前世の記憶を取り戻した放蕩王子は今世を後悔し、誠実に生きる
「アリシア嬢。今まで本当にすまなかった」
向き合って座るや否や深々と頭を下げ、謝罪の言葉を口にしたのは、リューリック・アイセルヴェン――ここ、アイセルヴェン王国の第一王子、王太子だ。
その突然の謝罪に困惑するのは、アリシア・フォーレット――フォーレット公爵家令嬢にして、リューリックの婚約者である。
なぜこんなことになっているのか。
それは当然、リューリックが謝罪する必要があると考えたから。
それはなぜか。
――彼が、前世の記憶を取り戻したからだ。
この数日前、リューリックの17歳の誕生日。
リューリックは目覚めとともに、自分の知らない記憶が流れ込んでくるのを感じた。
前世と今世の記憶が混ざり合い、混濁していく。
その記憶から、前世の男は、とても誠実に生きていたことを知った。
権謀術数あふれる貴族社会において、あくまで誠実に仕事をこなし、成果をあげていった。
詳しいところまでは思い出せないが、人間関係も誠実そのものであったと、その記憶は教えてくれた。
それと同時に、リューリックは激しく自己嫌悪し、後悔した。
リューリックの記憶は前世のそれとない交ぜになり、それは彼の在り様にも影響を与えた。
つまり、前世の誠実な心がリューリックに宿ったのだ。
リューリックとアリシアの婚約が決まったのが、お互いが10歳のとき。
もっと幼い頃から親交があったことで、お互いがお互いに不満に思うようなことはなかったはずだ。
しかし、歯車が狂い始めたのは2人が15歳のころ。
突然リューリックの女癖が悪くなったのだ。
通い始めた学園では、日ごとに異なる女子生徒と会い、時間を共にする光景が目撃されていた。
彼の放蕩は終わる兆しがなかった。その素行は流石に誰の目にも余り、あわや廃嫡か、というところまで来ていた。
そう。
前世の誠実な人間としての記憶が、アリシアへの不誠実を許せなかったのだ。
なぜそんなことをしていたのか、そのきっかけすら判然としない。
記憶が混ざり合った結果、リューリックの記憶の一部に靄がかかったようになっていた。
いや、もしかするとリューリック自身、忘れかけていたのかもしれない。
だが、彼女に対して不誠実な態度だったことは明らか。
自然、アリシアへ謝罪しなければならないと、思い至る。
そういうわけで、今日、公爵家を訪れ、アリシアと向き合っているのだ。
そんなふるまいをしていた人間が謝罪をしているのだから、周りは驚くほかない。
同席していたアリシアの父、フォーレット公爵も目を見開いていた。
リューリックが顔を上げ、再びアリシアと目を合わせると、アリシアは戸惑った表情のまま、口を開いた。
「……それは、何に対する謝罪でしょうか」
「もちろん、これまでの私の振る舞いについてだ。謝罪して許されるものではないとは分かっている。なので、もし貴女が婚約の撤回を望むなら、王家はこれを受け入れる。その場合は王家から謝罪金が支払われるだろう」
「……本気ですか、殿下」
「もちろんだ。こんなこと、冗談では言えまい」
驚きの申し出に思わず口を出す公爵だが、リューリックの真剣な眼差しを受けて押し黙る。
リューリックはわずかに痛む心を押し殺し、続きを告げる。
「父である国王には許可を頂戴している。……この件の行方は、アリシア嬢の気持ち次第だ。貴女はどうしたいだろうか」
答えを問われたアリシアはリューリックから視線を外し、思案顔をする。
しばらく考え、公爵の方をちらりと見るアリシア。それにつられて一瞬だけ公爵に視線を向ける。その表情は『提案を呑め』と言っているように感じた。
視線をリューリックに戻したアリシアは徐に口を開いた。
「……わかりました。婚約の撤回をお願いします」
うすうす分かっていたことだが、やはりか、と思わずにはいられない。
思わず顔に昏い陰が落ちる。
「……そうか。正式な手続きは後日、王宮で行われるだろう。改めて、今まで本当に申し訳なかった」
