白虎
「あぁぁぁぁもう危機一髪だったわね由宇ちゃん! 私が助けに来なかったらきっと由宇ちゃんなんて頭からぱっくんちょされてたんだから! 私に感謝しなさい! 由宇ちゃん怪我無い? 頭と左手以外に無い? それ以上増えてない? 由宇ちゃん怪我しすぎなのよー! もうもうもう! 私がいないと駄目なの? 駄目な子なの? もうしょうがないわねぇ私が特別に由宇ちゃんの傍にいてあげる! うふふふふふふ義呂絵ちゃんには渡さないわよー?」
「いや、あの、なんというか、……無理」
「何がなのよ~。酷いわ少女~」
私の前に座り込んだ巨体が、器用にも両前足を頬にあて身体をくねらせていた。
見た目は、どこもかしも真っ白なオスライオン。
本来なら雄々しく感じるはずなのに、何故かそれは感じられなかった。
多分、化け物を勇敢にも倒した自分に酔いしれ身体をくねらせているからだろう。
それにオスライオンにしては妙にスレンダーだから、というのもある。
たてがみさえ無かったら、ただの白い虎なんだけども……。これ、ライオンなのかなぁ?
いややっぱり私の感覚的に白い虎って感じがするし、これのことを白い虎と呼ぼう。
「ねぇ、あなたってオスだったの?」
「まぁ!」
私の言葉に白い虎は心外だと言わんばかりに大仰に驚いてみせた。
「由宇ちゃん、私のどこをどう見てそんなことを思ったのかしら!」
「たてがみ、とか」
「これは相手を効率良く威嚇するための道具でしかないのよ」
「でも、ライオンとかも、たてがみがあるのはオスだけだし……」
「あらそれは誰が決めたのかしら!」
「ちょ」
ぐぐいと近づいてきた顔に、思わずのけぞる。
本当に心外だったのだろうか。鼻息を荒くしながら顔を近づけるのは止めて欲しい。
「もしかしたらライオンのメスにだってたてがみがあるかもしれないじゃない! なのに由宇ちゃん、まるで私だけが間違ってるみたいに言うなんて、酷いわぁ!」
「私間違ったこと言ってないよ!?」
「私も間違ってないわよ!」
「あー……もう、いいよ。で、その格好って虎なの、ライオンなの?」
「猫よ!」
「…………うん。分かった」
これ以上話をしていても、しょうがない気がしてきた。
話を打ち切るために、お辞儀付きで適当にお礼を言っておいた。
白い虎は胸を反らしながらえばる。そのまま後ろに倒れて欲しいなぁ。
「で、由宇ちゃんどこに行くつもりなのー?」
「散策に外に出たんだけども……。あぁ! そういえば! ねぇ私化け物のことなんて考えてなかったのに、化け物出てきたんだけど! これどういうことなの!?」
「あら、そうなの?」
「あら、そうなの、じゃないよ!!」
白い虎は、猫の時と同じように口元に手をあて首を傾げてとぼける。
私はその態度にキレて白い虎のお腹にパンチを入れたが、そのお腹が予想以上に硬くて逆に手を傷めてしまった。
動物のお腹に腹筋があるなんて聞いてない……。
「あはー。由宇ちゃん過激ねー。私この姿の時はどこも硬いから、お気をつけなさいねー? あと、まぁ化け物が出るのはね、あなたの他に人がいるからなのよ。あなた以外の人がコイツを呼び出したのよ。だからあなたが考えてなくても、化け物は出てくるものと思っておきなさいな」
「うぅぅぅ……どっちも先に言ってよ……」
「ごめんなさいね。で、由宇ちゃんどこに行くつもりだったの?」
「だから散策に出てたって言ってるでしょーがー! 私の話ちゃんと聞いてよ!」
「聞いてるわよ」
「聞いてないよ!」
人の話を聞かない白い虎に私はうんざりとため息を吐いた。
白い虎はむぅ~っと頬を膨らまして不満そうにしている。私も対抗して不満そうに白い虎を睨みつけるが、そんな私の顔が面白かったようだ。白い虎はプッと吹き出して「間が抜けてる顔だわ~」とクスクス笑った。
誰のせいなんだよ、この馬鹿猫!
