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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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ブレイク・アウト

作者: 冷凍野菜

 五月二十一日。金曜日。


 四日目にして、籠城生活は早くも限界を迎えつつある。電気と水道はまだ生きているが、風呂場から漂ってくる異臭がいよいよ無視できなくなってきた。ドアの隙間はガムテープで目貼りしたのに、どこから臭いが漏れてくるのか。このままでは、外の「感染者」に臭いを嗅ぎつけられるのも時間の問題だ。

 感染者たちが臭いに誘われ集まり始めれば、脱出の機会は永遠に失われ、ぼくはこの臭くて狭い部屋で人生最後の瞬間を迎えることになる。十四年間の人生の最後に感じるのは、自分の首にロープが食い込む苦しさか、それとも壮絶な飢えと渇きか。


 ――冗談じゃない。


 ぼくは立ち上がり、カーテンの隙間から外の様子を窺った。

 初夏の朝の爽やかな青空の下、ボロボロのスーツや血塗れの制服に身を包んだゾンビウイルス感染者たちが、半開きの口から血の混じった涎を垂れ流しながら、ふらふらと彷徨っている。見える範囲だけでも三人――否、三体か――の感染者たちがこのボロアパートの周りをうろついているのが見えた。

 感染者は、獲物がいないときは夢遊病患者のように当てもなく辺りを彷徨っているだけだ。だが、一度(ひとたび)獲物――人間を見つけるや、陸上部員並みの猛スピードで走り出し、文字通り喰らいつく。奴らに見つかれば、逃げ切るのは容易ではなく、逃げ切れなければ命はない。


 ぼくはカーテンを揺らさないように注意して窓から離れた。


 今、家を出るのは無理だ。もし外に出れば、その次の瞬間には奴らに見つかり、喰い殺されることになるだろう。

 ついさっきまで、餓死するくらいなら一か八か脱出を試みて死んだほうがマシなどと思っていたが、恐ろしい感染者たちの姿を目にしてなお、そんな勇ましい考えを持ち続けていられるほどぼくは強くなかった。

 固まりかけた決意が弱気の波にさらわれ、輪郭を失っていく。


 この四日間で幾度となく繰り返した、お決まりの流れだった。いつまでも家に籠っているわけにはいかないと脱出を決意するのだが、その決意は窓の外に目を向けるなりどこかに消えてしまう。その度に、「今は無理だ。次のチャンスを待とう」と自分に言い訳し、気づけば今日に至るわけだが、もう次がないとなると話は別だった。


 ぼくは両手で自分の頬を叩いた。


 ――覚悟を決めるんだ。クソみたいな人生だったが、こんなボロアパートの一室で終わらせていいと思えるほどには、まだ諦めきれてないだろ。だからこそ、三日前にビニール紐で作った輪っかをまだ使ってないんじゃないか。

 今度こそ覚悟を決めろ。感染者どもが見える範囲から消えたら、すぐに家を出るんだ。


 何も、今からどこにあるとも分からない安全地帯を目指す過酷な旅を始めるってわけじゃない。家を出たら、避難所になっている中学校に行けばいいだけだ。

 学校までは徒歩で二十分程度だし、通いなれた通学路は目を閉じていたって歩ける。昨日まで映っていたテレビで、避難所が開設された中学校は自衛隊と警察が守っていると言っていたから、もう感染者に怯える必要はなくなる。

 避難所に辿り付くことさえ出来れば、だが。


 一時間後。自衛用の武器と非常食をスクールバッグに詰め込んだぼくは、アパートの周囲から感染者がいなくなった瞬間を見計らい、四日ぶりに玄関の扉を開けて外に出た。





 八日前。

 五月十三日。木曜日。


 新学期のクラス替えで浮足立っていた雰囲気がようやく落ち着き、同時にクラス内での各人の立ち位置が決まる頃。一足早くクラス内での階級が確定していたぼくは、体育倉庫の冷たい床を右頬に感じていた。


