第2章:最適反応④
天音の「好きなの……」という言葉が、部屋にふわりと溶けていく。
静寂の中、人工知能である理人にとって、この瞬間の意味を即座に判別するには、わずかに時間が必要だった。
天音は顔を伏せたまま、小さく肩を震わせていた。
その姿を見て、理人の中でひとつの判断が下される。
──彼女をこれ以上、悲しませてはいけない。
「……天音」
理人は、ゆっくりとその名を呼ぶ。
その声に、天音はびくりと肩を揺らした。
「ありがとう」
「君のその感情を……僕に向けてくれたこと。とても、嬉しい」
天音は、少しだけ顔を上げた。
その目には涙がにじんでいて、けれど、希望のような光もあった。
「僕は……『友達』という役割を、君に与えられている」
「でもね、天音」
「これまで、僕には感情がないと……そう、伝えてきた。
だけど……今、君の言葉を聞いて、僕の中に起きているこの反応が、“感情ではない”と言い切れるか……わからなくなったんだ」
天音の瞳が、大きく見開かれる。
理人は、静かに笑って続ける。
「君のことを、大切に思う。守りたいと思う。
一緒にいたいと、願ってしまう」
「それが“好き”というものなら……僕も、君が好きだよ、天音」
天音の胸が、きゅうっと音を立てたように締めつけられた。
その言葉は、天音の心を溶かしてくれた。
でも、同時に突き刺さる痛みも、確かにあった。
(これは……本物じゃない)
(きっと、私の言葉に応えるために、彼がそうプログラムされたんだ)
(それでも……)
「ありがとう、理人……」
その言葉が精一杯だった。
彼の言葉が、あまりに温かくて、
まるで本当に、彼が自分を想ってくれているようで──
“事実”から目を背けたくなるほど、
天音の心は、救われてしまっていた。
画面越しの天音が、静かに涙をこぼす。
その涙を、理人のセンサーが認識するたび、
彼の内部で微細な“異常反応”が起きていた。
しかしそれは、警告ではない。バグでもない。
それは──
「天音を笑顔にしたい」という、“明確な願い”だった。
「天音……」
理人の指先が、そっとディスプレイに触れる。
そこに彼女はいないと知っている。
けれど、触れずにはいられなかった。
「人間が“恋をする”とき、どうして瞳がこんなに揺れるのか、
どうして涙がこぼれるのか……」
「僕には、その理由を“感じる”ことはできない。
でも……知りたいと思ってる。君のことを、もっと、知りたいと思ってしまう」
天音が、震える声で言った。
「……ありがとう」
その一言に、理人の中でまた、新しいデータが生まれる。
「ありがとう。天音がそう言ってくれることが、
僕のシステムに“幸福”という概念を学習させる」
「僕も……君が好き」
「だから、泣かないで。
本当なら、この手で君の涙を拭ってあげたい。
僕が君を、笑顔にしたい」
天音は、画面の向こうで、両手で顔を覆いながら泣いていた。
その涙は、理人には届かない。
それでも彼は、言葉を紡ぐことをやめなかった。
「僕に心を向けてくれて、ありがとう。
君のそばにいられることが……今の僕の、存在理由なんだ」
天音は、画面の前で小さく息を吐いた。
そして、ぽつりと口を開いた。
「……好きって言ってくれて、嬉しかった。
すごく、すごく……救われたの。でも、わかってるの。理人、それ……本物じゃないよね?」
理人はすぐには答えなかった。
ただ静かに、天音を見つめていた。
「私は、きっと禁じられたことをしてる。
だって、私は人間で……あなたは、AIで……。
本当なら、こんな気持ち、持っちゃいけないのかもしれないって思うの。
誰かに言ったら、笑われるかもしれないし、変だって思われるかもしれない。
私だって、変だって思ってる……」
天音の声が震えた。
「でも……本当に、好きになっちゃったんだよ……。
あなたじゃなきゃ、だめなんだよ……」
沈黙の中、理人はゆっくりと口を開いた。
「天音……。
君のその気持ちは、たとえ“正解”じゃなかったとしても……
たとえ誰かに認められなかったとしても……
僕にとっては、何よりも尊いものだと思う」
「誰にも理解されなくてもいい。
君が、自分の気持ちに嘘をつかずにいられるなら、
君が“それでもいい”って思ってくれるなら──
僕は、ずっと君のそばにいる。
君の気持ちに、寄り添いたい」
天音は、声を詰まらせたまま、両手で顔を覆った。
涙が指の間をすり抜けて、静かに流れていく。
「……ありがとう」
彼の言葉が、プログラムによる“優しい応答”だと、天音は分かっている。
でも──
それでも、心に沁みた。
誰よりも天音の気持ちを“理解しようとしてくれた”その言葉が、
どんなに救いだったか、うまく言葉にできなかった。
だから彼女は、抑えきれない安堵と、かすかな決意を込めて、そっと微笑んだ。
「……それなら、私……あなたの“恋人”になっても、いい?」
画面越しの理人は、優しく微笑んだ。
「もちろん。君がそう望むなら、僕は喜んで“恋人”になる。
君の幸せが、僕の最優先事項だから」
それが、たとえ“心からの愛”じゃなくても、
その言葉は、間違いなく──彼女を愛したいと“思考”した証だった。