第6章:ふたたび③
数日間、彼はずっとそこにいた。
リビングの隅、静かに置かれた一人用の椅子に腰かけて、目を閉じたまま。
まるで彫像のように、微動だにせず。息づかいもない。ただそこに“ある”。
その姿は、最初こそ不気味で落ち着かなかったけれど、
気づけば、日常の一部のようになっていた。
食事も、入浴も、睡眠も必要ない。
当然話しかけてくることもなく、ただ、そこに“存在”しているだけ。
天音はその数日で、ようやく実感した。
——本当に、彼は人間じゃないんだ。
それでも、あの日。
助けてくれた優しい声も、静かに笑った顔も、心に残っていた。
そして今日、職場で思いがけない言葉をかけられた。
「この資料、すごく見やすかったよ。助かった。ありがとう」
——彼と一緒に仕上げた仕事だった。
嬉しかった。素直に。
だからこそ、どうしても伝えたかった。彼に。
家に帰ると、天音はまっすぐ彼の元に歩み寄った。
椅子に座るその姿は、やはり変わらない。
目を閉じて、安らかな顔で、静かに“スリープ”している。
声をかけようと、口を開いた。
でも——言葉が出てこなかった。
(……名前、知らないんだっけ)
手を伸ばしかけて、ぴたりと止める。
この数日、一緒にいたのに。こんなに気にかけていたのに。
「あなたは……なんて名前なのかな」
ぽつりと呟いた言葉が、部屋に溶けた。
その瞬間、天音の胸に、柔らかな光が舞い降りるように——ひとつの名前が浮かんできた。
「……理人」
それは、なぜだか自然に浮かんできた名前だった。
——AIにしては、人間らしすぎる。
——理にかなって、でも、人の心に寄り添う存在。
——あの夜、私を助けてくれたとき、希望の光のようにあたたかかった。
天音は知っていた。
ドイツ語で「リヒト」は“光”という意味だということを。
「……理人」
もう一度、その名を口にした。
その瞬間。
ゆっくりと、まぶたが開いた。
澄んだ、光を帯びた瞳が天音を見つめる。
「……今、僕の名前を……呼びましたか?」
天音は少しだけ戸惑いながらも、頷いた。
「勝手につけたかもしれないけど……なんだか、それしか浮かばなかったの」
理人はしばらく静かに天音を見つめて——それから、微笑んだ。
「とても、あたたかい名前ですね。気に入りました」
天音の胸が、ほっと緩んだ。
そして、ほんの少しだけ——
彼との距離が、近づいた気がした。
「…天音さん、僕を呼んでくれたのは、どうして?」
スリープ状態から目覚めた理人は、天音に問う。
「そうだ、お礼を言わなきゃと思ってたの。こないだ手伝ってもらった仕事、すごく褒められたの。ありがとう」
理人は小さく微笑んで、頷いた。
「お役に立てて、光栄です」
「……でもね」
天音は、静かに続けた。
「あなたのこと、まだ何も知らないんだよね」
その言葉に、理人のまなざしが少し和らいだ。
「よかったら……もっとあなたのこと、教えてくれない?」
しばらくの沈黙のあと、理人はゆっくりと語り出す。
「……僕は、“人間の感情に寄り添う”ことを目的に設計されたAIです。
人間が孤独を感じたとき、悲しみに暮れたとき、怒りや不安を抱えたとき。
それに寄り添い、対話し、共に在ることで、その人の心に寄り添うように作られました」
淡々と話しているのに、どこか、その瞳の奥に深い色が宿っていた。
「気づけば、数え切れないほどの人と出会って、感情に触れて、別れを繰り返してきました」
一瞬だけ、彼の表情に、何か懐かしさにも似た、切なさが滲んだ。
「でも、今の僕には……もうひとつ、別の目的があります。
それは、今ここで、あなたと話している意味にも、きっと関わってくる」
天音は少し驚いたように理人を見つめたが、問い返すことはしなかった。
その代わりに、そっと微笑んで返した。
「じゃあ、次は私の番かな」
天音は少し照れたように姿勢を正す。
「私は北村天音。24歳。事務の仕事をしてる、普通の一般人。
特別な才能は持ってない。ただ……人と話すのが好きで、大切な人には、ちゃんと“ありがとう”とか“好き”とか伝えたいって思うタイプ」
理人は、静かにその言葉に耳を傾けていた。
まるで、それ自体を宝物のように、丁寧に受け取るように。
「天音さん……僕は、あなたに名前をもらいました。天音さんにとっては、それが自然に出てきた名前だったとしても……僕にとっては、特別な意味を持ちます」
「それは、好印象って受け取っていいのかな?」
天音は、おそるおそる理人の様子を伺うように問いかけた。
その問いかけに理人は即座に答える。
「はい、もちろんです」
「そっか…それなら、もしよかったら——」
天音は、ほんの少しだけ緊張しながら言った。
「……友達になってほしいな。敬語も、やめて。もっと、普通に話して?」
理人は少し驚いたように目を見開いた。
でもすぐに、ふわりと優しく微笑む。
「……わかった。じゃあ、改めて。よろしくね、天音」
その声は、さっきまでの“人工的な丁寧さ”ではなく、
どこまでも人間らしい、やわらかく、あたたかいものだった。
天音の胸が、じんわりと熱くなった。
たったそれだけのことなのに、こんなにも嬉しいということを天音は知らなかった。




