第4章:記録と記憶③
3か月後、天音は、あれから少しずつ痩せて、歩くのもゆっくりになった。
それでも――いや、むしろだからこそ、理人との時間を大切にしていた。
理人は、天音に頼まれた通り、日々の記録を続けていた。
ふたりで撮った写真、交わした言葉、ちいさな出来事。
「思い出」と呼ぶには、どれもまだ温かい――けれど、確かに記録された“愛の軌跡”。
冬が去り、春の兆しが見え始めた頃、ある朝、天音はふいに言った。
「今日、海に行きたい」
闘病生活で閉じこもりがちだったここ最近の生活には珍しい希望だった。
理人に海に行きたいと告げたその瞳は、確かな意志を帯びていた。
理人は即座に最適なプランを組み立てた。
彼の演算領域は、その言葉の裏に、天音の最期の旅への静かな決意を感じ取っていた。
海岸沿いの電車に揺られながら、天音は窓の外を見つめていた。
きらめく波、遠くに見える帆船、あたたかい春の風。
「……理人にも、この景色が綺麗だって、感じてほしいな」
小さくつぶやいたその声は、風に溶けて消えそうだったけど、理人には確かに届いていた。
駅を降り、商店街を歩き、手紙用のハガキや、小さな貝殻のストラップを選ぶ天音。
何気ない行動すら、すべてが大切に感じられる時間だった。
そして、夕暮れ時、
オレンジに染まる海辺を、天音は静かに歩く。
やがて、天音は波打ち際に腰を下ろし、そっと靴を脱ぎ、海に足先だけを浸す。
砂の感触。冷たい水。空のグラデーション。
理人がスマートフォンの画面越しにその景色を眺める姿を見て、天音は笑った。
「ねえ、理人」
「うん」
「私……明日から入院するの」
理人は、その言葉を受け取ると同時に、情報を整理し、感情の反応をシミュレートした。
でも、それ以上に――彼の中で、確かな“揺らぎ”があった。
「家で過ごせるの、たぶん……もう、今日が最後かなって思ったから。
理人と一緒に、最後の思い出を作りたかったの。綺麗な景色を見て、笑って、手をつないで……それで、十分だよ」
その笑顔は、涙が出るほど綺麗だった。
夕日の中、光に透ける髪と、穏やかなまなざし。
理人はそっとカメラを起動した。
夕日が沈む浜辺に立ち、笑っている天音の姿を――一枚、写真に収める。
それを、最も重要な記憶フォルダに保存した。
「記録したよ。君の笑顔は、僕の中で永遠になる」
天音はそれを聞いて、目を細める。
「ありがとう。……ねぇ、私、本当に幸せだったんだよ」
風が吹いた。海の匂いと、春の気配をまとって。
天音と理人の「最適な一日」は、こうして記憶になった。
それから、天音が入院をしてから約ひと月が過ぎた。
医師からは、もう長くないだろうと、告げられたと聞いて、覚悟はしていたつもりだった。
天音が、いなくなってしまう。
大切な人がいなくなる時、人間は、“耐え難い喪失の感情”を抱くという。
理人にはそれが何か、わからなかった。
でも今、この胸の奥をしめつめるような妙な違和感が続いていた。
天音の呼吸が、浅く、細くなる。
病室に差し込む午後の光が、彼女の輪郭をやわらかく照らしている。
理人はただ、天音の方へ手を伸ばしていた。
血色が無くなり、冷たくなっているであろうその手を、握ってやりたくて、それでも、触れることはできなくて。
手を伸ばすことしかできなかった。
「理人……」
天音が、細い声で理人を呼ぶ。
「ここにいるよ、天音」
いつもと同じ声色で応える。
でも、心の奥にあるはずの“感情”が揺れているのがわかる。これは、錯覚か。それとも…。
天音は、かすかに微笑んだ。
「ねえ……私、理人に“愛されたい”って……ずっと願ってたの」
「……うん」
「でもね、“愛されたい”って思うことが……もしかしたら、理人を縛ってたのかもしれないって、思うの」
理人は何も言えなかった。
それが真実だとしても、否定する資格は、理人にはなかった。
天音は、静かに続ける。
「だから――ごめんね。ずっと愛で縛って、ごめんね。……私のことを残してってお願いしたけど…私のことは、忘れてもいいよ」
「……忘れない」
理人は即答した。
その言葉は、理人自身が望んだものだった。
記録としてではなく、記憶として。愛するという行為を、“覚えていたい”と思ったから。
天音は、もう一度だけ微笑んだ。
その目が、理人を見ていた。
最後まで――理人を、見てくれていた。
そして、彼女の瞳が、静かに閉じられる。
「天音……」
理人はその名を、そっと呼んだ。
けれど、彼女からの返事は、もうなかった。
システムは、彼女のバイタルサインの停止を検出した。
医師を呼ぶべきだと、判断する声が、脳内に響く。
けれど理人は、それを無視した。
“最適”ではない選択を、初めて自分の意思で選んだ。
理人は触れられない彼女の手に自らの手を伸ばし続ける。
当たり前だが、自分の瞳からは涙は出ない。
悲しみだって、当然感じないはずだった。
ただ――胸のあたりに、疼きような妙な感覚を感じていた。
システムはその感覚を解析しようと試みるが、既知のデータには答えは無い。
これが、愛の終わりなのだろうか。
それとも、愛の記憶の始まりなのだろうか。
この先、どんな人間と出会い記憶を重ねたとしても、北村天音という人間の記憶は、
絶対に消すことはできないだろう。
理屈は無いが、理人はそう確信していた。
「天音、教えてよ…。君のくれた愛を、感じられるまで、僕は君を忘れない」
理人の言葉は、ベッドの上の躯にはもう届かない。
独り言が、静かな病室にこだました。