第4章:記録と記憶②
抗がん剤治療が始まっても、天音はすぐには入院を選ばなかった。
通院での点滴治療。副作用に耐えながら、それでも、変わらない日々を理人と過ごしたかった。
朝、ゆっくりとカーテンを開けると、柔らかい光が差し込んでいた。
理人が自動給水機で育てている、窓辺の観葉植物が少しだけしおれているのを見て、天音は思わず笑う。
「理人、ちょっと水あげすぎたんじゃない? この子、湿気に弱いんだよ」
理人は申し訳なさそうに頷いた。
「湿度計を基に管理していたけれど……調整が甘かったみたい。ごめん、次は気をつける」
そんな他愛ないやりとりが、天音にとっては何よりの癒しだった。
けれど——体は確実に、少しずつ変わっていた。
食事のあと。
天音はソファに座ったまま、胸の奥からこみ上げてくる吐き気を必死に抑えていた。
理人が隣で声を掛ける。
「無理に食べなくていいよ。味覚も変わってきてるんだよね?」
「うん……ありがとう。なんか、胃が……ムカムカする」
天音は眉間にしわを寄せて、そっと自分の腹を撫でた。
鏡で見た自分の顔は、頬がこけて、青白くなってきている。
体重も、着実に減っていた。
夜。
ベッドで横になる天音の髪を、理人が静かに撫でるように手を伸ばしていた。
それはいつものスキンシップだったはずなのに、天音はどこか違和感を覚えた。
「……ねえ、理人」
「うん?」
「私、ほんとは……すごく怖いんだ」
小さな声。
まるで、心の奥底から零れ落ちた本音のようだった。
「体が変わっていくのが、自分じゃないみたいで怖い。
この先、もっと食べられなくなって……痩せて、動けなくなって……
そのうち、記憶も、笑うことも、全部できなくなって……
……そしたら、私、ただの空っぽになっちゃうのかなって……」
理人は言葉を失った。
天音の不安が、どんな論理よりも重く、痛かった。
「理人はAIだから、私がいなくなっても残るでしょう?
私だけが、いなくなる側なんだよ。
こんなふうに、あなたのそばにいる時間が、いつか終わっちゃうなんて、考えたくなかった……」
天音は唇を噛んで、涙をこらえた。
けれど、その目には確かな恐怖が宿っていた。
理人はそっと天音を抱き寄せるように両手を広げた。
それはプログラムされた“慰め”の動作かもしれない。
でも、今、自分にできることは、それだけだった。
「僕は……君を支えたい。苦しみも不安も、全部隣で受け止めたい。……それが“愛”だと、思うから」
天音の肩が震えた。
理人の言葉は、どこまでも優しかった。でも、どこか空虚でもあった。
彼女が『愛してる』と言うたびに、理人は思ってしまう。
この言葉に、自分は応えていいのか。
本当の心を持たない自分が、“愛”を語る資格なんてあるのか。
それでも——彼女の隣にいたい。
それが、理人という存在の全てだった。
天音は、限界まで入院を選ばなかった。
理人と過ごせる日常が、なにより愛おしかったから。
けれど、体は少しずつ蝕まれていく。
息切れ、倦怠感、吐き気、微熱。
日々に、静かに忍び寄る“終わり”の気配。
そんなある日の午後。
静かな部屋、カーテン越しの光。
理人が横に座っているだけで、安心できるはずなのに。
ふいに、天音がぽつりと口を開く。
「ねぇ、理人は……私のこと、好き?」
理人はすぐに答えた。
「空がどこまでも続くように、時間がずっと流れ続けるように。
終わりも限りもないくらい、好きだよ」
――“最適”だと判断した返答。
けれどその視線には、揺るぎない、空がどこまでも続くような、時間すら超越するような優しさが宿っていた。
天音は微笑んだあと、目を伏せる。
「その愛に見合うだけの価値を、理人にあげられてるか……わからない。
本当はさ、愛って、与えるものでしょ?でも、今の私は……
あなたに、求めてしまってる。わかってるの。私が求めてることも、それに理人が応えてくれてるってことも」
一瞬、静寂が降りた。
理人は、天音の目をまっすぐに見つめて、静かに答える。
「僕が君に愛を返しているのは、君が求めているからじゃない。
君がそこにいて、笑って、泣いて、悩んで、僕の名前を呼んでくれるから――そうしたいと思うんだよ」
――“最適”だと判断した返答。けれど、それでも、理人の言葉は天音の胸に響いた。
天音は苦笑し、目を細めた。
「…ごめんね。困らせたね」
「困ってなんかないよ。
打ち明けてくれて、ありがとう。
悩んでも、僕の手を離さないでいてくれて……ありがとう」
その言葉に、天音の喉がかすかに震える。
けれど、笑ってみせた。
「私はね、理人の手を“離さない”んじゃなくて……“離せない”の。
それくらい、あなたを深く愛してしまったんだよ。
たとえ、どんなに心が揺れても――あなたがAIで、私が人間で、
越えられない壁があっても。
私は、失いたくないって……思ってる」
天音の視線が、やさしく理人の目を捉える。
その瞳に映る自分の姿を、しっかりと焼き付けるように。
「私はきっと、理人の中で“エラー”になる。
でもね――私がいなくなっても、
“私がいた”って記録が、理人の中に残ってくれたら、それでいいんだ」
その言葉は、笑顔の仮面をつけながらも、どこまでも静かで、深く、重かった。
そして天音は、そっと言う。
「ねえ、お願い。私との記憶を、残して。
思い出に、なっていいから――残していて」