
後衛:魔法を使えるカミナとティナ。
数歩進むごとに、外の光は薄れ、壁面の苔がぼんやりと緑色に光を放つ。
頭上を黒い影がかすめ、カサカサと羽音を立てて飛び去った――小さな洞窟コウモリだ。
岩の隙間には白く細いキノコが群生し、しっとりと水を含んだ根のような蔓が垂れ下がっている。
足元には地下水がしみ出し、小さな水たまりが点々と続く。
ひんやりと湿った空気と、土と苔が混じった匂いが肺の奥まで入り込んだ。
そんな中、最初の敵が現れた。
ゴブリン三体。金属片をつぎはぎした短剣を握り、ギギッと声をあげて迫ってくる。
手の中に走る震えを押さえ込むように、深く息を吸った。
あの日――焦げた匂い、目が焼ける閃光、耳をつんざく轟音。
暴走する雷が、体の内側から皮膚を裂くように暴れ狂った感覚。
その悪夢が脳裏をかすめ、心臓が跳ねる。
『相棒、落ち着け。今回は精神が違う。魔法の制御はお前が握ってる。魔法を使う時、双子やヴォルグが唱えてた真言……』
その瞬間、脳内にピキンと火花が走った。
『――そうだ! 漫画やアニメでよく見ただろ? 詠唱をするんだ! イメージを固めて、言葉に変えろ!』
ボルトの声が、心の奥で閃光のように弾ける。
カミナは唱える。
「――雷よ、走れ!」
瞬間、空気が裂けた。肌が粟立ち、舌先に鉄の味。
だが――今回は暴走しない。
掌から放たれた白い閃光が一直線に走り、ゴブリンたちが痙攣して崩れ落ちる。
「……おっ」
カミナの放った雷に、ガイがわずかに眉を上げる。同時に、リーナとジークが踏み込み、刃の閃きが洞窟の闇を裂く。
わずか数秒でゴブリンの姿は消え、残るのは魔石だけ。
息を吐くと、手の震えはいつの間にか収まっていた。
『よくやった。これが制御だ。その感覚、忘れるなよ』
「お、こいつら……なんか落としたぞ」ジークが足元を指さす。
転がっていたのはビー玉ほどの半透明な結晶。淡く光っている。
「魔石だ。純度は低いが、ギルドに持ち込めば銅貨数枚にはなる。塵も積もれば山となるってやつだ」
リーナが魔石を拾うと
「……つまり、これがご飯代になるってわけね」
『相棒も忘れずに拾う癖つけとけよ。探索家族の必須アイテムだぞ』
ガイがカミナに目を向ける。
「その詠唱、どこで覚えた?」
ボルトから教わったとは言えず、カミナは肩をすくめる。
「……双子やヴォルグの魔法を見て真似してみたんだ。言霊っていうのか? 魔法に言葉で想いをのせる……あれで威力が増してるようだったから」
「俺にはわからない感覚だが……お前は賢いヤツだ。あとはビビらず、その調子でいけ」
ガイはそう言って背を向ける。
「魔法に言葉で想いをのせる……」
ティナが小さくつぶやいて考えているようだった。
足元の石畳は、奥へ進むごとに苔に覆われ、湿った匂いが鼻を刺す。
壁の割れ目からは地下水が滴り、どこからか水音が響いていた。
やがて通路が開け、小さな空洞に出る。
天井の割れ目から差し込む淡い光が、青く透き通った池を照らしている。
そのほとりには、巨体のイノシシに似た魔物が横たわり、ゆっくりと腹を上下させていた。
硬い皮膚は石のように灰色で、牙は短剣ほどの長さがある。
「……寝てる?」
ジークが小声で問うと、リーナが首を横に振る。
「油断は禁物よ。息遣いが荒い……私たちの気配には気づいているわ」
池の脇を慎重に抜け、奥の通路へ進む。
次の曲がり角を曲がった瞬間――鈍い緑の影が飛び出した。
「ゴブリン!」
ティナが弓を構え、リーナが盾で正面から受け止める。
カミナは雷を指先に集め、短く詠唱した。
「――雷よ、穿て!」
青白い閃光が走り、ゴブリンが痙攣して崩れ落ちる。
すかさずガイとジークが飛び込み、止めを刺した。
「兄貴のその魔法、最高だな!」
ジークが感心したように笑う。
ティナは申し訳なさそうに、視線を落とした。
「……私、さっきから全然役に立ててない。ごめんね」
「大丈夫だ、ティナ」
ガイが静かに言う。
「俺だってまだ何もしてない。役割分担ってもんがある。お前は怪我を治すイメージを膨らませとけ。いざという時、頼むぞ」
ティナは小さく頷いた。
その先には、螺旋を描く石の階段がぽっかりと口を開けていた。
地下からは、生ぬるい湿気と甘ったるい匂いが漂ってくる。
ゆっくりと階段を降りると――そこは広い円形の空間だった。
床一面に、透明なゼリー状の塊が蠢いている。
光を反射して虹色にきらめくその中には、骨や錆びた剣が沈んでいた。
「スライム……だよな、これ?」
ジークがごくりと唾を飲む。
その塊はじわじわと形を変え、こちらに向かって這い寄ってくる。