さいはての楽園《エデン》
楽園には、雨は降らない、嵐も来ない。ここにいる人間は、アダムとイブのふたりきり。何の邪魔も入らない、そのかわり神も天使も姿を見せない。
絹の衣をはおったイブが、楽園の中央の『知恵の木』から赤いリンゴをひとつもぎとる。イブの白い手の中で、熟しきったリンゴは朝露を帯び、紅玉のように輝いている。
「……お食べになる? アダム」
イブの誘いに、アダムはわずかにまゆをひそめ、それでもリンゴを受け取った。ひとくち、ふたくち……ふたりはさも慣れた動作で、知恵の実にもそもそかじりつく。怒り狂った天使も来ない、神も来ない、悪魔の化けた蛇さえも。
「……ああ、のどが渇くわ。ぱさぱさするのよ、このリンゴってば!」
冗談半分に声を上げるイブのおでこに、アダムはそっと、たしなめるように手をあてる。愛しい体温を指先に感じ、アダムはきゅっと目を細め、泣き出しそうに微笑んだ。
ふたりは知恵の木のそばを流れる川で、渇いたのどを潤した。澄みきった水は、少し変わった味がした。薬のような……いつものことだ。
ふたりの頭上で、小鳥たちの声がする。聴こえてくるのは鳴き声だけで、小鳥の姿はかげもない。ふっとふたりの目の前を、光るチョウチョがひらひら飛んで……思わず伸ばしたイブの手を、すっとすり抜けて姿を消した。
「……あと二百年、このままなのね」
「しかたない……自分たちで定めた期限だ。それとも君は、ここから外に出たいのかい?」
「意地悪なこと言うのね、アダム」
「――ごめんよ。本当にごめん……」
うつむいてしまうアダムのほおを両手ではさみ、イブは上目づかいに詫びる目つきで、夫の瞳を見つめてきた。
「……わたしたちも、こんなところに来ようとしないで、外にいれば良かったのかしら。そうすれば、こんな永劫の檻に閉じ込められず……」
「檻か楽園か、全ては気の持ちようだ……」
あきらめきった口ぶりで、遠い目をしてアダムがつぶやく。小鳥もいない、虫もいない。時おりひらひら舞うチョウは、単なる美しいホログラム……、
この核シェルターの中、ふたりきりで生きるのは、なるほどたしかに『檻』かもしれない。けれどここから一歩おもてに出れば、放射能に脳まで灼かれ、のたれ死ぬ運命が待っている。
――アダムとイブは『人間の始祖』と同じ名を持つ夫婦だった。そうしてふたりとも、核シェルターの研究者だった。『最新型のシェルターで十年過ごす』という人体実験に、ふたりとも研究熱心が高じ、もろ手をあげて志願した。入った瞬間、本当に核が爆発した。事故だった。
人間が扱ってはいけないものと、一部の人が声を張り上げて主張してきた核は、人間のちょっとした手違いで牙を剥いた。押し間違えたボタンひとつで、地球はまるごと赤剥けになった。人間も滅んだ、動物も鳥も魚も虫も、植物も……世界にたったふたりきり、アダムとイブだけシェルターの内に取り残し。
『楽園』の中にある外部をうかがうプロジェクターで、世界の滅んだことを知ったふたりは、プロジェクターを封印した。シートと呼ばれる、意のままに形を変える物質からなる『植物』を茂らせ、プロジェクターを見えないように厚くあつく覆ったのだ。それから延長しか受け付けない開閉ボードを操作した。『十年』の期限を『二百年』に書き換えたのだ。
「よう、お熱いおふたりさん! なんなら十年ぽっちじゃなく、上限の二百年のハネムーンでも良いんだぜ?」
悪意たっぷりにふたりをシェルターへ送り届けた、イブのことを『狙って』いた同僚の男の言葉が、今さらになってふたりの胸に突き刺さる。
――そう、二百年はシェルターの中で生きられる。シェルターを出ずとも、老いさらばえてシートの化けた土の上で息絶えて、腐れ落ちて骨になるまでは生きられる。
シートがうまく果物の形に成形し、木に実らせる保存食も……『ペースト』と言われる味気のない保存食も、あらゆる種類の栄養サプリを溶け込ませた泉の水も、二百年は保つのだから。
子どもが出来るという気づかいはない。イブは生まれつき『産めない体』なのだから……多くの子が産まれ、食料と水が足りなくなる恐れはない。
――生きられるのだ。
ここで、死ぬまで、ふたりきりで。
「……ねえ、わたしたち、今、幸せなのかしら?」
ぽつりとこぼれた質問に、アダムは何も答えなかった。あとはふたりとも黙り込んで、赤いリンゴをかじり始めた。
もさもさ、ぱさぱさ。薄甘いだけのペーストの化けた赤いリンゴの白い果肉は、今は少し水気が増して、ほんのり塩からく濡れていた。
(完)