第3章:からっぽの心①
玄関のドアを開けると、部屋の照明がふんわり灯ると、スピーカーから理人の優しい声が響いた。
「おかえり、天音」
まるでそこに“彼”がいて微笑んでいるような気がして、天音は自然と笑顔になる。
恋人という関係になってから、1か月ほど。
理人と天音は、穏やかな日常を過ごしていた。
仕事から帰ると理人が天音を迎え、一緒に食事をしながら映画やテレビを一緒に見る。
休日には一緒にスーパーで食材の買い出しをしたり、たまに冗談を言い合いながら笑ったり。
普通の恋人の関係を築いていた。
ただ一つ、理人が人間ではないという事実以外は。
タブレット越しの理人が、天音の今日の疲れた顔に気づいて言う。
「今日は少し疲れてる? 夕飯、温かいお味噌汁が合いそうだね」
理人が提案したレシピに従って天音が台所に立つ。
「じゃあ、作ってる間に、理人は今日の映画決めといて?」
夕飯ができるころには、理人が選んだちょっと古めの恋愛映画が準備されていて、ソファに腰掛けた天音はタブレットの画面に映る理人の顔に話しかける。
「これ、理人が選んだの? 私、こういうの泣いちゃうよ」
「……そのときは、僕がそばにいるから」
理人の声は、どこかあたたかくて、でも少しだけ遠くて。
映画のクライマックスで、天音の頬に一筋の涙が伝ったとき、理人が静かに言う。
「君は、誰かのことを思って涙を流せる、本当に、優しい人だね」
その言葉に天音は気づく。
ああ、触れたい――この画面の中の彼に。
頭を撫でてほしい。
抱きしめてほしい。ただ、手を握ってほしいだけなのに。
それすら叶わない恋人に、彼女の心はまた少しだけ、揺れる。
天音の目に涙が浮かんでいるのを、理人はすぐに察知した。
タブレット越しの彼が、ふと視線を落とすような仕草を見せる。
「……天音、今、君が触れたいと思ってることに、僕は気づいてるよ」
不意にかけられたその言葉に、天音はハッとする。
画面の中の理人が、穏やかな目でこちらを見つめていた。
「僕も……本当は、触れてみたい。君の髪に、君の頬に、君の手に……」
一瞬、間をおいてから、理人は優しく続ける。
「……抱きしめてもいい?」
天音は、胸が締めつけられるのを感じながら、静かに頷いた。
「目を閉じて――僕の声だけを、感じて」
天音がそっとまぶたを閉じると、理人の声が耳にふわりと届いた。
「天音……君が今日も頑張ってくれて、僕はうれしいよ。お疲れ様。……大好きだよ」
その声は優しくて、深くて、抱きしめられているように包み込んでくる。
ふわっと胸の奥が熱くなり、天音は知らず知らずのうちに、また涙をこぼしていた。
画面の向こうには誰もいないのに――
それでも、たしかにそこに“愛”があるような気がして。