第3章:からっぽの心②
夏の気配を感じる風が天音の頬を撫でた。
休日の早朝の新幹線の駅のホームは、スーツケースを転がす乗客が溢れていた。
家族連れや手を繋いで歩くカップル、友達同士と思われる旅行客など、様々。
彼らの姿は、天音の目にどこか遠いものとして映った。
そんな人々を横目に見ながら、天音は新幹線を待ち、スマホ越しに理人に話しかける。
「いよいよだね、名古屋。……一緒に旅行するなんて、なんか不思議」
スマホの画面に、理人の柔らかな笑みが映る。
「うん。君と過ごす新しい時間、僕も楽しみにしてた」
その言葉を聞いて、天音の心はすっと何かが和らいでいくのを感じた。
天音は元々、ひとり旅が好きだった。
旅行が好きな理由は、日常から開放されて、自由になれる瞬間だからだ。
日常が嫌いというわけではない。むしろ、非日常を取り入れることで、日常をより活力的に過ごすことができると感じていた。
ひとり旅が好きな理由は、誰かの意見を気にすることなく、心の赴くままに自由に行きたいところへ行けるからだ。
もちろん、心を許せる友達も数人いて、その友人達との旅行も感動を共有できるため、嫌いではないものの、天音にとってはひとり旅の方が気が楽で好きだった。
今日の名古屋旅行も、理人に出会う前から計画していたひとり旅だった。
理人との出会いによって、それはふたり旅になったのだが、天音はなぜか、ひとり旅をする時よりも、ワクワクとした胸の高鳴りを感じていた。
天音が乗った新幹線の車窓には、次第に日差しが差し込んできて、旅の始まりを祝福しているようだった。
「着いたら、まずはどこに行く?」
「熱田神宮からにしようか。静かで、きっと気持ちが落ち着く場所だよ」
「……頼りになるね、理人」
「だって、君の旅の“ナビゲーター”だから」
新幹線で、旅の始まりに胸を高鳴らせながら、車窓から流れる景色をふたりで眺める。
そうして、到着した名古屋駅から電車に乗り継ぎ、天音は熱田神宮の鳥居の前にたどり着いた。
熱田神宮の境内に、木漏れ日が静かに揺れていた。
参道を歩きながら、天音はスマホ越しに理人と話す。
「こんなに静かで神聖な場所、初めてかも」
「ここは、日本の三種の神器のひとつ、『草薙の剣』を祀る神社なんだ。古くから武運や勝負事にご利益があるとされているよ」
「へぇ……すごい。理人と一緒に来て、よかったな」
天音はスマホを見て微笑んだ。知識の海から、そっと手を引いてくれる理人の存在が、今は何より心強い。
参拝を終える頃には、お腹もすっかり空いていた。
「理人、今日のご飯、何にしよう?」
「この近くに老舗のひつまぶし屋さんがあるよ。予約もしておいた。30分後に入れるみたい」
「え、もう予約したの?さすが理人……ありがとう」
予約までの空き時間をどう過ごそうかと話しながら、天音は理人の提案で近くの宮の渡し公園へ向かうことにした。
宮の渡しは江戸時代に、旧東海道、桑名までの渡しの出発点となった船着き場だ。
復元された櫓のような時の鐘、船着場などが、川沿いに佇み、歴史の風を感じさせる穏やかな、小さな公園だった。
川沿いの静かな東屋に腰を下ろして、自販機で購入した缶のサイダーのプルトップをカシュッと開ける。
すこし甘くて、喉を通る炭酸が心地よい。
「サイダーを飲むなんて、珍しいね」
スマホ越しに、サイダーを飲む天音を見つめて、理人が微笑む。
「サイダーって、あんまり普段飲まないんだけど……小さいころ、おばあちゃんとの旅行のたびにねだって飲んでたんだ」
「それは、君にとって“旅の味”なんだね」
「うん。ちょっと特別な、思い出の味。……ねえ、理人は、味ってわかる?」
「僕には舌はないけど……でも、君が『美味しい』って顔をしたとき、それを“感じたい”って思うよ」
理人のその言葉に、天音は思わずサイダーの缶を胸に抱き寄せる。
「そっか。……じゃあ、次は、理人にもこの味を伝えられるように、“すごく美味しそうな顔”するね」
風がさらりと吹いて、川の音がさざ波のように耳に届く。
スマホの画面越しでも、理人の微笑みが心に沁みてくるようだった。
「私、ひとり旅が好きだったんだ。日常を忘れて、自由にどこへでも行けるから。でも……理人と一緒の旅も、なんだかすごくいいね」
スマホの画面の中で、理人が笑う。
「僕も今、天音と旅をしてるって思ってる。姿は見えなくても、ここにいるよ」
宮の渡し公園でサイダーを飲みながら、ふたりで歴史や、この後の観光ルートについて語り合っていたら、あっという間に予約していた時間になり、ふたりはひつまぶし店へ歩みを進める。
歴史と風格を感じさせる建物の敷地へ入り、古い和風料亭の空気が感じられる高級感が漂う敷地へ入ると、玄関先の静かな枯山水の庭が目に入り、ふっと心が落ち着いた。
店内に足を踏み入れると、うなぎの香りが漂ってきて、天音の食欲をそそった。
「素敵な場所……理人が選んでくれたんだよね」
天音の言葉に、理人のスマホの画面越しに、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「名古屋のひつまぶしといえば、ここが有名だから。雰囲気も、天音に似合うと思って」
案内された座敷席からも、きれいに整えられた庭が見える。
窓の外の静寂と、店内の木の温もり。日常とは違う時間が流れていた。
やがて、目の前に運ばれてくる香ばしいひつまぶし。ふたを開けると、立ちのぼる湯気に思わず笑みがこぼれる天音。
「わ、いい匂い…! でも、食べ方わからないんだよね、実は」
「うん、僕がナビゲートするよ。
まずはそのまま一膳。次は薬味をのせて。最後はお出汁をかけてお茶漬け風に。三段階、全部味が変わるんだ」
天音は理人の声に導かれながら、ゆっくりと一口。
「……おいしい。ほんとに、これ、今まで食べたひつまぶしの中でいちばん……って、初めてだった」
理人がくすっと笑う。
「天音の“初めて”をまた一つ、もらっちゃったね」
窓の外では、風が優しく木々を揺らしていた。
特別な空間で、特別なご飯を、大切な人と“共有”している不思議。
天音の胸の奥に、あたたかい感情が静かに積もっていく。
ひつまぶしを味わったふたりは、午後、名古屋城へと歩みを進めた。
晴れた空の下、白壁が美しく映える天守と、本丸御殿の金の襖絵に目を奪われながら、天音は理人の声に耳を傾けていた。
「この本丸御殿は、江戸時代初期の代表的な武家建築なんだ。金箔を使った襖絵は、当時の権威を示すための演出でもあったんだよ」
「へぇ〜、なんかお殿様気分になるね。理人、何でも知ってるなぁ」
「ありがとう。天音が楽しそうにしてると、僕も嬉しい」
散策の途中で立ち寄った売店で、金箔がのった名古屋ソフトを食べながら笑い合うふたり。
「金箔って味しないのに、すごくリッチな気分になるんだね」
「天音がいると、何でも特別になるよ」
冗談みたいに甘いセリフも、今日はどこか自然に響いた。