そう言って再び頭を下げ、未だ困惑を隠せないアリシアと公爵を置いてその場を後にするリューリック。
彼は前世の記憶を取り戻してから、アリシアのことばかり考えていた。
幼いころの印象ではあるが、彼女は誠実で、真面目で、優しい。よくできた令嬢だとなぜか鮮明に思い出せたリューリックの記憶が教えてくれていた。
そんな彼女に、好感を抱かずにはいられない。
アリシアのことを考えれば考えるほど、彼女への想いは募った。たった数日間で、リューリックは恋に落ちたのだ。
だが、今さらそう思っても、もう遅い。
他でもない彼女によって、賽は投げられたのだ。
王族の特権をもってすれば、こんな話し合いは必要なく、婚約の解消も必要なかっただろう。
しかし、それではリューリックが己を許せない。
たとえ手放すことになったとしても、手遅れだとしても、彼女に対しては誠実でありたい。
だから困惑する父を説得し、アリシアの選択権を得たのである。
王宮に戻ったリューリックは国王に面会し、結果を伝える。
それを聞いた国王は「そうか」と短く返し、徐に立ち上がって、リューリックの肩を優しく叩いた。
「新たな婚約者は、ゆっくり探すとしよう」
何かを悟ったような表情で話す国王。
リューリックはそれを父の気遣いだと感じた。
今のところ王太子であるリューリックは、妃を娶り世継ぎを生む義務がある。
それを棚に上げて父親として気遣ってくれる国王に対し、こんな息子でも大事に思ってくれているのだと理解し、感謝せずにはいられなかった。
数日後に2人の婚約は解消され、このことはすぐに公になった。
話題性はあったものの、貴族たちの中にリューリックの振る舞いを知らなかった者はおらず、やはりな、という呆れが多数を占めた。
リューリックはこれまでとは違い、学園の講義にも真面目に取り組むようになった。
周囲は学園の授業には追い付けないのではと考えていたが、今のリューリックには前世の記憶がある。
記憶は薄らぼんやりとしているものの、蓄えられていた知識は問題なく引き出すことができた。
それを生かしながら遅れを取り戻し、さらには公務、つまり国王である父親の手伝いもこなすようになった。
本来ならもっと早いうちから行うことであるが。
学園では当然、同い年であるアリシアと遭遇することもあった。
4年制のこの学園は各学年2クラスの構成で、成績の良し悪しで毎年再編が行われる。
優秀なアリシアは当然上のクラス、リューリックは不名誉ながら下のクラスだ。
そのため顔を合わせる機会は少なかったが、全く会わないというわけではない。
そういったときには、
「……ごきげんよう、アリシア嬢」
「……ごきげんよう、殿下」
と、いたって普通の挨拶を交わす。それ以上でも、それ以下でもない。
アリシアへの特別な思いがあるリューリックでも、今の彼女との関係を思えば、踏み込むことなどできない。
自業自得とはいえ、心は痛む。
挨拶するたびに、リューリックの心は締め付けられる。
そのたびに、彼女と笑いあえる日は来ないのだと、思わず気持ちが暗くなる。
「やあ、兄上。兄上は最近、変わりましたね?」
「レイニスか。……まあ、いろいろあってな」
放蕩を繰り返していた王子が手の平を返したように真面目になったのだから、その変化は誰にでも分かる。
リューリックの異母弟である第二王子、レイニスもその一人だ。
リューリックにとって、この弟はよくわからない。
リューリックのささやかな記憶では、レイニスはリューリックがどれだけ遊んでいようと、態度を変えなかったのだ。
いつだって、尊敬の念を向けられていた、という記憶がある。その理由は、いくら考えても分からない。記憶にも靄がかかって、晴れないままだ。
彼はリューリックに代わって公務に取り組んでくれていた。腹違いではあるが、本当によくできた弟だ。
「お前はよく、私を見捨てなかったな」
「どんな兄上でも、兄上ですから。小さい頃は、ずっと支えられていました」
「そうだったか」
「ええ、昔の兄上に戻られたようで、嬉しいです」
昔の私?