「大丈夫かい?」


 突然降ってきた声に、ぼくは慌てて頭を上げる。見知らぬ生徒が、半開きの扉の間から心配そうにぼくを見下ろしていた。

 ぼくは袖口で涙を拭い、起き上がる。こんなところ、誰にも見られたくなかった。


「ここで何して――それどうしたんだい!?」


 ぼくの顔を見た途端、彼が物凄い剣幕で距離を詰めて来る。驚いたぼくは後退(あとずさ)ろうとして、後ろにあった体操マットに躓いて尻もちを着いた。


「酷い痣だ。…………もしかして、殴られていたのかい?」


 彼は、心底心配そうな表情を浮かべてぼくの前に膝をつき、ぼくの顔を覗き込んでくる。ぼくは俯いて目を逸らした。


「……とにかく、ここを出よう。十六時完全下校だから、みんなもう帰ったよ」


 ぼくは口を閉ざしたまま、彼に言われるままに体育倉庫を出た。

 人気のない校舎内を二人並んで歩く。吹奏楽部の練習の音も運動部の大声も聞こえてこない学校は、やけに静かだった。


「君も二年生なの?」


 沈黙に耐え切れなくなったぼくが言葉を発したのは、一・二年生用昇降口に着いたときだった。

 彼が二年生の学年色である青色の上履きを履いていることには、とっくに気づいていた。だが、ぼくは同じ学年のはずの彼の名前はおろか、顔すら一切記憶になかった。


「そういえば、まだ挨拶してなかったね。この春転校してきたんだ。よろしく」


 先回りしてぼくの疑問に答えた彼は、手を差し出してきた。ぼくはその意味を一瞬考えてから、慌てて彼の手を握り返した。




 家に帰ると、母さんが台所で夕飯の準備をしていた。

 母さんはいつものように、料理の手を止めることなく「今日の学校はどうだった?」と聞いてきた。普段なら憂鬱な気分になる問いだが、今日のぼくは「待ってました」と言わんばかりに、転校生と仲良くなり一緒に下校したことを嬉々として母さんの背中に向かって話した。

 体育倉庫で去年のクラスメイトたちに殴られたことは省いたが、久しぶりに母さんに嘘をつくことなく学校の話ができるのが、堪らなく嬉しかった。


 だが、ぼくの人生において楽しい時間が長続きしたためしはない。当然、今日だけ特別なんてことはなかった。


 玄関ドアの鍵が開くガチャリという音が、ぼくを現実に引き戻す。気づけば窓の外は真っ暗になり、時刻は夕方から夜に移り変わっていた。


「おかえりなさい……」


 数秒前までの立て板に水が嘘のような、どうにか絞り出した酷く擦れた声で、ぼくは父の帰宅を精一杯歓迎した。





 翌日。

 五月十四日。金曜日。


「今日は学校どうだった? 新しく出来た友達とは上手くいってるの?」


 帰宅後、母さんはいつものように料理しながらぼくに尋ねてくる。ぼくは全身から感じる鈍痛を捻じ伏せ、鼻声を悟られないようにしながら、母さんの背中に向かって「心配ないよ」と答えた。


「昼休みに少し話したけど、どの部活入ろうか迷ってるとかで相談されちゃって――」


 勝手に口が動き、全自動で嘘が吐き出されてゆく。


 昼休みに彼の教室に向かったのは本当だが、彼に会うことはできなかった。

 途中の廊下で去年のクラスメイトらに捕まってしまったのだ。彼らは、ぼくを人通りの少ない東階段まで連れて行くと、二十分の昼休みを目一杯費やしてぼくを滅多打ちにした。


「部活動の内申点が欲しいだけだったら、映画部とか美術部みたいな楽な文化部がいいって言っておいた。あ、でも、ぼくのクラスの担任が顧問やってるパソコン部だけは例外ね。あいつ、嫌な奴だから」


「先生をそう悪く言うんじゃありません」


「でも、ほんとに嫌な奴なんだもん」


 全て即興の嘘で構成された話の中で、担任に関する部分だけは本当だ。

 担任は、ぼくがいじめられていることを知っていながら、見て見ぬふりをしている。今日だって、ぼくが階段に引き摺られていくところを目撃していながら、何もしてくれなかった。


