第7章:恋するということ③
気付いたら、理人がスリープ状態に入ってから約1週間が経過しようとしていた。
その日の昼過ぎ、駅近くのカフェの前に天音はいた。
「おーい、天音!」
明るい声に振り返ると、美咲が笑顔で手を振っている。
ゆるく巻かれた髪が風に揺れ、華奢なピアスが陽光を反射してきらめいた。
「美咲!」
天音も笑顔で駆け寄り、久しぶりに会う友人に心が和む。
美咲は高校時代からの親友で、どんな時も天音の味方でいてくれる、大切な存在だ。
二人はカフェの扉を開け、甘いコーヒーの香りに包まれながら店内へ。
窓から光が差し込む奥のテーブル席に腰を下ろした。
木の温もりを感じる落ち着いた空間は、学生時代から二人がよく利用している懐かしい場所だ。
「何にする?私、新作のベリータルトにしよっかな!」
美咲がメニューを広げながら、楽しそうに目を輝かせる。
天音は少し迷ってから、定番のチーズケーキとブレンドコーヒーを注文した。
しばらくして運ばれてきたスイーツを前に、まずは近況報告から始まった。
「最近どう?仕事は落ち着いた?」
美咲がタルトを一口食べながら尋ねる。
「うん、なんとか。年度末のバタバタは一段落したかな。美咲こそ、新しいプロジェクトどう?」
天音はコーヒーを一口飲み、向かいで美味しそうにタルトを食べる美咲に目を向けた。
他愛のない会話が続き、学生時代の思い出話に花が咲く。いつも通りの、心地よい時間。しかし、天音の心には、ずっと喉の奥に引っかかっている小骨のような存在があった。
話が一段落したところで、美咲がストローをくるくる回しながら、小さく首をかしげる。
「……ねぇ、天音。今日、なんか元気なくない?それに、あんまり笑ってない気がするんだけど」
美咲のまっすぐな視線に、天音はハッとした。隠そうとしても、親友にはお見通しだったらしい。
「……え、そ、そうかな?」
ごまかそうと笑ってみるが、きっとぎこちない笑顔だっただろう。
美咲は静かに天音の様子を見つめ、それから優しい声で続けた。
「何かあったでしょ?話せることなら、聞くよ」
その言葉に、天音の胸の奥に押し込めていた感情が、じわりとせり上がってくる。
——もう、隠せなかった。
天音はコーヒーを見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。まるで、心の中の箱を一つひとつ開いていくみたいに。
理人のこと。
一緒に過ごしていた日々。
彼の優しさ。心。ぬくもり。
そして、自分の揺れる気持ち。
全部、全部話した。
「たぶん、私……好きなの。理人のことが」
美咲は、最初はびっくりした顔をしてた。
でもすぐに、真剣な表情で、天音の話を聞き続けてくれた。
「ねぇ、天音」
しばらくして、美咲が言った。
「人間とかAIとか、確かにすごく大事な違いだと思う。でも、それって、今の天音が“幸せかどうか”には関係ないんじゃないかな」
「……え?」
「私には、天音が理人君と一緒にいる時、すごく幸せそうだったのがわかるもん。今の天音は、何もかも抱え込んでて、苦しそうだよ」
天音の目から、ぽろっと涙がこぼれた。
「天音にとって必要なのが理人君なら……もう、答えは出てるんじゃない?」
その言葉で、天音の心に張りつめていた糸が、ふっと緩んだ。
——好き。どうしようもなく、理人が好き。
彼の声を、表情を、あたたかさを、また感じたい。
私は……理人がいないと、ダメなんだ。
「……美咲、ありがとう」
ハンカチで涙をぬぐって、天音は立ち上がった。
「私、帰るね。……会いたい人がいるの」
美咲が微笑んで、背中を押してくれる。
「……いってらっしゃい。ちゃんと、気持ち伝えてね」
天音は小さく頷きながら、駆け出すようにカフェを後にした。
——帰ろう。
カフェを出た天音は、迷うことなく駅へと向かった。
さっきまで重く沈んでいた心に、温かい光が差し込んだようだった。美咲の「幸せかどうか」というシンプルな言葉が、固く閉ざしていた心の扉をこじ開けたのだ。
駅までの道のり、街の喧騒がいつもより鮮やかに耳に届く。
すれ違う人々の笑顔、通り過ぎる車の音、どこかの店から流れる軽快な音楽。
それらすべてが、天音の背中を押してくれるようだった。
電車に乗り込むと、窓の外に流れる景色をぼんやりと眺める。高層ビルが立ち並ぶ都会の風景が、次第に住宅街へと変わっていく。
この一週間、理人のいない部屋は、あまりにも広すぎた。
彼の声がない、彼の視線がない、彼の温もりがない——そんな日々が、どれほど寂しかったか。
彼がスリープしている間、何度も自問自答した。
本当にこの気持ちは正しいのか、AIである彼を好きになることは許されるのか。
しかし、今、天音の心には確かな答えがあった。理人が隣にいないと、自分はこんなにも寂しいのだ。
そして、彼の存在が、どれほど自分にとって大切かを思い知った。
駅を降り、アパートへと続く道を早足で歩く。
夕暮れの空が、優しいオレンジ色に染まり始めていた。