その言葉に尋ね返そうとして、その途端、頭痛が襲ってきた。
無理やり、記憶の扉を開こうと叩いた。その痛みが、そのまま頭痛になってやってくるような、そんな感覚だった。
まるで、頭が思い出すことを拒否しているかのような――
「兄上? どうなされました?」
痛みで顔をしかめていたのか、レイニスが心配そうに尋ねてくる。
リューリックは、何でもないと言うかのように取り繕う。
「気にするな。それより、私がやるべきだったことを任せてしまい、申し訳なかった。これからは私がしっかり役目を果たすよ」
それだけ言って、まだ痛む頭を庇いつつ、足早に部屋へ戻った。
婚約の解消から半年ほど経つと、初めはリューリックの変化に大いに戸惑った周囲も、ここまでくれば本当に彼が改心したのだと理解する。
一時は廃嫡かとまことしやかに囁かれていたが、そんな噂は全く聞かなくなった。
当のリューリックの婚約者は、まだ決まっていない。
この件は父である国王に一任してあるが、その国王から全く話が降りてこないのだ。
リューリックとしては、これ以上国王に迷惑をかけたいとは思わないし、誰との婚約でも反対する意志はない。
それでも父が真剣に選んでくれているのかと思うと、嬉しくもあり、同時に申し訳なくも思う。
既にリューリックも17歳、本来なら冗談抜きで婚約者がいなければならないのだ。
また、元婚約者であるアリシアも、どうやら新たな婚約者が見つかっていないらしい。
アリシアには幸せになってもらいたいと、無責任にもそう願う。
記憶が混ざり合って曖昧な状態であるとはいえ、この状況を引き起こしたのは間違いなくリューリックである。多方面に迷惑をかけていると考えると、申し訳なさで頭が上がらない思いだ。
そんな折、リューリックに一通の手紙が届いた。
差出人の欄を見てみると、そこにはフォーレット公爵の名があった。
心臓が早鐘を打つ。
フォーレット公爵が、今になっていったいどんな用件だろうか。手紙の中には、公爵家に来てほしいという内容だけで、詳しいことは書かれていなかった。
婚約の件は、もう終わったはずだ。他に何を話すと言うのか。
ともかく、断る理由は特にない。国王である父からは、存外あっさりと許可が出た。
リューリックは心を決め、指定された日に公爵家へ赴いた。
公爵家と到着すると、玄関で公爵に迎え入れられた。
「殿下、よく来てくだされた。どうぞこちらへ」
公爵の案内で公爵邸を歩く。
通されたのは忘れもしない、破談の話し合いをした応接室だった。
「ここでしばらくお待ちください」
そう言って、公爵は足早に部屋を出ていく。
使用人に出された紅茶を飲んでいると、しばらくして公爵が戻ってきた。
「お待たせいたしました」
「……お待たせいたしました、殿下」
「っ……!」
一瞬、声が出せなかった。
公爵が、後ろにアリシアを連れてきたからだ。
公爵とだけ話すつもりが、思わぬ想い人の登場に、わずかに思考が飛んでしまった。
「……やあ、アリシア嬢。いや、気にしなくていい」
努めて平然と返す。
フォーレット家の屋敷にその令嬢であるアリシアがいるのは当然だ。しかし、まさかこの場にやってくるとは思わず、整えたはずの心が揺れ動く。
そこに、公爵からの追い打ちがかかる。
「今日は、アリシアが殿下と話したいと申しまして、この場にお越しいただきました」
「アリシア嬢が……?」
困惑したままアリシアを見ると、彼女は俯きがちに首を縦に振った。
どうやら本当らしい。
今になっていったい何の用なのだろうか?