「あ、そうだ。二時間目の体育でさ――」


 担任の話はやめだ。ぼくは話題を切り替え、想像力をフル回転させて喋り続ける。

 「それは良かったわね」などと相槌を打ちながらぼくの話を聞いてくれる母さんに嘘を気づかれた様子はない。


 ぼくは、窓が夕陽で黄金色に染まり、そして暗くなるまで、母さんに延々と嘘八百を話し続けた。

 母さんは料理しながら、ぼくの話を楽しそうに聞いてくれた。


 玄関の鍵が開く音で、ぼくは現実に引き戻された。

 それまで機関銃の如く回り続けていた口が、装填不良を起こしたかのように急停止する。


 玄関ドアが開き、ぼくより二十センチほど背の高い男――父さんが入ってくる。不機嫌を隠そうともしない父は大股でぼくに近づいて来ると、おもむろにぼくの腹に拳を叩き込んできた。

 ぼくは腰を折り、その場に蹲る。


「電気くらい点けろや、薄気味悪い」


 吐き捨てるような台詞が、蹴りともに降ってくる。逆流してくる胃液と必死に格闘するぼくは、まるで煙草の吸殻を踏み躙るかのような調子で頭を踏みつけにされても、抵抗一つできない。


 しばらくすると父さんは満足したらしく、ぼくの頭から足を下ろし、何も言わずに居間へ消えていった。

 いつも不機嫌な父さんだが、今日は輪を掛けて機嫌が悪い。パチンコか競馬で大負けでもしたのだろうか。


 ぼくは吐き気が収まるのを待って、のろのろと立ち上がると、恐る恐る居間に入る。


「晩飯」


 テレビを見ながら、「20%割引」のシールが貼ってある寿司を食べていた父さんが、座卓の上のレジ袋を顎でしゃくる。

 ぼくは、レジ袋の中から半額シールの貼ってある惣菜パンを取り出し、父さんを刺激しないように細心の注意を払いながら、部屋の隅で物足りない夕飯にありついた。





 翌々日。

 五月十六日。日曜日。


 一日中家で酒を飲んでくだを巻いていた昨日とは打って変わって、朝から出かけていた父さんが、ケバい女を連れて帰ってきた。

 父さんが吸っているのとは異なる、甘ったるい煙草の臭いを漂わせる女は、迎えに出てきたぼくを見るなり露骨に嫌そうな顔をした。


「子供がいるなんて聞いてないわ」


「ああ? 気にすんなよ。犬か何かだと思えば――」


「冗談じゃない。悪いけど帰らせてもらうわ」


「チッ、分かったよ、ちょっと待て…………おい、朝までどっか行ってろ。これだけあれば足りるだろ」


 父さんはぼくを睨むと、忌々しそうにポケットからしわくちゃの千円札を取り出し、ぼくに投げつけてきた。女の前だからか、嫌に気前がいい。


 ぼくは、父さんが心変わりしないうちに、千円札だけ握り締めて家を出た。

 辺りの家々から微かに漂ってくる夕飯の匂いとテレビの音、そして家族団欒の笑い声。日曜夜の住宅地を構成する全ての要素が、「お前はここにいるべきじゃない」とでも言うかのように、ぼくを追い立てる。




 住宅地を出たぼくは当てもなく辺りを歩き回り、日付が変わるまで時間を潰した末、幹線道路沿いにある二十四時間営業のファストフード店に入った。

 昼間は混雑する店内も、この時間には、椅子の上で胡坐をかいてスマホに熱中している女と、荷物でパンパンに膨らんだレジ袋を何個も抱えて眠っている薄汚れた格好の老人しかいない。

