困惑
それは毒だった。
空気中を漂う、空気を通して響く蠱惑的な美声に、頭がくらくらする。
こんな声は、私が生きてきた中で聞いたことがない。
うっとりとその声に聞き惚れる。
何も考えられなくなってくる。
純粋な白の毛皮を纏う猫の口から漏れる蠱惑に抗えない。
私の様子を楽しそうに、侮蔑するように水色の瞳が私を射抜く。
例えようの無い快楽に、身体が揺れる。
『眠りなさい』
頭の中で響く、毒。
それに従うように、まぶたが下りていく。
徐々に暗闇が降りてくる。
自分でも分かるぐらいにぐらぐらと身体が揺れている。
危うく机に手をつくと、手をついたところがぐにゃりと歪んで、私はしりもちをついた。
くすくすくす、そんな笑い声が聞こえる。
完全に視界が黒に染まったとき、――――金属の落ちる音がした。
「あっ!!」
私は弾かれたように床を見回す。
手元にナイフが落ちていた。
私はそれを慌てて拾い、大事に胸に抱える。
良かった。失くしてない。
胸元にあるナイフに安堵の息を漏らす。
「あら、驚いたわ。私の声に反抗するなんて」
さっきまで聞こえていた声――だけど、さっきとは違う毒の抜けた声――に、私は顔を上げる。
白い猫は背筋をピンッと伸ばした状態から、不思議そうに首を傾げる。
それと同時にゆらゆらと柔らかそうな尻尾を左右に揺らしていた。
私はいきなり現れたその猫に、戸惑う。
不思議と、恐怖は無かった。
ついさっきまで、何をしていたのか分からないけど何かをしようとしていた存在に、恐怖するでもなくただ疑問を持った。
「あら、あらあら? なんでなのかしら。変だわ。あれー? どうしてー?」
みゃーお、と猫らしい声を上げる。
口元に手を添えて考え込む姿はいっそ愛くるしいのに、その姿と矛盾した大人びた声とに、奇妙なズレがあった。
「あの、あなた、誰ですか……」
まだ子猫のようにみゅうみゅう鳴いているその存在に、私は訊ねる。
情けないことに、その声は震えていた。
なんだか、その存在に問いかけるのは失礼な気がしてならない。
私は不安げに机の上で堂々と背筋を伸ばす猫を見上げる。
「私? んー。しょうがないわね。特別よ? 特別にかわいいかわいい私の目の前にいる少女ちゃんに教えてあげるわ。私はね、世界一かわいくて世界一美しい子猫ちゃんよ」
「…………はい?」
私はその言葉に呆気に取られる。
世界一って……自分で言う言葉じゃないと思う。
くすくすと笑う高慢な猫に、私はどうしようかと考える。
……頭が冷えてきた。
私はようやくまともな思考ができるようになった頭で考える。
猫が喋るという、明らかに異常なものを目の前にして、色々とどうでも良くなった。
とりあえず、もう何でも有りなんだな、ということは分かった。あぁもうどうでもいいか。
考えて、とりあえず私は立ち上がることにした。
立ち上がって、スカートについた埃を払う。
それに白い猫は、こほこほと煩わしそうに咳き込む。
机に置いてある鞄を掴んで、床に散らばる教科書を拾い集めて中に入れる。
「いやん。無視するのね。悲しいわ。私は悲しいわ。無視しないで? こんなにかわいい私が頼んでるのよ? ねぇお願ーい」
「…………」
「やだやだこっち向いて? 私に見劣りはするけど儚くてかわいい少女ちゃん?」
「…………」
みゃうみゃう鳴く声を無視して私は立ち上がる。
拾い終えたのでもうここにいる理由が無い。
さて、帰ろうか。
「いやぁ私を置いていかないで少女ちゃん。私寂しいのやだぁ置いてかないでー」
まさに猫撫で声で私の背中にへばり付く体温。
私は背中に触れる体温に一瞬身体を強張らせて、それからそれさえも無視するように教室から出る。
「やぁん、止まって。止まってよぉ。そんな激しく動かな……」
「あぁー! もう! 何よ! この猫ー!!」
「きゃあぅっ」
いよいよ色気を醸し出して来た声に苛立って、私は声を荒げる。
それと一緒に両手を振り上げたものだから、背中に張り付いた猫が服から離れる。
床に華麗に着地した白い猫は、潤んだ瞳で私を見上げる。
私はそれをまともに見てしまい、申し訳ない気持ちが過ぎる。