「私は席を外します。お2人でゆっくり話し合ってくだされ」
そう言って公爵と使用人たちは退室していってしまった。
部屋に残ったアリシアはリューリックの対面のソファに座った。
沈黙が流れる。
話があるようであったが、話し出しづらいのか、彼女はなかなか話し始めようとしなかった。
「あー……アリシア嬢。最近お加減はいかがだろうか」
「……おかげさまで、何事もなく過ごしています」
沈黙に耐えられずに発した質問。それに対するのは当たり障りのない一般的な回答だったが、リューリックは引っ掛かりを覚えてしまった。
『おかげさまで』というのが、皮肉に聞こえてしまったのだ。
心を煩わすあなたとの婚約がなくなったから、元気に過ごしている、と。
もちろん彼女にそんな意図はないだろう。そんなことに過剰に反応している自分は、それだけ心がささくれているということか。
リューリックが心の内で葛藤しているのを知ってか知らずか、この会話をきっかけにアリシアが話を始める決意ができたようだ。
「最近、国王陛下がよく公爵家に来られるのです」
「父が……?」
まさに驚愕というべき事実だった。
最近国王が定期的に外に出ているだろうことは察していた。本来国王が王宮から出ることなどほぼないので変だとは思っていたが、まさかここに来ていたとは。
だが、その理由は――?
「殿下との婚約を元に戻してくれないか、ということでした」
「な……」
アリシアの口から聞かされた内容に、驚きはさらに大きなものになった。
国王はリューリックの内心について、何か察している様子ではあった。そして、リューリックの新たな婚約者が一向に決まらないという事実。
つまり、国王はアリシアを再びリューリックの婚約者にしようとしているが、その交渉は難航している、といったところだろう。
これは流石に無理がある。
何しろ、アリシアには再婚約をする理由はないだろう。リューリックに抱く好意はないはず。王族との繋がりは大きいものではあるが、公爵にとって必ずしも必要であるとは言えない。
そこまで考えて、リューリックはこの話し合いの目的が見えた気がした。
すなわち、国王の訪問を止めてくれないか、と。
そんなあり得ない話を持ってくる国王に嫌気がさしている。だから、当事者であるリューリックにこれをやめさせようとしている、ということではないだろうか。
その考えはごく自然なものであろう。公爵家から見れば結ぶ気のない婚約など迷惑な話でしかない。
だがそれでも、アリシアと歩む未来に一縷の望みもないと思い知らされたようで、リューリックの心は強く締め付けられた。
「そうだったのか。それは本当に申し訳ない」
震えそうになる声を必死に絞り出し、リューリックは謝罪を口にする。
アリシアはそれには答えず、話を続ける。
「婚約を解消してから、殿下は何事も真面目に取り組まれているそうですね」
「……ああ、そうだな。そうしているつもりだ。もっとも、これは本来やっているべきことで、褒められるようなことではないが」
「そうかもしれませんね」
アリシアの一言一言が、胸に刺さる。
他の者ならただ客観的な意見として取り入れるだけの言葉が、アリシアから発せられると鋭利な刃物のように心を抉る。
それだけ彼女の評価を気にしているということだ。もう気にする必要など、あるはずがないというのに。
「殿下は、昔のことを覚えていらっしゃいますか?」
「昔のこと……いや、よく覚えていないな」
話の流れが少し変わったような気がした。
昔とは、婚約したころのことか。それとも、リューリックが放蕩を繰り返していたときのことだろうか。
いずれにせよ、記憶にかかった靄は依然晴れないまま。あまり思い出すことはできない。
「婚約したころの殿下は、とても真面目で、誠実で。よく気遣いしてくださる優しい方でした」
「……そうだったか」
「ええ。……まさに、今の殿下のように」
「……そうか。それは重ね重ね、申し訳ないことをした」
これは、また皮肉だろうか。それとも、当てつけか。
今の自分がアリシアにそう評価されているのは嬉しくもある。だがその評価を下してくれるアリシアは、もう隣にはいない。
今さら遅いんですよと、遠回しに言われている気がした。