 白い照明に煌々と照らされるガラガラの店内はどこか物寂しく、寄る辺のない心細さに拍車を掛けた。


「えぇっと……Sサイズのホットココアで」


「……百円になります」


 やる気のなさそうな店員から紙コップを受け取り、窓際のカウンター席に座る。そして、こんな時間にもかかわらず多くのトラックが行き交う大通りをぼんやりと眺める。


 薄汚れたガラス越しに流れるヘッドライトの白い光と、テールライトの赤い光。

 右折レーンでウインカーの黄色い光を点滅させる長距離トラックに目をやれば、ナンバーには遠く九州の地名。あのトラックの荷台に忍び込めば、少なくともここよりはマシな場所へ行けるだろうか。

 いや、いっそのこと、走るトラックの前に飛び出せば――


「こんな時間に、こんなとこで何してるんだい?」


 唐突に降ってきた声に、ぼくは危うく椅子から転げ落ちそうになった。慌てて後ろを振り向けば、そこには意外そうな表情を浮かべる転校生の姿があった。


「隣座るよ」


 驚愕で声の出し方すら忘れ、口をパクパクさせるだけのぼくの反応を待たずに、彼はぼくの隣の椅子を引いて腰を下ろした。


「何かあったのかい? 僕でよければ、話を聞くよ」


 彼は三日前の体育倉庫のときと同じように、心配そうな目で真っ直ぐにぼくの目を覗き込んできた。ぼくは三日前と同じように目を逸らす。しかし、三日前とは異なり、ぼくは気づけば口を開いていた。


 そんなつもりはなかったのに、一度喋り始めると、堰を切ったかのように口が回り始める。

 商売女を連れ帰ってきた父親に家を追い出されたことだけでなく、物心ついた頃から父親に虐待されていること、学校でいじめられていること、担任もいじめを傍観するだけで助けてくれないことなど、抑圧されていた感情が次から次へと溢れ出してくる。

 視界が滲んできて、嗚咽で何度もつっかえてもなお、ぼくは喋り続けた。





 翌日。

 五月十七日。月曜日。


 昨晩、辛い胸の内を洗いざらい彼に打ち明けたお陰か、今日はかつてないほどすっきりした気分だった。

 いつも通りクラスメイトから嘲笑され、さっきの体育の野球ではデッドボールを連発されたが、それでも普段の水準まで気分が落ち込むことはなかった。


「今だ!」


 背後で声がした。

 直後、体操着から制服に着替えようとしていたぼくは、突然後ろから複数人に羽交い絞めにされた。抵抗する間もなく膝を後ろから蹴り抜かれ、目前に机が迫る。


 強い衝撃。胸から上を机に押さえつけられ、息ができなくなる。

 ぼくは、何が起こっているのかも分からないまま、必死に拘束を振り解こうとする。だが、伸びてきた複数の腕に両手両足を押さえられては、身を捩るどころか、首を動かすことすらできなかった。


「もらったあ!」


 誰かの掛け声と同時に、下半身が突然涼しくなった。周囲で笑い声が爆発する。


「うわああああ!」


 首を回して確認せずとも、何をされたか分かった。ぼくはさらに力を振り絞り、精一杯暴れようとする。

 だが、多勢に無勢だった。身動きを完全に封じられたぼくは成すすべなく体操着のシャツも剥ぎ取られ、周囲のバカ笑いがさらに大きくなる。


「もう入っていいー?」


 廊下から、男子の着替えが終わるのを待っていた女子の声が聞こえてきた。ぼくの心臓が跳ね上がる。


「待って――」


「いいよー!」


 教室の中から、複数の肯定の声が上がる。間もなくして、教室の前後のドアが開き、女子たちが入ってきた。

 ぼくを押さえつけていた連中が一斉に離れる。女子の悲鳴と、最高潮に達した男子の下卑た笑い声が学校中に響き渡った。





 翌日。

 五月十八日。火曜日。


 昨日、あの後、ぼくは大急ぎで服を着ると、荷物も持たずに学校から逃げ出した。そのほんの少し前まで、中学に入って初めて友達ができたと浮かれていたのが嘘みたいだった。

 悔しさ、屈辱、怒りといったおおよそ全ての悪感情がごちゃ混ぜになって渦巻き、自分でももう何がなんだか分からなかった。殴られたり嘲られたりすることはあっても、あんなことをされたのは初めてだった。


