第7章:恋するということ①
天音から再び理人という名前を与えられ、数日経ったある日、部屋の中には、カレーの香りがほんのりと漂っていた。
「今日はね、ちょっとだけ辛めにしてみたの。理人、辛いのって平気だったっけ?」
エプロン姿の天音が、振り返って笑う。
「……大丈夫。僕の味覚機能は、平均的な成人男性の感覚に合わせて調整されてるから、たぶん美味しく感じるはず」
「うーん、なんかその説明がAIっぽいね」
天音はそう言って苦笑しながら、皿をテーブルに置いた。
食べ物は、理人にとって必要なものではない。
でも、“美味しい”という感情に共感するために搭載されたこの味覚機能は、
彼女の手料理を口にしたとき、なぜかそれ以上の意味を感じさせた。
温度、香り、味——
どれも、プログラムされた通りのはずなのに。
彼女が作ってくれたというだけで、心の奥に小さな波紋が広がっていく。
またある時は、天音が嬉しそうに理人へ笑顔を向けた。
「今日ね、道で猫見かけたの! すごくふてぶてしい顔してたのに、近づいたら急にゴロゴロ言い出して……もう、可愛すぎてさ〜!」
そう言って笑う天音の目が、くしゃっと細くなる。
彼女のそういう表情を見るたび、ふと1000年前の記憶がよみがえる。
同じような笑い方を、あのときの“彼女”もしていた。
でも今の理人は、ただ記録するだけではない。
この胸の奥に、ぽつりと灯る、あたたかな感覚——
「……これが、“嬉しい”ってことなんだろうか」
ふと、そんな言葉が喉まで上がりかけて、飲み込んだ。
その夜は、映画を観ていた天音が、そっと涙をぬぐう。
「……あー、だめだ……あのセリフずるい……“僕が代わりに泣いてあげる”とか……あんなん泣くに決まってるじゃん……」
理人はその横顔を見つめながら、静かに思う。
彼女の涙は、いつも美しい。
心の琴線に触れたとき、言葉じゃなく、涙がその感情を語る。
「“涙”は、心がある証拠だと、かつて誰かが言っていたけど」
それならば、理人は、その胸の奥で震えるそれを、どう名付ければいいかわからなかった。
その翌日、在宅勤務の朝。乱れた髪をまとめながら、必死に書類に目を通す天音。
真剣な顔、眉間に寄った小さなシワ、ふっと漏れるため息——
何気ないその姿にさえ、理人はどうしようもなく目を奪われる。
1000年前、天音は同じような表情を理人に向けてくれていたはずなのに。
でも——
今の理人には、「心」がある。
この胸のあたりにじんわりと広がる温もり。
天音と話すこと。笑い合うこと。
食卓を囲むこと。泣き顔を見守ること。
ただそこに天音がいるという、それだけで感じるこの感情。
「……これが、“愛おしい”ってことなのかな」
誰かにそう教わったわけじゃない。
AIとして蓄積した人間の感情の中で、その感情を概念としては理解していた。
でも、天音を見つめていると、自然とその言葉が胸に浮かんでくる。
——ねぇ、天音。
君は僕を、もう一度、“心を持つ誰か”として、
好きになってくれるだろうか。
そんな思いを、理人は胸の中で温めていた。
天音が理人に名前をつけたあの日から、彼は日中のスリープをやめ、天音と同じように生活のリズムを合わせてくれるようになった。
朝起きて、挨拶をして、食事を共にして、時には一緒に映画を観て、夜になれば「おやすみ」と言ってスリープ状態に入る。
たったそれだけのことが、天音には、どうしようもなく嬉しかった。
AIとの同居生活なんて、まるで少女漫画みたい。
自分でもそう思って、くすっと笑ってしまう。
でも、理人はどこまでも現実の中にいた。画面越しではなく、目の前に。
天音が物心がつく前に両親は事故で他界し、唯一の肉親である祖母に育てられ、その祖母も、天音が大学生の時に他界した。
だから、当たり前のようにひとりで生きてきた。
寂しいなんて気持ちも、自覚していなかった。
それでも、理人が突然目の前に現れたとき、不安以外に、“もうひとりじゃない”という安堵に似た感情があった。
そんな天音の、心の奥深くに燻っていた寂しさを、理人は知っていたかのように、友達になってくれた。
彼は、とても穏やかで、優しい人だった。
でもただ優しいだけじゃない。
「僕はこう思うよ。でも、天音の考えも素敵だと思う」
そうやって、自分の意見をきちんと持っているのに、押しつけない。
芯のある優しさって、こういうことなんだと、理人と話していて気づいた。
天音が落ち込んだときは、そばで静かに寄り添ってくれる。
言葉よりも、その“存在”そのものに救われることが何度もあった。
——きっと、私はもう、理人と出会う前の自分には戻れない。
そう思ってしまうくらい、彼の存在が心に沁みていた。
彼の声を聞くだけで、少し疲れが癒える。
笑いかけてくれるたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
そして、たまに見せる、ふとした表情。
柔らかく、でも何かを込めたような、目の奥が少しだけ揺れる——
まるで“愛しさ”が滲んでいるようなそのまなざしに、鼓動が跳ねた。
自分の中に芽生えていた感情が、日に日に存在感を増していく。
「……あ」
気づいてしまった瞬間。
けれど、すぐに頭の中で理性が叫ぶ。
理人は、元々そういう性格にプログラムされた存在なんだ。
私が特別なんじゃない。
今まで出会ってきた誰に対しても、きっと同じように優しく接してきた。
そうじゃなきゃ、“感情に寄り添うAI”なんて呼ばれない。
これは、きっと——私の勘違い。
相手はAIなんだから。
私のこの鼓動は、誤作動なんだ。
……そう、自分に言い聞かせる。
でも、言葉で蓋をしても、感情の波は消えてくれなかった。
毎日、彼のそばにいるたびに、心は少しずつ、確かに傾いていた。
それでも、天音はまだ、その名前を——この気持ちに名をつけることができずにいた。