そう思いいたって、リューリックの気持ちは沈む。そのうえ、悪い方向にしか考えられない自分を鑑みて、私は弱い男だ、と連鎖的に心が傷ついていく。
落ち込んで逆に冷静になったリューリックは、以前にもこんなことがあったような気がする、とふと思った。
あれは――そう、弟のレイニスに言われたのだ。
昔の私は、今のように真面目に、誠実にあろうとしていたということか。放蕩していたころの朧げな記憶と照らし合わせると、とても信じられないが……。
「そんな殿下が変わられたのは――確か、側妃様が亡くなられた後でした」
「――――ッ!?」
それを聞いた途端、リューリックを再び激しい頭痛が襲った。
レイニスの時は、記憶の扉を叩いたような痛みだった。しかし、今回はその扉を、強引にこじ開けようとする、そんな感覚。
――しかし、その扉は確かに開かれた。
痛みとともに、記憶にかかった靄が晴れるように、鮮明に思い出されたのだ。
リューリックの母である正妃は、侯爵家の生まれだ。
その侯爵家は、アイセルヴェン王国の外交を一手に担う家であった。そのため正妃も幼いころから外交に関する教育を受け、当時王太子だった現国王と婚約し、その後正妃になってからも、実家の侯爵家と協力して外交に当たっていた。
そのせいで正妃は外出することが多く、リューリックが生まれた後もそれが変わることはなかった。
愛がなかったわけではない。ただ会う機会が少なすぎただけだ。
そこでリューリックの面倒を見ることにしたのは、レイニスの母である側妃だった。
約1年後に生まれたレイニスとともに、側妃はリューリックを実の子供のように大事にしてくれた。
本来王妃は直接子育てするものではないが、正妃ではなかったこともあり、レイニスを自分で育てたいと申し出ていた。
そんな側妃に、リューリックが懐かないわけがなかった。
リューリックもまた、弟としてレイニスを大事に思っていた。
一緒に遊んだり、勉強についてもよく助けていた。
レイニスが言っていた昔のこととはこのあたりのことだろう、と思い出したことで推察することができた。
大事に思っていたのは、婚約者となったアリシアも同様だった。
婚約以前から親交はあったが、婚約してからはより頻繁に顔を合わせ、より親密になっていった。
一緒にいる際はアリシアを注意深く観察し、様子の変化を見逃さないようにもしていた。アリシアが不調になったときには、我ながらよく気づいていたと思う。
当時のリューリックもアリシアへの恋心は持っていた。アリシアとの日々を幸せにも感じていた。
まさに前世の男のごとく、リューリックは真面目に誠実に生きていた。
それが変わったきっかけは、まさにアリシアが言う通り、側妃が亡くなったことだった。
若くしてのあっけない死。そのことに、リューリックの心は耐えられなかった。
心が、弱かったのだ。
側妃が良くしてくれたとはいえ、実母に会えないという寂しさや不安を、心の奥底に宿していた。本人の性格からきたところもあろうが、それでも精神は安定しているようで、そうでなかった。
それは薄氷の上に立っているようなもの。
そのリューリックを支える氷ともいえる側妃が亡くなったのだ、そうなれば支えられていたリューリックは当然水に沈む。
落ちた結果が、あの放蕩というわけだった。
彼はまた、大切な人を失うことを恐れたのだ。だから、多くの女性と薄い関係を保つということで気を紛らわせようとしていた。
根本的な解決にはなっていないが、弱いリューリックには逃げることしかできなかった。
大切な人――アリシアを失いたくない。
その思いで、彼はあえてアリシアを遠ざけた。
リューリックは泣いていた。
思い出すごとに、後悔や自責が心の中で渦巻く。
感情が激流となり、それが涙として外にあふれていった。
頭痛などとうに忘れていた。
「アリシア嬢……すまない。本当に、すまなかった……」
嗚咽を隠すこともできず、ただただ謝罪の言葉を漏らす。
自分が悪いのだとは分かっていた。
だが、自分の弱さが原因でアリシアの心や尊厳を傷つけた。このようなこと、許されるわけがない。
逆に、レイニスは強かった。
