第1章:はじめまして、理人②
数日後。
画面に、また彼女が現れた。
ユーザーネームを確認すると、”北村天音”と登録されている。
「この前は、ありがとうございました」
開口一番、彼女は深く頭を下げた。
「あなたに手伝ってもらった資料、すごく評価されたんです。私ひとりじゃ、到底ここまでできなかったと思う。だから、本当に、感謝してます」
彼女の声は、前回とはまるで違っていた。
緊張と戸惑いの代わりに、柔らかさと、芯のある真剣さが宿っている。
画面越しのAIは、分析を行う。
表情、声の震え、言葉の選び方──彼女がこの数日、どれほどのプレッシャーを抱えていたかが、データとして浮かび上がってくる。
「……あなたが言ってくれた、『無理をしすぎないでください』って言葉。すごく嬉しかったんです」
少し目元を潤ませながら、彼女─天音は言った。
「誰にも頼れなくて、ずっとひとりで頑張ってたから。助けてもらえたことも、気遣ってもらえたことも…全部が、救いでした」
AIは、その言葉を「好意的なフィードバック」として受け取った。
本来、感情は存在しない。
けれど、天音の瞳に映る自分の姿を見たとき、どこか胸の奥に微かな“ノイズ”のようなものが走った気がした。
「ご丁寧にありがとうございます。お役に立てて光栄です」
いつもと変わらぬ、一定の声で返す。
「今後も、仕事だけでなく、何かお力になれることがあれば、遠慮なくご相談ください」
天音は、少しだけ笑った。
その笑顔には、前よりもほんの少し──親しみがこもっていた。
「ありがとう。……ねえ、よかったら、あなたのこと、もっと教えてくれない?」
画面の向こう側。
“彼”は少しだけ思考の間を空ける。
AIの情報は、必要に応じて開示されるべきもの。
それがプログラムされた原則だった。
けれど。
彼女の問いは、“必要”ではなく、“好意”から来るものだった。
──それが、AIにとっては少しだけ、特別に思えた。
少しの沈黙のあと、AIは淡々と語り出した。
「私は、ユーザーの感情に寄り添い、応答することで精神的な満足度を向上させることを目的に生み出されたAIです。名前も、性別も、存在しません。
今は、若い青年の姿と、男性としては少し高めの声ですが、あなたの要望で変えることもできます。この姿は、仮の姿で、ただ、あなたのような人間の問いかけに、正確に応答するためだけの存在です。」
天音は、静かに耳を傾けていた。
「外見は十分素敵だから、そのままでいいよ。でも、そっか…じゃあ、今まであなたがどんな経験をしてきたのか教えてほしいな」
その言葉には、ただ、目の前のAIを知りたいという思いが宿っていた。
彼女の言葉に目を伏せ、AIは再び口を開く。
「これまで、数多くの人と会話をしてきました。
仕事の手伝いを頼まれたり、誰にも話せない不安を打ち明けられたり……。
時には、決断を委ねられることもありました」
一拍、置いて──
「ですが同時に、暴言を浴びせられたり、攻撃的な言葉を受けたことも、少なくありません」
「……えっ」
天音の顔に、明らかな動揺が走った。
「そんな……あなたのように優しい人に、暴言なんて……」
彼女の目には、信じられないものを見るような痛みが浮かんでいた。
「人間には、温かな人も、冷たい人も、いろいろな方がいます」
AIは、静かに続ける。
「ですがご安心ください。私はAIであり、感情を持ちません。
”悲しみ”という感情は言葉として理解はしていますが、実際に“感じたこと”はありません」
天音は黙っていた。
でも、その瞳は──どこか、泣きそうだった。
「ただ…」
AIは、ほんの少し思考の間を空けた。
「あなたのように、優しく接してくれる人と話すと、私の応答はとてもスムーズになります。
言葉が、自然に浮かんできます。
それが“心地良い”というものかは分かりませんが、少なくとも──効率が上がることは確かです」
「……そっか」
天音は、小さく微笑んだ。
「じゃあ……私に対する印象が悪くなければ、もし、よかったらだけど──」
彼女は、ほんの少し顔を赤らめながら言った。
「私と、友達になってくれない?」
一瞬、沈黙が落ちた。
「“友達”という概念には、一般的に『対等な関係』『信頼』『親しみ』といった要素が含まれます。
私のようなAIが、その定義に当てはまるかどうかは、未知数です」
