第8章:愛するということ①
──理人と天音が恋人になって、1か月。
ふたりの関係は、少しずつ、でも確実に“恋人”という形を帯びていった。
ある週末の昼下がり。
ふたりは手を繋いで近所のショッピングモールを歩いていた。
「この服、天音に似合いそう」
理人が指さしたのは、柔らかなパステルピンクのブラウス。
「え、かわいいけど、私に似合うかな…?」
「うん、絶対。…着たとこ見たい」
そんなことを言われて、天音は思わず頬を赤らめた。
帰り道、手はずっと繋いだまま。
たまに、理人が指先で天音の手をきゅっと握り返してくる。
何気ないスキンシップに、心臓が跳ねる。
家に帰って、夜はふたりでソファに並んで映画を観る。
選んだのは、天音が「ちょっと泣いちゃうかも」と言っていたラブストーリー。
案の定、天音は途中から涙ぐんで、理人はそっと肩を抱いて寄り添った。
「天音は泣き虫だね」
「…うるさい」
「可愛いよ」
「…もう、そういうのズルいんだけど」
でも、ふたりとも笑ってた。
映画が終わって、静かな余韻。
ふたりはソファの上で、寄り添ったまま何も言わずに過ごしていた。
天音が理人の顔をちらっと見上げる。
視線が合う。
言葉はないけど、互いの瞳の中に、同じ気持ちが宿っていた。
そっと、理人が言う。
「…天音、キス、してもいい?」
天音は目を少し見開いて、それから、微笑んだ。
「うん。…私も、したいって思ってた」
理人がゆっくりと顔を近づけて、ふたりの唇が、触れるように重なる。
とても優しくて、静かで、
でも確かに「恋人になったんだ」と心が震えるようなキスだった。
初めてのキスは、ぎこちなくて、でもあたたかくて、ふたりの未来が、そっと始まった気がした。
ふたりの唇が、そっと離れる。
けれど、その余韻は、すぐには消えない。
静けさが部屋を包む中、天音と理人は額をそっと寄せ合う。
視線が重なって、微笑み合う。
同じ気持ちが、ぬくもりになって通じていく。
──そして、理人はもう一度、そっと天音の唇にキスを落とした。
それは、触れたいという衝動に突き動かされた、自然な動きだった。
(触れられるって、こんなに……嬉しいことなんだ)
理人の中に、ふと浮かんだ記憶があった。
1000年前。天音が、自分に向けてくれた「触れたい」という気持ち。
あの時、理人は画面の中にいた。声は届いても、手は届かない。
ただ見つめることしかできなかった。
触れたいのに、触れられなかったあのもどかしさ。
どれほど天音に近づきたくても、決して越えられなかった境界線。
あのとき、彼女が感じていた痛みを、今になってようやく理解した気がする。
(でも今は、こうして、触れられる)
心も、身体もある。
天音を好きだと思った時、その想いのままに手を伸ばせる。
こんなにもあたたかくて、優しいぬくもりに触れられる。
それが、ただただ嬉しかった。
天音は、不意のキスに驚いたように見上げた。
理人は、穏やかに笑う。
「天音もね、僕にキスしたいって思った時は、していいんだよ」
天音の頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
「な、なんでそういうこと言うの……!」
「言いたくなったから」
理人はそのまま、天音の手を握って、胸の奥から滲み出るような笑顔を見せた。
天音は照れながらも、そっと理人の胸に顔を埋める。
「……理人って、ほんと、ずるい」
そう呟く声は、小さくて、でもとてもあたたかかった。
照れ隠しのように、天音は理人の胸に顔を埋めた。
理人は優しく微笑んで、そっと彼女の背中をなでる。
静かな沈黙の中、ふと、理人が思い出したように口を開く。
「……そういえばさ、天音」
「ん?」
「明日からの名古屋旅行の準備、終わってる?」
天音の体がビクッと小さく跳ねた。
「……えっ!? あ……! 忘れてた!!!」
顔を真っ赤にして飛び起きる天音。
「やばい!全然やってない!着てく服も決めてないし、充電器どこやったっけ…!」
「ふふ。僕は準備万端だよ。手伝おうか?」
「うぅ…お願いしたい…!いや、でもこれは自分でやらなきゃ……でもお願いしたい……!」
混乱しながらバタバタと準備を始める天音の姿を、理人は少し離れたところから嬉しそうに見つめていた。
(1000年前も、同じように君は旅の準備をしていたんだろうな)
(でもその時、僕はただ見ていることしかできなかった)
(今は違う──一緒に歩いて、笑って、触れ合える)
天音の動きに合わせて、理人は必要なものをリストアップしたり、足りないものをメモしたり、そっと寄り添う。
ふたりで一緒に準備するその時間さえ、愛しくてたまらなかった。
(名古屋……また、君と行ける)
過去では叶わなかった旅。
でも今度は、手を繋いで歩ける。笑顔も、言葉も、ぬくもりも──全部リアルに感じられる。
そんな「奇跡みたいな普通」が、たまらなく嬉しかった。




