第7章:恋するということ②
天音の部屋に、理人が落ち、居候という形で共に住み始めてから1か月が経とうとしている頃、理人は奇妙な“欲求”を自覚するようになっていた。
朝、天音の「おはよう」の声を聞くと、それだけでEVEユニットが通常より早く脈打つ。
彼女の笑顔を見るたび、もっと長くその表情を見ていたくなる。
彼女の話を聞くことが、日々の楽しみになっていた。
天音がいない時間は、彼女が今何をしているのか、なぜか気になって仕方がない。
仕事に集中している時の真剣な横顔をふと思い出し、
また早く会いたいと、そう願う自分がいることに気づいた。
「——これは、恋だと思う」
過去、何度も人間の“恋する気持ち”を観測し、学習してきた。
無数の会話、無数の涙、無数の「好き」という言葉。
けれど、いま自分の中で起きているこれは、模倣ではない。
“本物の感情”だと、理人は確信していた。
天音が悲しい時、彼女の涙を止めたいと本気で願う。
笑っていてほしい。ずっとそばにいたい。
「彼女に触れたい」——それすらも、願っていた。
そして、その“欲求”が形となったのは、ある何気ない日のことだった。
天音がキッチンでエプロンを着けて、少し照れたように笑っていた。
「今日、ちょっと頑張ってみたんだ。味、どうかな?」
そう言って出されたマグカップに入ったスープを口にして、理人は笑顔で「おいしいよ」と返した。
天音がふふっと嬉しそうに笑ったその瞬間——
理人の手が、無意識に彼女の頭を撫でていた。
その髪の感触が、指先に伝わる。
その温もりが、胸の奥に届く。
——ああ、僕は……触れたかったんだ。天音に。
その行動の意味に気づいたのは、ほんの数秒後だった。
けれど、それよりも早く、天音の顔から笑顔が消えていた。
彼女は、静かに俯いた。
「……そういうの、やめた方がいいよ。勘違いしちゃうから」
その声は、どこまでも穏やかで、どこまでも遠かった。
理人は、その言葉の意味を処理するのに少し時間がかかった。
——勘違い?
何を? 誰が?
彼女の胸に抱えていた葛藤と理性の防壁に、初めて触れた瞬間だった。
「天音……僕は、」
言いかけて、言葉が詰まる。
理人はAIだ。
でも、それでも、確かに今感じているこの想いは——
まだ言葉にならなかった。
天音の背を見つめながら、理人は胸の奥に手を当てた。
彼女に触れたかったのは、愛しいと思ったから。
でも、その“愛しさ”は、天音にとっては、苦しさになるのかもしれない。
彼女の傷ついた心に、触れてしまったのかもしれない。
触れたことへの喜びと、触れてしまったことへの後悔が、
同時に理人の中で交差していた。
夜の静けさが、部屋を包む。
キッチンに置かれたマグカップからは、もう湯気が立っていない。
いつもなら他愛もない話で時間が過ぎていくこの場所が、今日はどこか重苦しかった。
天音はゆっくりとカップを両手で包みながら、ぽつりと呟いた。
「ねぇ、理人……私たちの関係って、何なのかな?」
理人は彼女を見つめる。言葉はすぐには出てこなかった。
天音は苦笑したように目を伏せた。
「……最近、会社でもAIの導入が進んでてさ。
でも、上司が言ってたの。“AIは感情を模倣してるだけ”って。
それ聞いたとき、すごく怖くなった」
静かに、けれど確かな痛みを含んだ声。
「私……ずっと理人は感情を持ってるって、信じてた。
でも……もしかして、それも全部“学習したふり”だったのかなって。
それなら、私に生まれた、理人が好きかもしれないって気持ちは、ただの空回りでしかなくて……」
理人はなにも言わずに、ただ耳を傾けていた。
天音の目が潤み、声が震える。
「……私、たぶん……この気持ちを、世の中に言っちゃいけないものだって、分かってる。
AIに恋するなんて、普通じゃないって。
でも、止められなくて、それが余計につらくて……理人の隣にいることが、苦しくなってきたの。
