第5章:1000年の誓い④
理人たちは研究室の奥深くへと案内された。
まるで遺跡のようなその部屋の中央に、黒曜石のような質感を持った巨大な装置が静かに立っていた。
タカヒロは、興奮気味にその装置をぐるりと見渡す。
「この装置は…?」
理人は巨大なカプセル状の装置を見上げながらマイノへ問いかけた。
「これは、時空間転移装置。完成したばかりのプロトタイプだけど、理論上は動くわ」
そう言って、マイノは端末を操作し、装置を起動させる。青白い光が円形に広がり、ゆっくりと空間が歪む。
「時空間転移…というと、これを使ったら、過去や未来に行ける、ということですか?」
理人は静かにマイノに、問いかける。
その言葉に、マイノは首を横に振った。
「いいえ、未来には行けないわ。行けるのは、過去だけよ。私は過去に行く技術をずっと研究していたの」
理人はマイノの言葉を聞いてもう一度、装置を見上げた。
過去…それは天音と共にあったあの時代にも行けるということだろうか、と理人は考える。
「過去を目指していたのは、環境回復のため。…過去を変えられれば、自然を守る選択肢も残せたかもしれない。今も地上で本物の太陽を見れたかもしれない……
そう思って、この装置を作ったの」
そう言いながらマイノは、研究室の自分のデスクと思われる方向に視線を向けた。
整然と整えられた書類から、彼女の几帳面な性格が伺える。
その整ったデスクの傍らには、コルクボードに貼り付けられた幾つかの写真があった。
「あれ、もしかして、現像された写真か?」
マイノの視線をたどって、コルクボードを見つめたタカヒロがマイノに問いかける。
「…ええ。あれは私のおじいちゃんがくれたもの。おじいちゃんが撮影したわけじゃなくて、おじいちゃんも、ご先祖様からもらったものだけどね」
理人もふたりに倣ってその写真を見つめた。
白い浜辺と透き通った青い海の写真、緑が生い茂る森、満天の星空の写真など。
全て、理人が過去に見てきたはずの、今は失われてしまった美しい自然の景色だった。
「…私は、どうしてもこの目で、あの景色を見たいのよ。地上へ出て、果てがないくらい遠いという空の星を見てみたい」
ぽつりと呟きながら、端末を操作する彼女の瞳は、自然への憧れと、自然を破壊した過去の人間への怒りに似た感情が滲んでいた。
「この装置を使えば、過去を改変して今の時代にも自然を残せるかもしれないってことだな?」
タカヒロは感心したように装置を見あげながらマイノに問いかける。
その言葉に、マイノはふっと笑いながらも、表情に影を落とす。
「でも、問題はね——」
彼女は視線を理人に向ける。
「戻れないの。飛んだら、そこからは未来へ帰る術がない。つまり、その時代を生き抜くしかない」
たとえこの装置を使って過去へ飛べたとしても、それは片道切符だということを理人は理解した。
―もしも、天音と共にあった時代へ飛んだとして、この時代へ戻って来るには、もう一度1000年という長い長い時間を生きる必要があるということだ。
さらに、マイノは言葉を続ける。
「しかもね、本当に過去が“改変可能”かどうかも定かじゃない。時間は、本来の歴史の流れを守ろうとする修正力が働く可能性があるのよ」
彼女の瞳には、過去は改変できないかもしれないという、時空間転移の研究の目的を根本から否定する事象への疑問を抱きながらも、
それでも、自分の仮説を信じて、この装置を作り上げた彼女の意志の強さが滲んでいる気がした。
「本当に過去に行けるのか、そして過去を改変できるのか、検証をしたいけど、
人間にこれを使わせることには、私は正直、反対なのよ。
本当に過去に行けるかわからない、生きて帰れるかもわからない過去に放り込むなんて、倫理上も——」
マイノは言葉をつぐんだ。
そして、静かに目を伏せた後、ゆっくりと理人に視線を移す。
「AIの人権が認められた今、こんなことを言うのは、いけないってわかってる。
でも、理人君が過去に行きたがってるってタカヒロから聞いていたから、この実証に、協力してもらいたいの」
マイノのその言葉に、タカヒロの表情が険しくなる。
