逃場
引き金がしぼられていくのを見て取った私は、さっきまで呆然に身を動かせずにいたのが嘘のように俊敏に動いた。
無我夢中にその場から横に身を倒す。
瞬間、破裂音が響く。
小気味良く鳴る拍手のような音が、一つ。
それが銃声だと気付いたのは、身を倒しながらも目を離さなかった銃の口から火花が散り、その後を追うように銃口から細い煙が出ているのを見たからだ。
さっきまで私の胴があった場所に銃口を向けながら、薫はそのかわいい顔立ちに不思議の色を映し小首を傾げる。
伸ばした腕をそのままに、薫の目だけがちらりと私の方向に向く。
そして、小さい子供に言い聞かせるような口調で言葉を紡いだ。
「ダメだよ、由宇。避けちゃ」
そういって再度銃口が向けられる。
私は銃の口を覗きたくない一心で、震える身体を叱咤しながら這いずるように立ち上がった。
薫は、そんな私をあくまでもにこやかに、優しい色で見つめている。
なにがなんだかわからなかった。
「逃げてもダメだよ。由宇」
私は走った。
身体の中を駆け巡る悪寒や背中を伝う汗。
恐怖と困惑に震える身体を無理矢理漕ぎながら、走った。
考えられなかった。
何も考えられなかった。
何を考えたらいいのかも分からない。
ただ、私は何も考えたくなくて、何も見たくなくて走った。
「由宇? ゆーうー!」
薫の声が後ろから聞こえてくる。
どこか楽しそうなその声に恐怖が煽られる。
私は走って走って、ゾンビから逃げる時よりも速く走って、逃げる。
曲がり角を曲がり、直線の道に怯え、どこに逃げたらいいのか分からず涙が滲む。
――なんでなんでなんでなんで、
私の友達はあんなことをしない。
私に銃なんて向けない。
いつだって優しかった薫があんなことをするはずがない。
いつも笑っていた薫の顔と同じなんて嫌だ。
あれは薫じゃない。薫じゃない。薫じゃない。
走って曲がって走って怯えて涙が流れて息が苦しくなってきて足が重くなってきて口から血の味がしてきて走って走って違うと何回も唱えて走って走って走って、
私は目の前の把手を力任せに引いた。
ガチャッと聞きなれた音が鳴り、私はそこに滑り込む。
そしてすぐに鍵をかけて、チェーンをかけた。
パニックになっている私は靴を脱ぐこともせず土足でそこに上がる。
扉から真っ直ぐに伸びる廊下を喧しく駆け抜け、リビングに逃げ込んだ。
なんで自分の部屋じゃなくてリビングを選んだのかは自分でも分からない。
分からないけど、何故だかここが一番安全なような気がした。
安全だ。この家ではここが一番安全なんだ。
リビングに入って、すぐに食卓のテーブルがある。
部屋には庭に続く大きなガラス窓があり、そこのカーテンは全開になっていた。
他にテレビやソファー、戸棚などが壁際に置かれている。
少し背の低いテーブルの下に急いで隠れた。
隠れると同時に、見つかりにくいように椅子を自分の方に引き寄せる。
椅子の脚も低い。私は震えながら椅子の脚を抱え込んだ。
自分の荒い息遣いが聞こえる。
ひとまずの安全な場所を確保した。
けど、恐怖を軽減するには全然足りなかった。
頭の中でなんで、なんで、という言葉がぐるぐる巡る。
なんで薫が私に、いやその前になんで薫がここに、違う、あれは薫じゃない、でも薫じゃなかったらあれは誰? 私に優しい笑顔を向けてくれるあの子は薫? 私に銃を向けてきたあの子は薫? わからないわからないわからないわからない。
分からなくて、何も考えたくないのに勝手に思考を続ける脳内を呪いながら鼻をすする。
怖かった。何が起こってるのかわからず、なんで友達に銃を向けられたのかも、なんでそれでもあんな優しい笑顔を向けてくれるのかもわからず、涙が出た。
目の前の視界が歪む。
目の前のガラス窓から見える庭が歪む。
ガラス窓、が、…………?
鼻をすする音が、止む。
私は理解した。
私の視界にそれがある、危険を。
カーテンが全開にされたガラス窓。
私は息をするのも止めて、凍りついた。
閉めなくちゃいけない。
閉めないと、ここがバレる。
もし、玄関から入れないと判断して、庭からリビングを覗いたら。
バレないかもしれないが、バレるかもしれない。
閉めなくちゃいけない。
カーテンを早く閉めないと、薫がここを見に来たら。
でも、ここから出てカーテンを閉めに行った時に、薫がいたら?
閉めなくちゃいけない。
閉めなくちゃいけない。
早く閉めないと、早く。
頭では理解していた。
閉めないといけないのだ。
今すぐにテーブルの下から這い出て、カーテンを閉めないといけない。
けど、私はそれを実行できずに固まったまま庭を見ていた。
そういえば、ガラス窓の鍵は?
かかっていたか。
分からない。
早く、早く、早く。
早く閉めないと。
凝視していた庭に、動くものがあった。
私は最初それがなにかわからなかった。
いや違う。理解したくなかった。
理解したくなくて、私は小さく「嫌だ」と呟く。
だけど私の頭はそれを理解する。
私の目が認識したのは、足だった。
前倒しになりながら膝を抱え込むような体勢になっている私は、自分の膝と椅子の底の、細い隙間からそれを見た。
足には、膝下までの黒い靴下に学校の制服であるスカートがついていた。
ガラス窓の端から現れたそれは、ゆったりと歩きながらガラス窓の真ん中で止まる。
そして、リビングに向き直り、そして。
コンッ
小さなノックの音が、申し訳なく鳴った。