私、こんなかわいい猫に向かってなんて酷いことを……。
よく見てみて。私を見つめる瞳なんて潤んでいるじゃない。
切なそうに、私に懇願するように見つめる水色の瞳。
「お願い…………、置いてかないで…………」
胸が締め付けられる。
私はなんて酷いことをしているんだろう。
こんな世界一かわいくて世界一美しい猫に……。
「ハッ!?」
手を伸ばしかけて、慌てて引っ込める。
すると白い猫が舌を打った。
あ、危なかった…………。
「惜しかったわね」
「何が惜しかったのよ!」
私は怒りに声を荒げる。
自分のさっきの考えに、私は困惑した。
なんで、猫が言った言葉を頭の中で、さも自分が考えましたとばかりに受け入れていたのか。
世界一かわいい子猫ちゃんとか、私が考えるにしては寒すぎるし気持ちが悪い。
操られたような自分の思考に混乱して――そういえば、と私は思い出す。
この猫を、見たことがある。
それも学校に入ってすぐに。
私が一階の廊下を歩いていて、階段を上がろうとした時に、二階に向かう階段の踊り場に水色の瞳の猫が私を見下ろしていた。
私はその色に惹かれ、白い猫に近づいて……。
それから思い出せない。
眉間にしわを寄せて必死に思い出そうとしても、そこからいきなり三階にいた時の記憶しか……。
でもこれで分かった。
私の記憶が飛んでいたのはこの猫のせいだ。
普通は、猫に何かができるとは思えないだろう。
けども今の私は色々とどうでも良くなっている。
怒りのこもった声で私は猫に聞く。
「あなたねぇ……、私を操って何がしたいの…………?」
「そんな怖い目で見ないでくれはしないかしら。さっきの口を開けたあなたは不細工だったけど、今のあなたも最高に不細工よ。目障りだわー」
なんで猫にここまで侮辱されなくちゃいけないのかな!?
私の顔が熱くなっていく。
今の私はきっと眉根を寄せて真っ赤になった顔をしている。
ぎゅっ、と握りこぶしを作って耐える。
でもこれではっきりした。
この白い猫は私の言葉に肯定も否定もしなかったから、操ったというのは間違いではないのだろう。多分だけど!
でもその仮定も、何故だか真実味があるように思える。よく分からないけども、私は確信していた。
白い猫は口を手で隠しながら上品に笑っていた。
猫のくせに気品がある笑い方に私は顔をしかめる。
きっと――いや、絶対――私にはできない笑い方だ。
「不細工で悪かったね! で、あんた何者なの世界一かわいい子猫ちゃん!?」
「あん……やっぱりその響きいいわぁ。世界一、なんて言葉私にしか似合わないわね。他の馬鹿共が名乗れる響きじゃないわ……。もう、私って最高」
「あー、もう帰ろ……」
ナルシストにも程があると思う。
自分に陶酔しだす白い猫に背を向けて帰ろうとすると、さきほどと同様に背中に重さがのしかかる。
「嫌よー。なんで私を置いていくの私とは遊びだったの? そんなのひどいわ。ひどすぎるわ。私ってなんて悲劇のヒロインなのかしら誰か私に同情してくれたっていいほどよー」
「ああぁあー!! もうっ!!」
「みゃぁっ」
再度背中から振り落とす。
そのまま綺麗に着地するかと思ったけど、白い猫は冷たい廊下にその身体をしたたかに打ち付ける。
それを見てしまった私は、慌てて猫の傍に近寄った。
「うぅ……、ひどいわ……、ひどすぎるわ…………」
「あっ、ご、ごめん、ね……」
ぐたりと横たわる猫を、丁寧に起こす。
白い猫はまるで死体のように身体から力を抜いていて、ただただひどい、ひどい、と呟くだけだった。
その痛々しい姿に、私の良心が痛む。
「何でもしてあげるから、その……、泣き止んで」
「本当っ!?」
私の言葉に喜色満面な笑顔で起き上がる。
……やばい。何を要求されるか分かったものじゃない……。
「それじゃあね、少女ちゃん。私のお話、黙って私の言葉に耳を傾けて私の言葉に相槌を打って私を喜ばすような甘い甘いたわ言を吐いて頂戴」
「たわ言でいいんだ」
とりあえず大半の言葉を聞き取れなかったので、最後の言葉にだけ反応してあげた。
それに白い猫は嬉しそうに身を捩った。
…………どうしよう、私…………。