白猫
私は商店街を歩いていた。
片手にパンを持ち、もう片手で鞄をぶらぶらと揺らしながら過ぎる風景を横目で確認する。
廃れた印象を受ける商店街。私は微かな苛立ちと共に内心毒吐いていた。
それというのも、私が家を出たのはほんの数十分前だというのに、簡単に商店街に着いてしまったからだ。
昨日、私はこの商店街を目指すのにどれだけ時間が掛かったことか。長時間彷徨い続けてやっと見つけた商店街だったのに、今日はすんなりとこの場所にたどり着くことができた。
私の昨日の努力は一体なんだったんだ、とそれが愚痴として口を出る前にパンを押し込んだ。
あまりおいしくないパンを食べ終え、今日はどこを散策しようかと考えながら一つ伸びをする。
「キチチチチチ……」
「!?」
私はその姿勢のまま固まった。
どこからか、聞こえてきた変な鳴き声。
すぐさま目だけを動かして、鳴き声を発した何かを探る。
「キチチチチチ……」
私の行動を嘲笑うかのように鳴く、何か。
どこにいるのか分からない見えない何かに対する恐怖に、足が小刻みに震える。
――どこにいるの。せめてそれだけでも分かれば……。
キョロキョロ目を動かす。私の視界にあるのは閑散とした商店街。
背中に伝う冷や汗を感じる。どこにも動くものが見えない。
あのゾンビの時のように、いっそのこと走って逃げようかと考えていると、私のいきつけのお店だった本屋さんから、黒い何かが出てきた。
「え……?」
全体的に黒い何かに、私は一瞬司さんかと思った。
だけど、すぐに違うと分かる。
全体的に黒い何かは、黒以外の色を持たない、人間の形をした化け物だった。
本屋さんの入り口の扉に沿うように『にゅるり』と出てきた黒いものに生理的な嫌悪を感じ、鳥肌が立つ。
私はすぐに鞄から錆びついたナイフを取り出して、その切っ先をまだ遠くにいる黒いものに向ける。
攻撃を加えようなんて、そんなことは微塵も考えていない。
それはただ、反射だった。
震える身体のせいで切っ先がぶれる。意図せずにカチカチと鳴る歯。
不意に、今この場にいない幼い男の子と白い猫を思い浮かんだ。
「私考えてなかったのに……、ゾンビの時みたいに考えてなかったのに……っ! 嘘吐きぃ……」
「キチチチチ……」
音を発する器官がどこにあるのかは分からないが、あの鳴き声は確かに化け物から聞こえてくる。
化け物が笑って、2メートルはあるんじゃないかと思われる長い身体をゆらゆらと揺らしながら、ぺたりと一歩私の方へと足を踏み出した。
誰もいない商店街で私以外に唯一動く、ありえないもの。
非現実的なものに、いよいよ涙がせりあがってきた。
ぺたり、ぺたり、ぺたり、
どんどんと近づいてくる化け物。それが目の前に来るまで、私はどうしたらいいのか分からなかった。
「キチチチチチチチチチチチ」
「ひ…………ぅ…………」
笑う化け物。
化け物は大きく両手を広げて笑う。
獲物を捕らえるために、その広げた両腕に閉じ込めるために、私の両側に回った腕が閉じられていく。
涙で霞む視界の中、私は恐怖に駆られてナイフをその化け物の胸にへと突き出した。
ずぶり、とナイフがめり込む感触。
抵抗感がまるでないその感触に総毛立つ。
「ひぃっ」
悲鳴を上げて後ろに退がり背中に何かが触れる。
それがこの黒い化け物の手だと理解した瞬間、恐怖が絶望に変わった。
「由宇ちゃん!」
女の人の声が聞こえた。
それと同時に、目と鼻の先で笑っていた化け物が鈍い音と共に掻き消えて、代わりに白い何かが私の視界を塞ぐ。
「少女! 大丈夫?」
「……、は?」
私より一回りも二回りも大きい白い虎が、眉間に皺を寄せた獰猛な顔でこちらを振り返った。
白い猫の声が、その白い虎から発せられたという事実に混乱していると、「カカカカ」という明らかにさっきとは種類が違う化け物の笑い声が聞こえてきた。
「あーもぅ。嫌になっちゃうわねぇ。そんなに興奮しないでくださらない? 私戦うの好きじゃないのよぉ~」
首周りに生えた、白く輝くたてがみをふさふさと揺らしながらぶつくさ文句を言い、白い虎が黒い化け物に向き直る。
私がようやく目の前にいる白い虎が白い猫だと理解すると、白い虎が化け物に襲い掛かった。
「カカカカ、カカカッ!」
「うるさいわねぇちょっと黙りなさい!」
私の視界を塞いでいた白い虎がいなくなったことで開ける視界の中、白い虎が黒い化け物を押し倒している光景が目に入ってきた。
人間で言う、マウントポジションを取られた黒い化け物は、抵抗するように大きく声を上げながら、足をぎゅるりと伸ばして白い虎の身体に巻きつかせる。
そのまま蛇のように白い虎の身体を引き絞るが、白い虎は意に介せずに喉元に齧り付く。
「カカ、キ、カッ……!」
びくんと黒い化け物が跳ね、もがきだす。白い虎に巻きついていた足が剥がれ、手足をばたつかせる。
白い虎が喉をごくりと鳴らし、次いで齧り付くために開いていた顎が閉じられた。
人間の首がへし折れる音が私の耳まで届き、それから黒い化け物は身体をばたつかせるのを止めて力無く手足を地面に投げ出した。
「…………ふぅ」
ゆっくりと喉元から顔をあげた白い虎が、一仕事を終えたというように溜息を吐いた。
律儀にもその場でおすわりをして、猫が自分の顔を洗う動作をする。
私は呆然としながらそれを見ていた。
そして、白い虎の大きな水色の瞳が私を見た。
「あら、由宇ちゃん。下着が丸見えよ? はしたないわー」
「え? あ、うわっ!? 見ないでよ!」
白い虎の言葉の意味を理解して、いつの間にか腰を抜かしていた私は、慌ててスカートを押さえた。
くすくすと笑う白い虎。凛々しい姿のはずなのに艶やかな女の人の声というミスマッチさに違和感と、大きさからくる圧迫感を覚えながら、私は抗議の声をあげた。