知らなければならない知れ走れ走れ
それって結局、何を守りたかったからそうなった?
走っていた。
年端もいかない少女。
胸には大事そうに抱えた小さい箱三つ。
汗をたらしながら、息を切らせながら走っていた。
何をそんなに急いでいるのか、その少女にとっての全速力で走る姿は、はたから見て異様。
全速力で走る子供ならそこらかしこにいる。
けどそれは『鬼』と役付けされた子供が、走って『人間』を追う遊びであるから走るのであって、その少女は別に『鬼』でも『人間』でもない。
じゃあなぜ走るのか。
遊ぶ子供のように笑顔を張り付かせているわけでもない。
少し休憩、といって身体を休ませることもしない。
走りづらそうにスカートをはためかせて走る姿は、異様。
それのどこが異様なんだ、と問われれば口を噤む。
他の人間から見たら異様。
ただそれを他の人間が気付かないだけで。
見逃しているだけで。れっきとした様。
少女は望んで走っているわけではない。
走らなければいけないから走るのであって、少女が走りたいと思って走っているわけではない。
ゼィゼィ、ヒュウヒュウ、
喉から漏れる空気。
咳き込むなんてことはしない。
速度が落ちるから。
微かに涙を浮かべた瞳は、目的の場所を見ている。
少女が見ているのは、自分の家。
自分の住んでいる、自分が住んでいる家。
目的の場所が近づく。
胸が痛い。痛む。身体に、精神に。
ギリギリ、キリキリ、
どこから漏れている音か分からない。
早くしなければ、早く行かなければ、そんな思いが如実に表れた顔で走る少女は、鬼気迫るものがあった。
どうしてそんなに急いでる。
別に少しぐらい速度を落としたっていいんじゃないか。
そんなにその箱が大事なのか。
その問いに少女は頷く。
そう、と興味なさ気に納得する。
ようやっと着いた、自分の家の扉の把手に手をかけて、引く。
世界が、暗転した。
ぼんやりとしていた意識が一気に覚める。
少女はキョロキョロと辺りを確認する。
体育座りをしている自分を不思議に思ったのか、しきりに首を傾げている。
どうやら少女がいる場所は学校のようだ。
少女と同じ年齢の子供が遊んでいる。
その光景を、これまた不思議そうに見ている少女。
輪の中に入ればいい。
少女は、立って遊んでいる子供達に向かって走り出す。
その顔は笑顔。
これから起こることを、起こすことを予期して浮かぶ顔だ。
この場面はそのまま。
少女から成長した姿。 それを誇らしいとも思わず、それが当たり前と言わんばかりの顔で生きる少女。
本当にこの少女は大人に近づいたのか?
違う。『これ』は他の人間より成長が遅い。
まだ『少女』の域から脱していない。
身体は大人に。
精神は子供で。
別に少女が悪いわけじゃない。
少女ばかりが悪いわけじゃない。
他の人間より成長が遅いということを気付かないその姿は、いっそ哀れ。
だからといって同情はしない。
そんなことは少女は望んでいないだろうし、そもそもなんで同情されるのかが分からないだろう。
同情をする価値も無い、というのも理由の一つ。
自分の今の状態にも気付かない哀れな少女。
おやすみ、とも言わずに覆われた視界に、気付かない。
その目は何を見ている。
どうせくだらないものを見ている。
見たくないものを見ないくせに、見たいものだけを見る。
ギリギリ、ギリギリ、
どこから漏れる音か分からない。
もしかしたらそこら中に蔓延している音かもしれない。
少なくとも少女はその音に気付いていない。
他の人間より気付かないものが多すぎる少女。
じゃあ侮蔑しようか。して何になる。
結局それは、何がどうなったから結果がそうなったんだ。
少女の口からは、日常用いる挨拶が紡がれる。
何も気付いていない少女は日常を愛する。
だから、少女は変わらない。変われない。それはきっと必然。
変わろうとすらしないだろう。
結果はどうだからそういうことをする。
それを行ったから結果がそうなってしまった。
そういうことなのか、と無理矢理納得する。
悟ることはできないけど、悟ったフリはすることができる。
悟ったフリをしておこう。
もうその少女を見ないようにしておこう。
もう会うことはないでしょう。
こんな茶番には終止符を打たなければなりません。
最初から面と向かって会ったことはないけど、もうそろそろ少女と会いたくありません。
誰もいない、廃墟と言っていいようなビルの階段を、少女は一歩一歩確認するように上がる。
速度は一定。
速くなることもないし、遅くなることもない。
やがて屋上。
このビルにとってのゴールはここ。
ゴールしたからテープを用意しようか。用意なんてできるものか。
テープが無いのなら、せっかくゴールしたのに達成感を感じない。
それを切るから、ああゴールしたんだ、と思えるのであって、それが無いのならどうやって達成感を味わえばいいんだろう。ここはゴールじゃない。
じゃあ、と言って、言葉はそれ以上出てこない。
何を言おうとしたのかを忘れてしまった。いや、これでいい。
日常がおかしいことにすら気付かない少女だ。
言うことも無いか。忘れてしまったならそれでいい。
忘れたままでいよう。
少女は歩く。
もう走らない。
走る必要は無い。
それはとっくの昔に終わった。
だから走る必要は無い。
一歩一歩、噛み締めるように歩く。
それ以上は歩いちゃダメなんじゃないだろうか。別にいい。
ビルの端っこ。
そこで歩みを止めて、下を見下ろす。
高い。
これは、すぐに死ねる。何をしたから死ねる。
それ以上はダメだ、と言って少女の背中を軽く押した。
羽のように軽い身体は、いとも簡単に落ちていく。
空気がおいしいような感じがする。
汚くてまずい排気ガスがそこら中にあるような場所なのに。
空気が澄んでいるような、そんな感覚。
あぁ、これでいいのか。それでいいんだ。
さようなら、と少女が呟いたような気がした。
うん。さようなら。もう会えないね。
会いたくなかったよ。もう会わないでね。
ありがとう。さようなら。苦しかったよ。
痛かったよ。泣かないで。泣くな。気持ち悪いから。
満面の笑顔で言うさようなら。
ぐしゃり、と嫌な音が聞こえた。