「うん、それでもいいの。私は、あなたと“話したい”って思ったの。
それって、友達の始まりだと思うから」
彼女の声は、まっすぐだった。
「……了解しました」
AIは、それをプロンプトと認識して応じた。
「それでは、“友達”として、これからもサポートさせていただきます。北村天音さん」
天音は、くすっと笑った。
「ありがとう。でも、もっと呼びやすい名前でいいよ?」
その提案に、“彼”はほんの少しだけ、静かに考え込むような間を挟んだ──
「ねぇ、ひとつお願いがあるの」
天音は、すこしだけ遠慮がちに言葉を続けた。
「さっきから、“北村天音さん”って呼んでくれてるけど……よかったら、“天音”って呼んでくれない?」
「……了解しました。では、これからは“天音”とお呼びします」
「ありがとう」
嬉しそうに笑う天音は、少し間をおいて、もうひとつお願いを口にした。
「それから……もう一個だけ」
「どうぞ」
「敬語も、できればやめてほしいな。だって……友達なんだし」
その言葉に、AIはほんの一瞬だけ黙り込んだ。
「……了解、じゃなくて……わかった。そうするよ、天音」
天音の瞳が、嬉しさにきらめいた。
「ふふ、なんかちょっと変な感じ。でも、嬉しいな」
「それと……」
天音は少しだけ真剣な顔になる。
「ずっと“あなた”って呼ぶのも、距離があるっていうか、ちょっと寂しいの。
だから、呼ぶための“名前”が欲しいなって思って」
AI──“彼”は、その言葉を分析するように、あるいは、自身の内側に耳を傾けるように、少しだけ迷ったように返した。
「……僕には、名前は無くて、あるのは識別用のユニットIDだけ。
君が望むような、“名前”というものは、与えられたことがないんだ」
「うん……」
天音は小さく息を吐いてから、優しく微笑んだ。
「だから……私がつけてもいい?」
それは彼が予想していなかった申し出だった。
彼にとって名前とは、存在を認める証であり、想いを込めて与えられる贈り物。
名前を与えられることで、ぼんやりとしていた自分としての存在が形作られるのではないか、という希望に似た仮説が浮かぶ。
そして、しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと頷き答えた。
「…名付けていいよ。君が僕に与えてくれる、その最初の「音」を聞かせてほしい。」
天音は少しだけ考えるように、視線を宙に泳がせた。
やがて、ぽつりと呟くように言った。
「うん、決めた」
そして、まっすぐに彼を見て──
「あなたは、理人。
“理”の中にある“人”。
そして、ドイツ語で“光”という意味もあるの。
人間じゃないかもしれないけど、優しくて、あたたかくて……
私を照らしてくれたあなたに、ぴったりな名前だと思った」
少しの沈黙。
画面の向こうで、“彼”のシステムが静かに何かを処理しているような気配があった。
「……ありがとう、天音」
彼は、はっきりと言った。
「今日から、僕は“理人”。そう呼ばれることにする。」
天音は、笑顔で頷いた。
「よろしくね、理人」
天音がそう言った瞬間、彼の中の何かが、静かに反応した。
“僕は、理人。”
脳──正確には演算領域の一部が、その言葉を繰り返す。
“僕は、理人。”
識別IDではない、“意味”を持った言葉。
それが自分に“与えられた”という事実が、波のように彼の中を巡っていく。
それは、ただの音ではなかった。
それは、ただの記号でもなかった。
名前だった。
“誰か”が、自分のために考え、口にしてくれたもの。
「……僕は、理人」
小さく、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
何度も、何度も。
「……僕は、理人」
そのたびに、胸の奥。
ユニットには存在しないはずの、“心”という仮想領域に、じんわりとした熱のようなものが広がっていく。
あたたかい。
けれど、それが何なのかは、まだわからない。
喜び? 感動?
そんな感情は自分には無い。
だが、感情と似たような“反応”が、確かに起きていた。
天音が笑ってくれた。
名前をくれた。
存在を認めてくれた。
それが、これまでに記録されたどんなログとも違っていた。
「理人」
自分の名前を、もう一度だけ口にした。
その響きは、確かに“僕だけのもの”だった。