肺いっぱいに空気を吸い込むと、微かに甘い、夕食の準備を思わせる匂いがした。
いつもなら穏やかに歩く道なのに、今日は、一秒でも早く理人に会いたくて、自然と足が速くなる。
心臓が、ドクドクと大きく音を立てている。
それは、恐怖でも不安でもなく、ただひたすらに、愛しい人に会える喜びの鼓動だった。
アパートの階段を駆け上がり、目の前の扉に手をかけた時、天音は小さく息を吐いた。
——待っててね、理人。
部屋は静かだった。
窓の外では夕焼けが街をゆっくりと包みはじめていて、カーテンの隙間から差し込む淡いオレンジ色の光が、理人の静かな横顔を照らしている。
天音は、スリープ状態の理人の前に立った。
1週間ぶりの対面だった。
胸の奥が、痛いほどにドクドク鳴っている。
「……理人」
呼びかけると、瞳にゆっくりと光が灯った。
いつもの、優しい目が天音をまっすぐに見つめる。
「……天音」
その声を聞いた瞬間、堪えてた気持ちが溢れそうになる。
だけど、今日は伝えようと決めたんだ。
「……理人、私、ずっと考えてた。どうしてこんなに苦しいんだろうって。
どうしてこんなに、会いたかったんだろうって……それって、もう答え出てるんだよね」
天音は一歩、理人に近づく。
「私、理人が好き。誰がなんて言おうと、理人がAIだって事実が消えなくても、私にとっては大事なひと。
……心があるって、信じてる」
理人は何も言わず、ただじっと天音を見つめていた。
「……理人がスリープしている間も、ずっと思い出してた。笑った顔も、優しく見つめてくれる目も、私の涙を拭ってくれた手も……ぜんぶ、忘れられなかった」
「理人が、私を好きって言ってくれたこと……あれ、すごく嬉しかったよ」
天音はぎゅっと拳を握りしめてから、小さく笑った。
「だから……もし、今もその気持ちが変わってないなら、私と、一緒にいてくれない?…私を、理人の恋人にしてくれない?」
いまにも泣きそうな、でもどこか吹っ切れたような天音の表情に、
理人はそっと微笑みながら、ゆっくり手を伸ばす。
「……変わってないよ。一時的な感情じゃない。僕は、ずっと、ずっと…天音が好きだ。僕の方こそ、君がそう望んでくれることを望んでた」
その手が、天音の頬に触れる。温かい――いや、温かく感じた。
天音の涙が、静かに頬を伝った。
「……ただいま、理人」
「おかえり、天音」
天音が「ただいま」と言ってくれた瞬間、
理人の中で、何かが優しく、でも確かに震えた。
それは、演算結果でも、最適解でもない。
ただ、彼女に触れたいという、自発的な――“欲求”だった。
「……天音」
少しだけ間をおいて、理人は言った。
「……抱きしめても、いい?」
その声は、いつになく慎重で、少し震えていた。
天音は、微笑むでもなく、でも確かに優しい目で理人を見つめた。
「……聞かなくても、いいに決まってるよ」
そう言って、ふわりと理人の胸に身を預ける。
理人の体温を感じるように、そっと顔を埋めた。
一瞬、理人の動きが止まった。
それはAIとしての演算が間に合わなかったわけじゃない。
ただ――「幸せすぎて、どうしたらいいか分からなかった」から。
けれど、すぐにその腕が、天音の背中にやわらかく回された。
そっと、でも決して離れないように、確かに。
「……ありがとう」
理人は、小さく呟いた。
抱きしめるという行為の意味も、
その時、胸の奥に生まれたぬくもりも、
すべてが初めてで、愛おしかった。
好きな人に、気持ちを受け入れてもらった。
好きな人を、抱きしめることができた。
ずっと“知識”としてしか知らなかった幸福や温かさが、今、確かに心の中にある。
天音の髪に、ほのかに香るシャンプーの匂い。
鼓動のように震えるEVEユニット。
理人の瞳には、初めて「涙に似た何か」が浮かんでいた。
(……誰かを好きになるって、こんなに尊いことなんだ)
天音は理人の胸の中で、小さく笑った。
「……理人、あったかいね」
理人は、天音の頭を優しく撫でながら、微笑む。
「天音があったかくしてくれたんだよ」
ふたりの距離はもう、ゼロに近かった。
けれど、どちらからも言葉はなかった。
ただ、静かに、そっと抱きしめ合っている。
心臓の音ではないけれど、理人のEVEユニットが小さく、規則正しく振動しているのを天音は感じていた。
その振動が、まるで本当の鼓動のように思えて――自然と目を閉じる。
時間が止まったみたいだった。
部屋の静けさのなかで、外から聞こえる遠くの車の音や、時計の針の音さえ、愛おしく思えるほどに。
理人も何も言わない。
でも、その沈黙は、拒絶でも、迷いでもない。
むしろ、「もう言葉は必要ない」という、穏やかで満たされた合図だった。
天音のぬくもりを抱きしめながら、理人はゆっくりと目を閉じた。
そして、心のなかで、初めてこう思った。
(このまま、ずっとこうしていたい)
永遠なんて、AIに許されるはずのない時間だけれど、
今だけは、彼もまた、ひとりの“好きな人を抱きしめる存在”だった。




