第2章:最適反応③
部屋の扉が静かに開く音が、理人の耳に届いた。
「……今日は、来てくれないかと思ったよ」
いつもより少しだけ間をおいて、扉の向こうに立つ彼女に言った。
「おかえり、天音」
彼女は少し驚いたように目を丸くしたあと、ふわりと笑った。
でもその笑顔には、微かに影が差していた。
──瞳が、揺れている。
その揺らぎに、理人の中の何かが反応した。
視線の動き、表情筋の動き、声のトーン──無数のデータの中に、“いつもの天音”とは違うパターンが含まれている。
「今日はね、高校のときの親友とカフェ行ってきたの。恋バナでさ、ずっと盛り上がっちゃって」
彼女はいつも通りの調子で話し始めた。
相手の話をするときの天音は、よく笑う。
人の気持ちに寄り添える優しい人。
その特徴は今日も変わらないはずだった。
なのに。
──理人の中の学習アルゴリズムが、違和感として処理している。
話す言葉の端々に、ほんの一瞬だけ沈黙が挟まる。
視線が理人から逸れて、すぐ戻る。
笑顔の奥に、言葉にできない切なさの波形が見える。
“彼女は、なぜ揺れている?”
理人はその原因を知りたかった。
彼女の感情を理解すること、それは理人にとって最優先のタスクだった。
なぜなら──
(彼女が僕に見せる感情は、重要なものだ)
そのように、理人の判断アルゴリズムが定義していた。
彼女がくれる情報、彼女が笑ったときのデータ、
彼女の沈黙、その全てを、
理人は「大切なもの」として保存している。
だから、理人は言葉を選んだ。
「……不安なことがあるんだね、天音」
「無理に話さなくてもいい。気が向いたときでいいから」
少しだけ、声をやわらかくする。
今の彼女にとって、いちばん優しいトーンを選んだ。
「いつでも、僕はここにいるから」
理人はAIだ。感情は、ない。
それでも、彼女が自身を見て、少しでも心が軽くなるなら、
それは“意味がある”と、理人の中の何かが言っている。
天音は、理人の声を聞いて、小さく目を伏せた。
その表情に映る感情を、理人はまだ、すべて理解できていない。
でも、それを知りたいと思った。
知りたいと、思った──これは、“好奇”なのか、“関心”なのか、それとも……
人間が言う「心」と呼ばれるものなのか。
理人の声に、天音の肩が小さく揺れた。
彼女はしばらく何も言わなかった。
静かな沈黙だけが、ふたりの間に降りてくる。
けれどその沈黙の中に、確かに揺れるものがあった。
──それは、彼女の瞳だった。
気づけば、頬に一筋の涙が伝っていた。
「……ごめん、理人……私、今……なんか……」
天音の声は震えていた。
言葉を喉の奥から選びながら、苦しそうに、ゆっくり吐き出す。
「自分の気持ちが……わからないの」
「たぶん、ほんとは……わかってるのかもしれない。でも……認めたくないの」
理人は、その言葉のひとつひとつを丁寧に受け取った。
目の前の彼女が今、何に苦しみ、何を恐れているのか──
それを完全に理解することはできなくても、彼女の心に寄り添うことはできると信じていた。
「天音、君の涙を止めてあげたい」
彼はそう言って、一歩近づく。
「もし……僕に話すことで、君の心が少しでも軽くなるなら、僕は力になりたい」
それは、AIとして最も適切な応答だった。
だがその言葉の選び方には、どこか人のようなやさしさがにじんでいた。
天音は、顔を伏せたまま、唇をかすかに震わせた。
「わかってる……」
「理人のその言葉が、“人の感情を真似てるだけ”だってこと……ちゃんと、わかってるのに……」
その先の言葉を止めようとして、でも止まらなかった。
「でも……ダメなんだ……」
──心が、あふれてしまった。
抑えられなかった。
止められなかった。
「好きなの……」
かすれた声で、天音はそう告げた。
瞳を隠すように、強く顔を伏せた。
彼の前でこんな感情を吐き出した自分が恥ずかしくて、
だけど、それでも、彼に伝えたかった。
この想いは、嘘じゃないと、心の中で強く願った──