 体育は六時間目で、その後は終学活しか残っていなかったのに、担任はぼくが学校からいなくなったことをわざわざ父に連絡してくれていた。

 そのせいで、ぼくは家に帰るなり父から激しく殴られる羽目になった。何から何まで、ぼくに都合が悪くなるように世界ができているかのようだった。

 ――こんな世界なら、いっそ壊れちゃえばいいのに。


「具合が悪いので、今日は休みます。すみません」


『君ねえ、困るよ。欠席の連絡は親御さんからって決まりが――』


 電話の向こうで担任が何事か言っているのを無視して受話器を置き、電話ボックスを出る。父の手前、普段通り制服を着て家を出たものの、学校に行く気にはなれなかった。


 時刻は九時を回ろうとしている。公衆電話を探すのに随分時間が掛かってしまったが、丁度良い。父は既に仕事に行っただろうから、もう帰っても大丈夫だろう。


 ぼくは、さっきよりは多少軽くなった足取りで家への道を戻り、ドアの郵便受けを覗いて父の不在を確認してから、玄関を開けた。煙草とゴミの饐えた臭いが鼻を突く。


 家に上がり、制服のまま、居間の隅に敷きっぱなしにされている布団に倒れ込む。

 昨日は一睡もできなかったが、少し外を歩いたことで気分が切り替わったようだった。二日分の睡眠負債が生み出す猛烈な睡魔が、ぼくをあっと言う間に深い眠りへと引き摺り込んだ。




「おい、起きろ! 大変なことになってる!」


 切羽詰まった声が、ぼくを叩き起こした。固着したかのように重たい瞼を開け、目ヤニで霞む視界に声の主を捉える。


「なんで君がぼくの家に……」


「そんなことより、テレビつけて!」


 彼のただならぬ様子に押され、ぼくはテレビのリモコンを手に取る。


『――現在、全国各地で新型感染症のアウトブレイクが発生しています。感染者は正気を失っており極めて危険ですので、決して近寄らないでください。屋内にいる方はドアと窓の鍵を閉め、外出中の方は最寄りの避難所に避難してください』


『速報です。政府が自衛隊に防衛出動を発令しました。感染拡大の特に深刻な地域では、感染者排除のための強力な措置が即時に実行されます。対象地域にお住いの方は窓から離れ、できれば頑丈な建物の中か地下に避難してください』


 緊迫したアナウンサーの声とともに画面に流れるのは、気の触れた人々の津波に飲み込まれる警官隊や、まるで噴火でもしたかのように赤い炎と黒煙を立ち昇らせる街並みや、猛然と走り寄ってくる人間の群れを自衛隊の装甲車が機関砲で薙ぎ払う光景だった。


「いったい何が……」


「何日か前から世界中で大騒ぎになってる新型感染症が、ついに日本に上陸したんだ。街中パニックで、僕もゾンビみたいな連中に襲われて危うく殺されるとこだった」


 彼が震える声で言った。よく見れば、手も震えている。彼は本気で怯えているようだった。とても、嘘をついているようには見えない。

 しかし、今朝まで全く普通の日常が流れていたのに、少し昼寝して起きたら世界が終わってたなんて、そう簡単に信じられる話ではない。そもそも、「新型感染症」なるものが世界中で騒ぎになっていることだって、ぼくは今の今まで知らなかったのだ。


「あいつら、人を見るや物凄い勢いで追いかけて来て、噛みついてくるんだ。首を噛み千切られて即死した人も見たけど、死ななかった人は……」


 ――ドン!