「もういい! 助けてくれてありがとうございました! ではさようならぁ!」
「あら、少女。どこ行くの?」
「知らないっ!」
「あ~ん、そんな不機嫌にならないでぇ?」
「もう知らない! 付いて来ないでね! 分かった!?」
「少女はおこりんぼさんなのね。分かったわ。振り回されてあげる!」
静かな商店街から早足で抜けようとする私の横に並んで付いて来ていた白い虎が、ぴたりと止まる。間近にいた体温が急に無くなったことで私も足を止め、背後を振り返った。
すぐ近くにいた白い虎が、獰猛な顔をして私を見ている。本人――本猫、かな?――は目を弓なりにして笑っているつもりなのだろうが、私から見たら頬に皺を寄せた顔は、今にも襲い掛かってきそうな獰猛な顔にしか見えなかった。
白い虎はおすわり状態で、片方の前足をあげ、私の頭に乗せた。
頭の傷口が、ずきりと悲鳴をあげる。
「痛い!」
「あらあらごめんなさいね~」
そう言って、比較的軽めに置かれた前足が下ろされる。
自分の頭を押さえながら、私は狼狽した。そして自分が何で狼狽しているのかが分からず、さらに混乱する。
何か、嫌なことを思い出しそうだった。
さっきまではなんともなかった胸中に、不安の波が押し寄せてくる感覚がはっきりと分かる。
痛かった。傷口を刺激された。
痛かった。頭ではない、どこかが痛かった。
溺れる。
混乱する頭が正常に物事を捉えない。
目の前にいる白い虎が、どんどん黒い化け物に侵されていく。
白く黒い虎はくすくす笑い、おどけた調子で両前足を駆使して私を抱きしめた。
白く黒い毛が視界全体に広がり、顔が、身体が思っていたよりもふわふわとしたそれに埋もれる。
温かい。
温かかった。
体温が、ある。私は今、体温があるものに触れられている。
我慢できる範囲を、許容範囲を、それは遥かに越えていた。
私は錯乱する。
何で私は抱きしめられているのだろうか。
何でこんなに温かいんだろうか。
よくわからない。
よくわからず、なきたくなった。
なきたくなって、わたしのあたまに、いやなえいぞうがながれる。おもい、だしたくないこと。
フラッシュバック。
世界が黒く染まり、その黒の幕に、嫌な、嫌な、嫌
――怖いっ!!
「は、離してっ!」
「あらあらうふふ~。かわいいわ少女~。うふっ、うふふ~!」
「い、いやっ! ちょっと待てどこ触ってんの、いや、嫌ー!!」
視界が開ける。
瞬間的で絶対的で根源的な恐怖が、白い虎の発言と行動によって身の危険という恐怖にへと転換された。
この白い虎はあろうことか私のスカートを上にずらそうとしていた。
「変態! 変態猫!」と罵りながら押し付けられている身体から生えている毛を無造作に掴み、思いっきり、毟り取る勢いで引く。
「あぁーん! 痛い! 痛いわー!」
「離してー!!」
私の必死の抵抗に、白い虎は悩ましげな悲鳴をあげながらやっと私を解放してくれた。
私はすぐさま数メートルの距離を取る。悶絶する白い虎を睨みつけながら、暴れまわる心臓を押さえてその場で息を整える。
若干涙目になっている白い虎がこちらを見て「呪うわよ~」と言葉を発した。
その理不尽さに、私は言葉を失った。あまりの恥ずかしさと怒りが同時に襲い掛かり、声帯が意味も無く震えるだけで言葉が出てこなかったのだ。
そっちからセクハラをしてきたのに、なんで私が呪われなくちゃいけないんだ! これはれっきとした正当防衛だ! と心の中で悪態を吐き、白い虎に向かって舌を出す。
そして私は、言いたいことが言えずに私の中で燻る思いを発散させるかのように走った。
白い虎のことなんて知るか! なんて、そんなことを考えながら走る。
さきほど化け物に襲われたことなんて、頭の隅にへと追いやられていた。
ただただ全力で走り、その後ろから白い虎の上品な笑い声が聞こえたのも無視して私は逃げた。