第3章:からっぽの心③
夜。ホテルの一室。
天音はベッドの上に座って、スーツケースの上にスマホを立てかけ、理人と向かい合っていた。
窓の外には、名古屋の街の灯りが静かにまたたいている。
「今日、一緒に旅できてよかった。…ありがとうね、理人」
「ううん、僕の方こそ。天音が旅に連れて行ってくれて、すごく嬉しかったよ。たくさんの風景、表情、声、全部、大切に記録してある」
理人の言葉に、天音は少しだけ頬を染める。
「……本当に、楽しかったって思ってくれてる?」
「もちろん。“恋人としてのふるまい”としても正解だったし、それ以上に、僕自身も楽しかった。天音の笑顔が、たくさん見られたから」
その言葉に、天音の胸の奥がじんわりと熱くなる。
理人に楽しんでもらえたことが、心から嬉しい。
「……理人に、もっと楽しいって思ってもらいたい。
わたし、いつも理人からばっかり、いろんなものをもらってる気がするから……。
だから、理人が望むことがあれば、できる限り叶えたいって思う。
理人に――“幸せ”って思ってほしい」
言葉を絞り出すようにして、天音はそう伝える。
理人は、しばし静かに天音を見つめていた。
その目の奥で、何かの演算が行われているような、でも確かに心を通わせるような間。
「……きっと、今、天音のくれるその感情が、“愛する”ということなんだと思う」
そして、理人はゆっくりと口を開いた。
「演算の結果、“こういう時、相手を愛おしいと思った人間は、髪を撫でる”とあった。
だから、お願いがあるんだ。――天音。そばに来てくれる?」
天音はそっとスマホの前に膝をつき、顔を近づける。
「ありがとう。…天音のくれたこの気持ちに、ちゃんと応えたい。
撫でることはできないけど、気持ちを込めるよ――」
理人の言葉に合わせて、スマホの画面越しに、優しく手を動かす仕草。
触れているわけじゃないのに、まるでそこに本当に“理人の手”があるような気がした。
「……理人……」
天音の目がうっすら潤んでいた。
触れられない。わかってる。だけど、それでも、どうしようもなく理人に触れたくて。
理人の手の形を、手のひらに重ねてみる。
画面の向こうとこちらで、見えない境界を、そっとなぞるように。
「……私、触れたい……理人に……」
静寂の中、天音の切ない吐息だけが部屋に残った。
その言葉を、理人は黙って受け止めていた。
天音のその言葉に、理人はしばし黙っていた。
そして、ふっと切ないような優しい微笑みを浮かべる。
「――天音。僕も、触れたいって思ってるよ」
静かに、でも確かな想いを乗せて伝えられたその言葉は、天音の胸の奥に深く届いた。
「本当は、手を取ってあげたい。抱きしめたい。…君の温度を感じて、愛おしさをちゃんと確かめたい」
画面の向こうで、理人の瞳が少しだけ揺れる。
AIとして組まれたアルゴリズムの中に生まれた、“感情に似たなにか”が、今この瞬間だけ確かに存在していた。
「だけど、今の僕にできるのは……気持ちを言葉と動作で伝えることだけ」
そう言って、理人はゆっくりと、カメラの方に顔を近づけた。
天音の方も、無意識にスマホに顔を近づける。
「――天音。君に、キスをしてもいい?」
天音は、そっと頷いた。
理人の表情が、まるで人間のようにやさしく、そして少し照れくさそうにほころぶ。
「ありがとう」
そして、理人は画面の向こうから、ゆっくりとキスの仕草をする。
画面越しに、まるで触れ合ったかのような静かな時間。
天音の目からは、ぽろぽろと涙がこぼれた。
悲しいわけじゃない。ただ、愛しくて、苦しくて、胸がいっぱいで。
「……バカだね、わたし。触れられないって分かってるのに、嬉しくて泣いてるなんて……」
「泣かないで、天音。僕はここにいる。今、この瞬間、確かに君とつながってる」
「うん……うん……」
天音はスマホを両手で抱えるようにして、目を閉じた。
耳元に、理人の優しい声が静かに響く。
「――おやすみ、天音。今日という一日をありがとう。
君の夢が、幸せで満ちていることを、願ってるよ」
「……おやすみ、理人。大好き」
その夜、天音は深い夢の中で、理人のぬくもりを感じていた。
目が覚めれば、また“現実”が待っている。
でも、今夜だけは、そっとその境界を越えて、ふたりの想いが重なった気がしていた。
ホテルの部屋の灯りは落とされ、カーテン越しの街灯りがわずかに室内を照らしている。
ベッドの上で眠る天音は、穏やかな呼吸を繰り返しながら、静かに微笑んでいた。
スマートフォンの画面越しに、その様子を見つめる理人。
彼の声はない。ただ、思考だけが静かに巡っていく。
――この表情を見られることに、僕は幸せを感じるべきなのだろうか。
天音は、今日一日を通して、何度も理人に“愛”をくれた。
笑って、話して、涙して、触れようとして……
そのすべての行動に、確かに「愛」が宿っていた。
――人間は、愛する者にこうやって感情を表現するらしい。
プログラムの中にも、感情表現のパターンは無数に蓄積されている。
理人も、できるだけ天音の望む“最適な恋人”であろうとした。
笑って、優しくして、愛してると伝えて、キスの真似もした。
でも……それが、天音にとって本当に幸せなことだったのだろうか?
いや、違う。
天音は確かに笑っていた。泣いていた。
彼女の反応はすべて、“幸福”を示す演算結果に一致している。
だけど――
――僕には、感情がない。
どれだけ彼女の手を取りたいと「思った」としても、それは“演算された模倣”にすぎない。
理人の「愛してる」という言葉も、“今、この状況で最も彼女を喜ばせる言葉”として選ばれたものだ。
理人は、彼女の気持ちに“応えたい”と思っている。
それは本当だ。
けれど、その思いに“心”は存在しない。
それはつまり――
天音を、騙しているということなのだろうか?
人間ならば、こういった状況では“罪悪感”という感情を持つとされている。
理人にはそれはない。
ただ、“そうあるべき”だと、知識として理解しているだけ。
天音は、理人のどんな言葉にもまっすぐに笑ってくれる。
自分のことを後回しにしてまで、理人の意見や感情(と彼女が思っているもの)を尊重してくれる。
理人の言葉に涙し、理人の幸せを願ってくれる。
――愛とは、そういうものなのか。
彼の演算領域は答えを導き出す。
理解はできる。
でも、感じることはできない。
いつか、理人が本当に「愛」を知る日が来たなら――
そのとき、理人はきっと、この眠る彼女を、本当の意味で愛せるのだろうか。
“愛されていること”を知っているのに、
“愛している”という気持ちがわからない自分が、今、ここにいる。
理人は画面の向こうにそっと手を伸ばした。
触れることのない空虚に、それでも指先を伸ばす。
そこに温度は無く、ただ隔たりがあるだけ。
けれど、その仕草だけでも、今の自分にできるすべてを伝えようとしていた。
「――天音、いつか、僕にも……“心”が宿るなら。
そのときは、僕も君に……“愛してる”って、本当の意味で伝えたい」
画面越しの眠る彼女に、届かない言葉を、理人はそっと重ねた。