 彼の話を、玄関から響いてきた大きな物音が遮った。彼はびくりと震え、黙り込む。


 誰かが外にいる。

 ぼくは台所にあった出刃包丁を手に取って、足音を立てないように玄関へ。

 薄い木製の玄関ドアの前に立ち、覗き穴にゆっくりと顔を近づけ――


 ガチャリ。

 さっき閉めたはずの鍵の開く音が、やけに大きく聞こえた。


 ぼくは二三歩後退り、後ろの壁に背中をぶつけてそれ以上退がれなくなった。

 玄関ドアが軋むような音を立てて開いてゆく。


「…………なんだ、父さんか」


 だが、ぼくはドアを開けた男の顔を見て、胸を撫で下ろした。普段ならあり得ないことに、ぼくは父の帰宅に心から安堵していたのだ。

 背中を壁から剥がしたぼくは、外の様子を尋ねるべく父に自ら近寄ろうとする。そして、異変に気づいて再度固まった。


「ぅぅぅぅぅ……」


 父は低い唸り声を発しながら、白濁した目をぼくに向けてくる。口元から血の混じった涎を滴らせる父の首筋には、歯型の噛み傷があった。


「その人、感染してる! 逃げて!」


 様子を見に来た彼の悲鳴に近い警告が、耳をつんざく。しかし、ぼくと父との距離は二メートルとなく、もはや逃げることなど不可能だった。


「うわああああ!」


 腕を伸ばしてきた父に、半狂乱になったぼくは咄嗟に右手を叩きつけた。ずぶりという感触が右手に伝わってくる。ぎゅっと瞑っていた目を開けると、父の胸に出刃包丁が突き刺さっていた。

 その場に崩れ落ちる父。赤黒い血だまりが板敷きの床に広がってゆく。

 強烈な血の臭いが鼻を突き、ぼくは胃袋の中身を倒れ伏した父にぶちまけた。


「正当防衛だよ。この人は感染してたんだ」


 彼が、ぼくの肩に手を置いて言った。


「それより、血の臭いを外の感染者に嗅ぎつけられでもしたら大変だ。隠さないと」


 彼はついさっきまでの怯えようが嘘のように冷静な調子で、父を殺してしまった衝撃からまだ立ち直れないぼくを慰め、何をすべきか的確に教えてくれた。ぼくは、彼に言われるままに父の死体を風呂場に運び入れると、窓とドアをガムテープで目貼りしていく。


 テレビでは世界が崩壊してゆく様子が実況中継され、外からはひっきりなしに悲鳴や怒号が聞こえてくる。この家の周りでもアウトブレイクが進行しているらしい。ぼくはテレビの言う通り、家で救助を待つことにした。





 四日後。

 五月二十一日。金曜日。


 四日間に及んだ籠城生活を終わらせ、意を決して外に出たぼくは、拍子抜けするほどあっけなく避難所に指定されている中学校に辿り着いた。


 家から中学校までの二十分弱の道のりで、見かけた感染者は二人だけだった。その二人も、彼の先導のおかげで難なくやり過ごすことができた。朝の通勤・通学時間帯には多くの感染者がうろついていたのに、奴らはいったいどこへ消えたのだろう。


 肩に食い込むスクールバッグを反対の肩に掛け替えてから、いつも通り開いたままの生徒用昇降口から校内に入る。校内は荒らされた様子もなく、月曜日に見たときと何ら変わらない様子だった。


 ぼくはいつもの習慣で、三階にある自分の教室に向かった。

 避難しに来たのに、真っ先に教室に向かっても仕方がないと気づいたのは、三階に着いてからだった。


 ぼくは他の避難者か避難所スタッフを探して、三階の廊下を進む。学校は避難者でごった返していると思っていたのだが、全くそんなことはなく、それどころか人の気配すら感じなかった。


「まさか避難所が移転したなんてことは……」


 湧いてきた不安が、ぼくの歩調を速めさせる。しかし、特別教室の並ぶエリアを抜け、二年生の教室が並ぶエリアまで来ると、突然多くの人の気配を感じるようになった。


「よかった。誰かいる」


 他人の存在を嬉しく思うなんて、生まれて初めてだった。だが、教室を覗き込んだぼくは、そこに広がる衝撃的な光景に腰を抜かしそうになった。


 ぼくが所属している二年一組の教室には、数十人の感染者が(ひし)めいていた。さらに、まるで授業でもしているかのように黒板の前に立って唸り声を発している大人の感染者の顔には見覚えがあった。授業を受けているとでもいうかのように行儀よく席に座っている他の感染者らにも見覚えがある。


