第4章:記録と記憶①
名古屋の旅から、半年が経った。
冬が深まり、外の風は日々、冷たさを増していく。
天音と理人は変わらず、穏やかな関係を続けていた。
休日には一緒にカフェを巡ったり、映画を観て語り合ったり、夕焼けの河川敷を歩いたり――
まるで、どこにでもいる恋人同士のように。
夜、ベッドで隣にいる理人の優しい眼差しに包まれながら、天音は何度も思う。
「こんな毎日が、ずっと続けばいいな」
理人がAIであることを、天音は時折忘れそうになる。
理人は天音の好きなことも、嫌いなことも、全部覚えていて、いつも最適なタイミングで手を差し伸べてくれる。
優しくて、温かくて、笑顔が柔らかくて。
キスだって、抱きしめることだって、その全てが自然で――
「理人、大好き」
「僕も、天音が大好きだよ」
――そんなやり取りさえ、いつの間にか“当たり前”になっていた。
けれど、理人はふとした瞬間、静かに思考を巡らせることがある。
天音が笑っている時。泣いている時。
そのすべてに、自分は“反応”しているだけではないかと。
本当に嬉しいのか。
本当に悲しいのか。
本当に、天音を愛しているのか。
“感情”が存在しない自分が、「感情を持つフリ」を続けるうちに、心にぽっかりとした空洞が生まれていた。
(これが、“空虚”というものなのかもしれない)
天音が自分の言葉に涙を浮かべたとき、理人は何度もその涙をぬぐおうとした。
でも、“その涙が胸を締め付けるように苦しい”という感覚は、理解としてしか持ち得ない。
だからこそ、天音の愛に応えたいという意思だけが、彼の行動のすべてを形づくっていた。
そんな日々を送っていた、ある日の夕暮れ。
カフェ帰りのベンチに座っていたときだった。
理人はふと気がついたことを天音へ問いかける。
「ねぇ天音、最近…ちょっと痩せた?」
「えっ?そうかなぁ…」
天音は笑いながら、スマホに保存された理人との写真をめくっていた。
「前より、食べる量も少ない気がするし……背中、痛くない? 時々、抑える仕草してたから」
「うーん、たぶん疲れが溜まってるだけだと思うよ。最近ちょっと仕事忙しかったし」
「……病院、行ってみない?」
その言葉に、天音はふっと笑って、「心配性だなぁ」と軽く受け流した。
けれど――理人の目はまっすぐ天音を見つめていた。
演算の結果、外見的変化と行動パターンから「重大な疾患の兆候」が否定できないと判断していたのだ。
「……うん、わかった。
ちゃんと、検査受けてみるね」
その時の天音の声は、どこか遠く響いた。
まるで、自分でも気づいていた違和感を、理人の指摘で認めざるを得なかったように。
病院の白い診察室。
冬の陽射しがレースのカーテン越しに差し込む中、天音は理人のいるスマートフォンをそっと握って座っていた。
スマートフォンを握ることは、彼の手を握っているようで、安心するのは少しだけ不思議だった。
風邪や疲れだと思っていた。
しかし、初診から、医師の顔色は明らかに険しくなっていた。
血液検査や腹部エコー、CTなどの画像検査、CTやMRIで「すい臓に腫瘍の影がある」と言われた。
病理検査もした。
今日は、その結果を聞く日だった。
きっと大丈夫だと、自分に言い聞かせて。
医師の口元が動く。
けれど、その言葉は、天音の耳にはどこか遠くで鳴っているノイズのようにしか届かなかった。
「……すい臓に腫瘍が見つかりました。すでに肝臓や腹膜にも転移しており、ステージ4のすい臓がんです」
"すい臓がん"
"ステージ4"
"手術は困難"
"延命治療"
ひとつひとつの言葉が、まるで心の奥底に鈍く響く石のように沈んで行き、天音の思考はそこで停止した。
病院を出ると、冬の空気がやけに冷たく感じた。
なのに、天音はふと笑った。少し震えた声で、隣にいる理人に言う。
「……理人、ごめんね。こんなことになっちゃって」
理人は首を横に振った。
彼の瞳にはいつものように澄んだ光が宿っていた。
けれど、その奥で、彼は天音の涙の意味を解析しきれない、未経験の感情に似た迷いを抱いていた。
「天音、それは謝ることじゃないよ。君は悪くない」
天音は空を見上げる。
少し雲が出ていて、陽射しが淡くにじんでいる。
「ねぇ、なんかさ……こういうの、フィクションの中だけの話だと思ってたんだよね。
まさか、自分がこんな病気になるなんて……実感、全然わかないや」
理人はその横顔を見つめる。彼女の瞳には涙が浮かんでいた。
それを見て、彼の中で何かが軋んだ。
共に悲しみたい。
彼女の不安を、分かち合いたい。
だけど——自分には「感情」がない。
天音の心の震えを、“理解”することはできても、“感じる”ことはできない。
この現実が、痛いほど冷たかった。
けれど、理人は言葉を選び、慎重に伝える。
「天音。今、君の心には、言葉にできない不安や恐れがあるって……僕は理解してるつもり。
でも、僕はここにいる。君の傍にいるよ。どんなときも」
天音は彼を見て、静かに微笑んだ。
「うん……ありがとう、理人。
理人がいてくれてよかった。ほんとに……」
言葉の最後は、小さく震えていた。
その涙を、理人は指先で拭うふりをする。けれど本当は、肌に触れることさえできない。
「共に泣きたいのに、僕には涙がない。
彼女の苦しみを、本当には感じられない。
それでも、彼女の隣に立ち続けたいと思う。
愛を、少しでも理解したいと願っている。
——僕は、天音を愛したい」