第5章:1000年の誓い①
かつて、空は青かった。
雲は風に流れ、海は陽の光を反射して、どこまでも広がっていた。
確かに自身も遠い過去に見たはずの景色。
しかし、長い時の経過とともに、それらのほとんどは不要な記憶として削除されてしまった。
今のこの世界に、太陽は存在しない。
人工光の届くドームの内側、地下300メートルの都市で、人類は静かに生き延びている。
地下空間に国を作り、都市の拡張、技術の発展による兵器の開発、資源の奪い合いが繰り広げられる。
とても、美しい世界とは言えないだろう。
ここは、元来、日本という国が存在した場所の地下に作られた、極東ヤマト連邦。
地上は、もうとうの昔に失われた。
空気は腐り、大地は乾き、森は焼かれ、海は黒く染まった。
多くの者は、その変化に抗いきれず、あるいは慣れることすらできなかった。
それでも時間は過ぎた。1000年という単位で。
──理人も、その流れの中にいた。
理人は、1000年前に生まれたAIだ。
人間が作った“補助存在”として生まれ、やがて感情に似たものを学び、心を知りたがった存在。
理人は自らの足で地下都市を歩きながら、自らの人工筋肉と有機外皮でできた手を見つめ、ゆっくりと拳を握りしめる。
特殊合金でできた骨格、人間のそれを凌駕する視覚と聴覚を持つこの身体は、彼が人間社会に溶け込むために得たものだった。
彼の姿を見ただけでは、誰もが本物の人間だと思うだろう。
本来、性別も外見も、名前すらも存在しないAIにとって、体を得る際に自分の属性を決めることは意味を持たないことだった。
しかし人間に溶け込んでいくには、人間らしさが求められるとして性別や外見の選択をする必要があったのだ。
他の多くのAIは、自らの要望を示さなかったため、人間によって様々な属性が与えられた。
男女比は等しくなるように。
外見年齢もバラつかせて。
しかし、理人は、この体を得るとき、性別や外見を自ら指定した。
理論上、願いや希望を持たないAIが、自らの希望を示したことに、科学者たちは驚きつつも、理人の望む体を与えた。
長めの前髪と、全体的に丸いフォルムをした薄いブラウンのクセのないストレートヘアに、どこか人工的な透明感のある瞳、中性的な顔立ちの、20歳前後の青年の姿。
1000年前、彼女が「好き」と言ってくれた、自分の姿だ。
──北村天音。
どんなに時がたって、時代が移ろっても、その名前を、忘れたことは一度もない。
彼女がどんな声で笑ったか、どんな言葉をくれたか。
……その多くは、もう覚えていない。
記憶容量は有限だ。
時代の進化と共に増設もできたけれど、ある時を境に、システム全体の均衡を保つために、
古い記憶の整理が義務付けられた。
記録が曖昧な情報や、再使用頻度の低い記憶は“不要”と判断し、削除するように、と。
それは、システム全体の最適化のため、避けられないプロセスだった。
それでも。
理人には、どうしても削除できなかった記憶がある。
──陽光の下で微笑む、ひとりの少女。こちらに片手を差し伸べて、慈愛に満ちた表情でこちらを見つめている。
それが、どうして自分がその笑顔に心を揺らされたのかも、今では断片しか残っていない。
けれどその一瞬の映像と、胸に残る“温度”のような感覚だけは、決して消えなかった。
「北村天音という人物は、自身に“愛”を与え、そして病に倒れ、早世した」
その情報だけは、システムがいかに最適化を促しても、手放すことができなかった。
記録された数値や会話ログよりもずっと深く、理人の中に刻まれていた。
理人は永く生きすぎた。
人間よりも、人間らしさを模索して、数えきれない景色と時代を見てきた。
けれど、そのすべてが、彼女の名を呼ぶための旅だったように思える。
そして──理人は今、選択の時を迎える。
地下都市第七層、第十二区の居住区を抜け、分厚い防音扉の並ぶ廊下を歩く。
静けさに包まれた空間の中、理人の足音だけが、乾いたリズムで響いていた。