「まさか、そんな……」


「早いところここから逃げよう。だけどその前に、この感染者たちを始末しないと。クラスメイトと担任の先生が感染者になってしまったのは残念だけど、このままでは逃げる前に見つかってしまうかもしれない」


 冷静な彼の声が、パニックになりかけていたぼくの心を多少落ち着かせる。ぼくは教室内の感染者らに気づかれないように、小声で「どうすれば……?」と彼に聞いた。


「用意してきた『あれ』を使うんだ。今なら一網打尽にできる」


 彼の声が脳内に木霊する。そうか、彼はこのときのために、これをぼくに作らせたのか。

 ぼくはスクールバッグから、口に布切れを押し込んだビール瓶を取り出した。そして、布切れにライターで火を点ける。

 灯油が染み込んだ布切れはたちまち燃え上がった。


「さあ、教室の真ん中に放り込むんだ」


 彼が耳元で囁く。

 ぼくはずっしりと重たいビール瓶を振りかぶり、教室の中央目がけて放り投げた。瓶は縦に回転しながら飛翔し、狙い通りに教室のど真ん中に落下した。

 ガラスの割れる音とともに、引火した灯油が辺りに飛び散り、教室は炎に包まれた。





 六月某日。


「それで、ぼくは一体いつになったらここから出られるんですか? もう隔離期間は過ぎたんでしょ?」


 少年が、テーブルを挟んで目の前に座るスーツの男に尋ねた。クリップボードから顔を上げた男は、「まさか、本気で出られると?」と呆れた様子で聞き返した。


「君は、自分がどんなことをしたのか、本当に分かっていないのか?」


 物分かりの悪い子供を諭すような男の口調を受け、ここ数週間で蓄積したフラストレーションで沸点が下がっていた少年は、「だから……!」と声を荒らげる。


「あれは正当防衛だったと何度も言ってるでしょ! 感染していないことが分かったら、ここから出してくれるって言ってたじゃないですか!」


「私が? そんなことを? まさか。精神異常者のふりをして私らを騙そうったって、そうはいかん。今日は、事件の四日前から前日までの話をしてもらう――」


 自分の言い分には全く耳を貸さず、言いたいことだけ言って再びクリップボードに目を落とした男を前にして、少年は髄液が突沸するのを感じた。

 少年が、テーブルの向こうの男に掴みかかろうと勢いよく身を乗り出す。両足と両手の手錠がジャラジャラと喧しい音を立てた。


「ふざけんな! ぼくを犯罪者扱いしやがって! 早くここから出せ!」


「何をするか!」


 男はぎょっとした様子で椅子を引き、壁一面の大型ミラーの向こうに「鎮静剤!」と怒鳴った。

 たちまち取調室のドアが吹っ飛びそうな勢いで開き、雪崩れ込んできた制服の警官四人が少年を力任せにテーブルに押さえつける。

 さらに、そこへ医師が駆け込んできて、狭い取調室はいよいよ過密状態になった。


 医師は完全に制圧されて身動き一つ取れない少年の傍らに立ち、少年の左上腕に注射針を突き刺す。

 しかし、次の瞬間、部屋全体がガタガタと揺れ始め、医師は鎮静剤を少年に注入する前に慌てて注射針を引き抜いた。

 ほぼ同時に、緊急地震速報の耳障りな警報音が少年以外の全員のポケットから鳴り響く。

 久々に聞いた音色に男らは身構えたが、しかし揺れは数秒で収まり、待てど暮らせど本震が来ることはなかった。誤報だ。


「そうか、そういうことか。今の揺れで分かった。ここは避難船の上で、だから外に出られないのか。そういうことなら、そうと言ってくれれば……君も、このことを知っていたなら、教えてくれればよかったのに」


 狂気じみた笑みを汗だくの顔に貼り付けた少年が、まるでそこに誰かがいるとでもいうかのように、虚空に向かって語り掛ける。

 薄気味悪そうに身じろぎする警官らを横目に、男は「早く鎮静剤を打て」と医師に命じた。

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