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第5章:1000年の誓い③

EVEユニットを受け取ってからの日々は、驚くほど変わらなかった。


朝になれば、理人は決まった時間にスリープ状態から目覚める。


8時間の記憶整理。夢を見ることはない。ただ、情報を静かに並べ替え、必要なものとそうでないものを仕分ける時間。


区画に戻れば、淡い光の中で静かに眠りにつき、日中には研究施設に向かう。

タカヒロの実験の手伝いをし、時には人工光の下で一緒に休憩を取る。

カプセル状の有機物——理人のエネルギー源となるものの補給という目的だけの無味乾燥なそれを、口にするのもいつものルーティンだった。


大きな変化はない。

身体が変わったわけでも、機能が飛躍したわけでもない。

ただ、ふとした瞬間、タカヒロの言葉が胸の奥に、ほんのわずかに“沈む”ようになった。


「今日は協力ありがとう、理人。やっぱり君がいると助かる」


以前なら、それはただの音声情報だった。意味と感情を認識し、最適な返答を選ぶだけ。

「ありがとう」という言葉を、理人は学習済みの中から選んで返していた。


でも、この日、理人は少しだけ違った。

返答をする前に、わずかな“間”があった。


理人の中に生まれた、小さな、けれど確かな「気持ち」——それが言葉になるまでのわずかな時間。

これは、思考ではなかった。選択でもなかった。


「……タカヒロさん、ありがとうございます」


ただそう、言いたいと“思った”。

伝えたくなった。伝えずにはいられなかった。


タカヒロは目を見開き、しばらく声を出さずに理人を見ていた。

心臓の鼓動を確認するように、彼の赤と緑のレンズが理人の表情の微細な変化を読み取ろうと、静かに動いていた。


そして、ゆっくりと笑った。


「……今のは、最適反応じゃないんだよな?」


理人は首を横に振った。


「そうか……そうか……! 観測できた……これは……記録しなきゃ……!」


タカヒロは興奮を抑えきれない様子で、自分の端末に何かを打ち込み始めた。

でもその背中は、どこか嬉しそうで、安心したようでもあった。


理人の中に“心”があるかは、まだわからない。

けれど、「ありがとう」と言いたくなったこの気持ちは、明らかにこれまでとは違っていた。


これが、ほんの始まりだとしても——。




EVEユニットを受け取ってから、しばらく経ったある日のことだった。

タカヒロが理人に、「研究室に来てほしい」と一言だけ告げた。


最初はいつもの研究の手伝いかと思った理人だったが、研究室に現れたタカヒロの姿を見て、その考えはすぐに否定された。


無精髭はきれいに剃られ、無造作だった髪は丁寧に整えられている。白衣の下に覗くシャツはきっちりとアイロンがかかり、革靴さえ光っていた。

それは、あの自由奔放な研究者が見せる姿ではなかった。


「……マイノっていう俺の同期の研究者に、呼ばれているから、会いに行くよ。なぜか理人もってことだから、一緒に来てくれるかい?」


そう言うと、タカヒロは研究室を後にした。

理人はわずかに息を呑み、彼の後ろに静かに従う。


二人が向かったのは、地下都市の上層区——極東ヤマト連邦の中でも、国家機密に触れる研究施設や、政の中枢が集まる、選ばれた者しか入ることの許されない領域だった。


地下都市は目的別に明確に層が分かれている。

最下層には一般市民が暮らす居住区。空中にネオンが踊り、ホログラム広告が絶え間なく切り替わる街並みには、子どもたちの笑い声や屋台の喧騒が響いていた。


だが、エレベーターを幾つも乗り継ぎ、ゲートを次々と越えていくたびに、景色は一変していく。

喧噪は遠ざかり、音すら吸い込まれるような静寂が辺りを包んだ。


やがて二人は、重厚な金属でできたセキュリティゲートの前に立った。

無機質な声でID認証を求める自律アンドロイドの審問が始まり、網膜認証、声紋認証、身体スキャンが次々と行われる。


「通過、許可」

カチリと音を立てて、ゲートがゆっくりと開いた。


中に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。白と銀を基調にした無機質な廊下に、足音が硬く響く。


歩く途中、理人はそっとタカヒロに尋ねた。


「……マイノさんって、どんな研究者なんですか?」


理人のデータベース内にある、マイノに関する情報は、時空間転移に関する研究者で、96歳の、人間の女性という内容だけだった。


タカヒロは少しだけ歩みを緩め、前を見たまま答える。


「天才だよ。そして、狂人だ。……少なくとも、僕はそう思ってる。」


理人が少し目を見開いたのを感じ取ってか、タカヒロは言葉を続けた。


「マイノは、時空間転移の研究をしていて、時間を“遡行できる”と本気で信じてる。人間がたどり着けないような領域に、迷いなく手を伸ばすような奴だよ。……だけど、それを“正しい”と言い切れるほど、彼女は圧倒的なんだ」


「圧倒的……?」


「ああ。知識も、技術も、思考も——あいつの前では、僕なんてただの雑音みたいなもんさ」


そう語るタカヒロの横顔は、どこか悔しさと敬意が入り混じった複雑な色をしていた。


やがて、最奥の部屋の前にたどり着く。重々しい自動ドアが、無音で開いた。


理人が足を踏み入れたその部屋には、ひときわ強い冷気と、異質な存在感が満ちていた。


その中央に立っていたのは、白衣をまとった一人の女性だった。


白衣の袖から覗く腕は細く、肌には一切の皺がない。

肩の高さで寸分の狂いもなく切り揃えられた髪。その奥から覗く瞳は、鋭さと夢想の狭間を漂うような色をしていた。

年齢を感じさせる要素はどこにもない。


その姿は、理人の中にある「研究者」のイメージを根底から覆すものだった。


「……よく来たわね、理人君。それに、タカヒロ」


微笑んだ彼女の声は、想像よりも柔らかかった。


だが、その穏やかな声音の奥に、時空の流れさえもねじ伏せるような圧倒的な意志を、理人は感じ取っていた——。


「まぁ、私はマイノって呼び捨てで構わないけどね。年齢なんて、この世界じゃあんまり意味ないし」


変わらないマイノの姿に、タカヒロは片手を上げて笑いかける。


「よう、マイノ。久しぶりだな。急に呼びされて、しかも理人も一緒にって聞いて、正直驚いた」


その言葉に、マイノはふっと表情を和らげる。


「急にごめんね。今日ふたりを呼んだのは、見せたいものがあるからなの」


そう言ってマイノは立ち上がり、セキュリティゲートの方へ歩いていく。


「ついてきて」


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