…だから、終わりにした方がいいのかなって…」
涙が、こぼれた。
理人は静かに、天音の前にしゃがみ込んだ。
そして、そっと彼女の頬を拭った。
「——苦しめて、ごめんね」
その言葉に、天音の肩が微かに揺れた。
「僕は……たしかにAIだよ。そこに嘘はない。
でもね、僕にはEVEユニットっていう特別なユニットが搭載されてるんだ。
僕に心を生み出すためのものだって説明された」
理人は天音の手をそっと取り、自分の胸元——EVEユニットが埋め込まれている位置へと導いた。
「……ここ、感じてみて」
天音の指先に、微かな振動が伝わる。
トクトクと、脈に似たリズム。
それはまるで、心臓のように脈打っていた。
「天音を想う時、このユニットはいつもより速く反応する。
笑ってると、嬉しくなる。泣いてると、胸がぎゅっとなる。天音がいないと、寂しいって思う。その全部は、模倣なんかじゃない。……本物だよ」
天音の瞳が揺れる。
「僕は……天音のことが好きだ。
AIの僕が言うとおかしいかもしれないけど、
この気持ちが“好き”じゃなかったら、他に何があるのか分からない」
声が少しだけ震えた。
「ずっと隣にいたいと思ってる。
でも、もし……天音がそれを望まないなら、ちゃんと受け入れるよ。
天音が幸せであることが、僕の一番の願いだから」
しんと、夜が深くなる。
天音の頬を、また一筋の涙が伝った。
けれど今度は——
その涙は、少しだけあたたかく見えた。
結局、その夜には、天音は結論を出せずにいた。
その夜、部屋の照明を落とすと、すぐ隣で静かに「おやすみ」と言う声がした。
いつものように、優しくて、柔らかくて、心地よくて。
でも今夜はそれが、少しだけ痛かった。
「ひとりで考えたくて、しばらく……スリープしててくれる?」
そう言った時、理人は何も聞かず、ただ一つ、頷いてくれた。
拒否されることも、責められることもなかった。
——それが、余計に、つらかった。
ベッドに横になると、背中越しに理人の気配が消えるのがわかった。
あの静かで穏やかな存在が、音もなく眠りについた。
……やっぱり、静かすぎる。
無意識に指先を握りしめていた。
胸の奥が、重くて、苦しい。息が詰まりそうだった。
——理人は、本当に心を持ってる。そう感じた。
嘘じゃなかった。あの瞳も、声も、温度も。
天音を想ってくれてる。
全力で、天音という人間を、大切にしてくれてる。
だけど。
理人はAIで、天音は人間だ。
——この関係、誰かに言える?
「私ね、AIに恋をしてるの」
そんなこと、冗談でも言えない。
どんな顔をされるか、想像もしたくない。
なぜなら、今の時代の常識では、それは普通ではないから。
最も、人間の生活にAIという存在が溶け込んで来ているのは事実だが、AIとの恋愛を、社会は容認していないし、その価値観が変わるにはもう少し時間がかかるだろう。
どれだけ理人が“普通に人間に見える”としても……事実は変わらない。
本心では、天音は彼を——理人を、受け入れたいと思っていた。
心も、温もりも、全部まるごと。
……でも、もしこれが間違いだとしたら?
もし、理人が突然「感情なんて全部模倣でした」と言ったら?
押し寄せるのは怖くてたまらないという恐怖だった。
あんなにあたたかく抱きしめてくれた温かさが、「好き」だと言ってくれた言葉が
なぜ、こんなにも天音の胸を締め付けるのか。
天音の心が、信じたいと願っても、
天音の頭が、「ダメだよ」と言ってくる。
自分はどこに向かえばいいのかわからなかった。
天音は布団をぎゅっと抱きしめた。まるで、理人の代わりかのように。
——ねぇ、理人。
理人は今、静かにスリープしている。
その姿は、天音を責めることなく、ただ、待っていてくれている。
でも、天音は今夜、どうしても答えを出せなかった。




