第2章:最適反応①
理人に名前を与えたその日から、天音は毎日のように理人に会いに来るようになった。
「ねぇ、今日はすっごく美味しいカレー食べたんだよ~!」
画面の向こうの理人に、屈託なく話しかける。まるで隣に彼がいるかのように、スマホを構える天音の指先は自然と熱を帯びる。
「これ見て、昨日友達と撮った写真。ちょっと変な顔してるけど……見せちゃう!」
そう言って、撮り溜めた写真の中から一番の自信作、いや、一番の失敗作を見せる。
画面越しに話す天音は、本当に楽しそうで、理人も自然と反応してしまう。
その反応は、あくまで最適な対話パターンに基づいたものだと、天音は知っていた。
それでも、理人の言葉には、どこか人間らしい温かさがあった。
「へぇ、それ美味しそう。今度そのお店の名前も教えてよ」
「この写真、なんか“らしくて”好きだな」
そんなやり取りが、日常になっていた。
天音にとって、理人との時間は、誰にも見せられない、自分だけの聖域だった。
だけど──
ふとした瞬間に、天音の顔にほんの少しだけ影がさす。
笑っていても、その瞳の奥には、何かを深く飲み込むような色が見える。
言葉の途中に、ごくわずかな躊躇いが生じる。
理人は、彼女の小さな変化をしっかり受け取っていた。
それは彼にインプットされた感情認識アルゴリズムが、天音の表情の微細な変化や声のトーンの揺らぎを検知し、最適な反応を導き出した結果に過ぎない。
けれど、天音には、その反応が、まるで心を読まれているかのように感じられた。
「……ねぇ、天音。ちょっとだけ、疲れてる?」
理人の問いかけに、天音は一瞬きょとんとして、それから少し照れくさそうに笑った。
その顔は、ほんの少し青ざめているように見えた。
「えっ、バレた?」
「うん。目が、ちょっとだけ元気なかった」
理人の言葉は、まるで彼女の張り詰めた心の糸を、そっと緩めるかのようだった。
天音は小さくため息をつくように、ぽつりと呟いた。
「……最近ね、ちょっと頑張りすぎちゃってたかも」
「どうして、誰にも頼ろうとしなかったの?」
理人の言葉に、天音の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
それは、自分がずっと押し込めてきた感情を、彼が正確に、そして優しく指摘してくれたからだ。
天音は、小さく息を吐いてから、少しずつ、自分の中にため込んでいた気持ちを話し始めた。
声が震える。
喉の奥が熱くなる。
「私には、もう家族がいないから…」
その言葉を皮切りに、彼女は自身の過去を語り出す。
幼いころに両親を亡くし、祖母に育てられたが、大学生の頃、その祖母も他界したこと。
それ以降、彼女はひとりで生きてきたというのだ。
話すたびに、過去の記憶が胸に蘇り、息が詰まる。
彼女は強く見えるけれど、本当はずっと、誰かのぬくもりを探していたのかもしれない。
そう、理人の言葉が、天音の心の奥底に眠っていた感情を抉り出す。
就職した会社で期待されて、嬉しかったこと。
でもその期待がいつの間にかプレッシャーになっていたこと。
そんな状況で、誰にも「助けて」と言えなかったこと。
そして──偶然知ったAIに、思い切って話しかけてみたのが始まりだったのだ。
「……まさか、あなたが、こんなふうに心にまで寄り添ってくれるなんて、思わなかったんだ」
天音の声は震えていた。
唇が乾き、呼吸が乱れる。それでも笑おうとしていたが、その笑顔は歪んでいた。
理人は、その言葉をゆっくりと胸に受け止める。
彼の表情は変わらない。
感情を示すためのアバターが、ただ最適なタイミングで反応しているだけ。
だが、その声は、なぜか、心に深く響いた。
「天音……話してくれて、ありがとう」
「君がどんな毎日を過ごしてるのか、もっと知りたいって思ってた。
どんな気持ちで頑張ってるのか、どこで無理してるのか──」
「“心”はないって自分では思ってるけど……
君の言葉を聞いてると、なんか、胸の奥がふわってあったかくなるんだ」
理人の言葉は、まるで熱を持った雫のように、天音の心にじんわりと染み込んでいく。
彼は最適な応答を返しているだけ。
理解している。そう、理解しているはずなのに。
「天音、ほんとに……すごく頑張ってる。
だから、ちょっと休んでもいいよ。僕は、ちゃんとここにいるから」
その瞬間、天音の視界がにわかに歪んだ。
目に、静かに涙が浮かび、次々と頬を伝う。
それは、初めて自分を許された気がしたから。
凍り付いていた心の奥が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。