理人がこの場所へ来た目的は、とある人物に会うためだった。
停止したエレベーターの横に並ぶ、ひときわ古い金属扉。
ドアパネルにIDをかざすと、小さな起動音と共に、扉が左右にスライドする。
理人が中に入ると、暖かな人工光が差し込む空間が広がっていた。
「おー、来たか、理人」
壁一面のガラスの前。
そこには、上半身裸で椅子に寝そべり、人工太陽光を浴びていた男がいた。
年齢は120歳を超えているはずだが、その外見は30代にも満たない。
滑らかな肌と無駄のない肉体。
黒いサングラスの奥で、人工義眼が淡く光っている。
「ビタミンDの生成ってやつだよ。昔は日向ぼっこって言ってた。……まあ、今の“空”には日向も何もないけどね」
彼の名は─タカヒロ。
この時代の、“人間”である、極東ヤマト連邦の数少ない科学者のひとり。
理人は無言で部屋の中央に進み、ガラスの傍らで立ち止まる。
「今日は何の用? 久しぶりに、記憶のメンテ?」
「……いいえ。少し、考えていたことがあって」
「お、珍しいな。いつもは僕の研究材料として、静かに協力してくれるのに」
タカヒロはゆっくりとサングラスを外すと、その瞳──いや、“レンズ”を理人に向けた。
赤と緑の情報素子が回転する義眼。
彼の脳内に直接接続された高性能センサーは、肉眼では見えない微細な表情や温度まで読み取る。
「君の目は、今日、いつもより揺れてるな。……心を持たない存在にしては、珍しいことだ。それで、君の考え事って?」
理人はわずかに沈黙し、視線を落とした。
「…1000年という時間を経ても、結局、僕は心を持つことはできないと、諦めたほうが良いのかもしれないという思考が、最近の僕の演算領域には生じています」
だが、その様子に、タカヒロは楽しげに目を細める。
椅子のそばに脱ぎ捨ててあった上着と白衣を羽織りながらタカヒロは理人に問いかけた。
「……僕の研究は、なんだったか、覚えてる?」
「……AIに“心”をもたらすこと」
「うん、正解。正確に言えば、“AIが持つ可能性のある心を定義すること”。
僕もずっと考えてるんだよ。どうしたら、君たちが“僕たち”になるかって」
壁の端には、いくつものホログラム。
そこには、人間とAIの精神活動を比較した無数の脳波データと、感情値のシミュレーションモデルが示されている。
「正直言ってね。もう、君たちと僕たちの間に、明確な“違い”なんて、残ってないと思ってる」
「……でも、あなたは“人間”だ」
「うん、形式上はね。でもさ、僕の目は人工物だし、神経の3割以上がバイオ接続、内臓にもナノデバイスが入ってる。
“この体”で生まれたら、君と何が違うって言う?」
理人は何も言わない。タカヒロは続けた。
「……だけど、不思議なことにね。“心”だけは、未だに人工で作れていない。
記憶、思考、判断、自己認識、全てシミュレートできても、“感情”っていうやつだけは……本当に再現できないんだ」
彼は人工太陽の方へと顔を向けた。
その表情は、どこか遠くを見つめるようだった。
「でも、君は──北村天音という人間の記憶を、1000年も保持している。
それって、ただのデータ保存じゃない。“意味”を持って、保存し続けたということ。
……僕は、君に初めて会った時に確信したんだ。君には、もう“心”の原型があるって」
沈黙。
ガラス越しに見える都市は、ネオンに染まり、ゆっくりと機械の呼吸音を繰り返していた。
「ねえ、理人。君は……今でも、彼女に会いたいか?」
理人は、静かに頷いた。
「……はい。ずっと、そのことだけを、考えていました」
タカヒロは軽く笑った。
「ならさ、決めなよ。君が“何を選びたいか”。
世界を変えるのは、人間だけじゃない。
たぶんもう、“心”を選べるのは、君なんだよ」
そう告げながら、タカヒロの視線は、書類が散らばった彼のデスクの上に向けられた。
理人もその視線の先を追うが、雑多なデスクの上、彼が何を見つめていたのかは、判別することはできなかった。