実母が亡くなったにも関わらず、それを引きずることなく前を向き、リューリックの代理までして見せたのだ。
そのことが自分の弱さを更に痛感させる。
レイニスに合わせる顔がない。
アリシアは黙っていた。
リューリックが落ち着くまで待ってくれているようだった。
こんな情けない姿は見せたくなかった。でも、今はその優しさに甘えていたかった。
これでおそらく最後だろうから。
しばらくして落ち着きを取り戻したリューリックは、泣き腫らした目でしっかりとアリシアを見た。
そして、深く頭を下げる。
「見苦しいところを見せて、申し訳ない。そして改めて、この度は本当に申し訳なかった」
精一杯の誠意を見せる。
赤くした目を見せることはしたくなかったが、今さらだった。
頭を上げたリューリックは、話はそこで終わりだろう……と思っていたのだが。
「私も、最近の殿下の様子を何度か見せて頂いていました」
アリシアは謝罪に返答するでもなく、再び話し始めた。
そう言ったアリシアの目は、とても真剣であるように見えた。
リューリックの身体が思わず強張る。
様子を見ていたとは。いったいどのような評価を下されているのだろうか。
もうそれほど関係ないだろうとはいえ、やはり彼女からの評価は気になる。
固唾をのんで次の言葉を待つ。
そこでアリシアは、ふっと表情を和らげて。
「やはり、昔の殿下が戻ってこられたようでした」
優しい表情だった。まるで、罪人に寛大な心でもって許しを与えるかのような、そんな慈愛がこもっているように見えた。
先ほどの言葉と近いようであるが、その表情から皮肉のようなものはリューリックには感じられなかった。
正確には、昔のリューリックが戻ったというのは、正しくない。リューリックの記憶が戻ったのはつい先ほど。
ただ、前世の記憶の人物とリューリックの性質が似通っていたというだけだ。それを偶然で片付けるのは、少し無理があるかもしれないが。
リューリックがその言葉と表情に返事できないでいるうちに、アリシアはさらに言葉を続ける。
「婚約したころの誠実で優しい殿下のことを、私は想い慕っていました」
「……!」
この言葉もまた、リューリックを驚かせた。
元は、政略結婚だ。お互いに想い合える相手と結婚できるとは限らない。
それでもアリシアは、過去の自分を肯定し、好意を寄せてくれていたというのに。自分の行為の愚かしさを改めて理解する。
そんな思考は一瞬。この場面で無意味にそんなことを告白するはずがない。それまでとは違って引きずることなく気持ちを入れ替える。
「私のこと、陛下が持ち込まれた再婚約のこと。どう思われますか? 殿下の口から聞かせていただきたいです」
本題が戻ってきて、明確に答えを問われた。
リューリックの脳裏を様々な考えが駆け巡る。
ここで本心を打ち明けてしまっていいのだろうか。不貞を働いた身から想いを伝えるなど、不誠実なのではないか。――こんな私が、わずかに見えた光に、期待してしまってもいいのだろうか。
覚悟を決めて、呼吸を整える。
「私は――幼いころ、貴女のことを想っていた。一時期は自暴自棄になってしまったが……今の気持ちは昔と同じだ。もし願いが叶うとしたら、私はアリシア嬢とともに人生を歩む権利を望む。……貴女は、どうだろうか」
――結局、偽りなき本心を語ることこそが、誠実さを示すことであろうと考えた。
心臓は破裂せんばかりに脈打っている。
想いは全て込めた。あとは、天命のごとき彼女の返事を待つのみ。
それは、呆れか、失望か、――それとも。
「今の殿下からその言葉が聞けて、とても嬉しいです。――これから、改めてよろしくお願いいたします」
承諾の言葉とともに贈られた、弾けるような華やかな笑顔。
アリシアのこのような美しい笑みを見るのは、いつ振りだろうか。
重くのしかかっていたものがふっと消えたようで、全身から力が抜けそうになるリューリック。
彼女の笑顔を見て、言葉の意味を何度も反芻し、ようやく実感が湧いてきて、心の底から喜びが溢れてくる。
抑えきれない喜びは、これまでの涙とは違う、嬉しさによるそれとともに流れていく。
もう二度と、この笑顔を絶やさぬように。
何があっても、誠実に生きていこう。そう決意した。