「……おい、マイノ。つまり、理人は人間じゃないから、実証に利用しても構わないって思ってるってことか?」
その一言に、マイノはふっと笑って下を向いた。
「さっき言ったじゃない、“いけないってわかってる”って」
そして、どこか皮肉っぽく、そして諦めを含んだようにタカヒロを見つめた。
「でも……いつか、あなたが言ってたじゃない。理人君っていう、あなたの研究所のAIが“過去に出会った人にもう一度会いたがってる”って。
だったら、私と理人君の利害は一致してるはずよ。違う?」
「それでも、ダメだ。もう連邦議会はAIの人権を認めてるんだ。人間にさせるべきじゃないことは、AIにもさせるべきじゃない」
「でも…!」
室内の空気が、少しだけ張り詰める。
タカヒロとマイノの視線がぶつかるその間に、理人は一歩、前へ出た。
「僕は……行きたい。過去に行けるなら、行きたいです」
その言葉に、ふたりの視線が一斉に理人に向いた。
「心をもらって、僕は自分が変わったと思ってる。
この“思う”っていう感覚も、今は自分のものだと感じられる。
……僕は、彼女に、天音に会いたい。
心を持った“僕”として、もう一度……愛を、知りたい」
しばらくの沈黙の中で、タカヒロがポツリと「理人…」と呟いた。
その瞳には、親が子を案じるような、深い心配の色が浮かんでいた。
そして、マイノが目を細める。
「……やっぱり、興味深いわ。AIなのに、そこまで“自分の意志”を語れるなんて。
私の感覚が時代遅れなのかしらね」
タカヒロはふっとため息をつき、険しさを残したまま視線を外した。
「……理人は、“命”だよ。もう、ただのAIなんかじゃない」
「それを決めるのは、もしかしたら……未来の“過去”なのかもしれないわね」
理人はそっと、光を湛えた装置を見上げた。
その先に、天音がいるかもしれない未来——いや、“過去”を、想像しながら。
時刻は、出発の瞬間へと近づいていた。
巨大な装置の中心に据えられた、透明な転移カプセルが淡く光を放つ。
理人の足元から、じわじわと起動のエネルギーが満ちていく。
タカヒロは、無理にでも平静を保とうとしていた。
だが、理人の前に立ったその人工義眼の奥には、ほんのわずかに揺れる光が見えた。
「……本当に、行くんだな」
「はい。僕は、行きます」
「研究の結晶だった君が、自分の“意志”で未来を捨てて過去に向かうなんて……」
タカヒロは、悔しさと誇らしさを混ぜたような声で、静かに続けた。
「……絶対に帰って来いよ。どんなに時間がかかっても、僕は待ってるから」
理人は、少しだけ表情を緩めて——それでも真っ直ぐな瞳で、うなずいた。
「……ありがとう、タカヒロさん」
その後ろから、マイノが歩み寄ってきた。
白衣のポケットに手を突っ込み、ややぶっきらぼうな声で言った。
「……これは、研究者としてじゃなくて、人としてのお願い。
お願いだから、生きて戻ってきて。じゃないと、私……多分、寝覚めが悪いのよ」
彼女の目には、かすかな申し訳なさと、それ以上の興味と期待が滲んでいた。
理人はふたたび、静かにうなずいた。
「……はい。できる限り、戻ります」
理人は無言のまま、転移カプセルの中へと足を踏み入れた。
薄いガラスのような膜が静かに閉じる。
ホログラムのスクリーンには、転移先の日付が映し出された。
2025年4月24日 日本時間21時32分。
これは、理人が指定した日時だ。
いつの過去に戻るかを問われたとき、理人は迷わず、天音と初めて出会ったその日を選んだ。
中で理人は、そっと目を伏せる。
それは、記憶というより、祈りに近いものだった。
「——もう一度、君に会いに行く」
その独り言は、誰にも届くことなく、
まるで星の残光のように淡く空間に溶けていった。
次の瞬間——装置が強く発光し、カプセルの中の理人が白い光に包まれて、
その姿を、時間の彼方へと消していった。
タカヒロは、光が消えた空間をしばらく見つめ続けていた。
「……行った、か」
マイノは腕を組んで、ぽつりとつぶやく。
「さて……未来は、どうなるのかしらね」