第3話「ウラハラな裏表」
「はァいこちら地獄1987地区御用達美食酒場腐乱死体ええ……はい? ええ……」
受話器を手にしたシャローネの挙動に酒場にいる一同の視線が集中する。そうして目線をちらと中央の方へ移した彼女は受話器から顔を話して声を張り上げた。
「ここに出来損ないの大天使マリウス様はいらっしゃって?」
「わッ、私だ!」
その呼びかけに、また一層身体をよじるようにして応じたのは他でもない括りつけられたままの彼。そんな反応を受けて、シャローネはがちゃんと受話器を置く。
「天界の軍団長様からよ。あなたの罪状について再度の検討をしたいからお迎えが来るんですって」
はァ、と。うんざりという所感を隠しもしないシャローネの表情に相対するようにして、天使マリウスの顔はぐんぐんと血の気を取り戻し、その双眸には生き生きとした光が宿るようだった。そのようにわかりやすく歓喜した彼の喉元からよろこびの叫びが上がろうという時に、こちらもまたさもうんざりとした様子で舌打ちをしたリンクスが残り僅かになった酒瓶の中身を飲み干した後に呟く。
「マジでおめでたい馬鹿野郎だな。消されるんだぜ、あんた」
「……何だと」
「ハ。まさか本当に沙汰が改められると思ってやがんのかよ?」
いよいよ笑えもしねえぜ。と耳をほじるリンクスの言葉に、物々しい表情のエミリオはため息を落とした。
「……堕天した天使の方が天界へ戻る方法というのは、先にお伝えをした通り、ありません。ですから致し方なしにこの地獄で働き口を見つけてやっていこうとする方々もありますが……残念ながらそれを屈辱として受け入れることができずに自ら死を選択する方を多く見てきました」
「つまりはあれだぜ。生かしておいても仕方のねえ天界のツラ汚しは責任をもって直々にツブしにきてやろうって魂胆なんだろうよ」
しょうもねえメンツにこだわるあちらさんらしいじゃねえの、と。リンクスはまたげたげた笑う。矢継ぎ早に紡がれる絶望の展開に、一瞬は赤らんだマリウスの表情はみるみるうちに青ざめていった。その様子を見ながら、エミリオはまた悲壮感ただよう溜息を落とす。
「こうなれば、判断はあなたにお任せしますよ。私たちは止めません。もとより、天界の方々のことをよく思ってはいないというのが本音ではありますから」
いささか冷たさを宿したエミリオの言葉に、すっかり意気消沈するマリウス。先ほどまでの勢いはすっかりなりを潜め、シャローネに水を掛けられた時と同じ体勢に戻って項垂れてしまった。
「そもそもだぜ? この野郎は何をやらかして堕とされたんだ? あちらさん何か言ってなかったのかよ」
青ざめたマリウスを見下ろしながらリンクスはシャローネに問いかける。彼女はまた気だるげな様子で髪の隙間から顔を出す蛆をくすぐりながら応じた。
「姦通罪だそうよ。畏れ多くも正天使様の奥方に手をお出しンなったんですって」
それを聞いた途端、口に含みかけていた酒を噴き出しながらまたリンクスは側の机を叩いて笑った。
「なんだコイツ! 上官のオンナ寝取って堕ちたってか!」
お綺麗な天使様がよ、というリンクスに乗じて周囲の客たちも腹を抱えて笑い出す。破廉恥なのはどっちだ、などといった野次も飛び交う。しかしそうなった時、今までで一番大きなマリウスの怒号が空間に穴をあけた。
「うるさい……!」
一瞬でシンとなる酒場の中心。それは彼のその声が、真に心の底から発されたものであったためだろうか。怒りのために震える調子をそのままにマリウスは言葉を続ける。
「貴様らなんかに、俺と彼女の何がわかる……!」
興奮から呼吸が荒くなっているマリウス。そんな彼の様子を、周囲の客らはひどく興覚めしたというような視線で眺めるしかない。致し方ないとばかりにシャローネが口を開いた。
「わかりゃしないわよ。何も、誰にも」
今さら何をとばかりに投げつけられた文句に、黙り込むマリウス。続く形でエミリオが語り掛ける。
「本当のことなんて、知るものは誰もいないんです。あなたのおっしゃった通りにね」
さて、と呼吸を整えたエミリオは腰に提げたポーチの中からくたびれた羊皮紙を取り出してマリウスの膝に乗せた。
「これはあなたへ。1987地区の住民となるための誓約書です。その気があれば血判を押して宣誓を。そうでなければ……まあ、それもまた」
そんなようにほくそ笑むようにして、エミリオは踵を返すと、腕と肩をごきごき鳴らせて回しながら、悠然と店の入り口に向けて歩き出す。
「旦那、血の気の多いのを連れて後から向かうぜ」
ジョッキの酒を飲み干して不敵に笑うリンクス。カウンターに肘をついたシャローネは、半ば呆れたというような悩ましいため息を落とした。
「建物を壊すのはほどほどにして頂戴よ、プロフェッサー」
エミリオは呼びかけに応じず、片手を上げてドアベルを鳴らし出ていった。店の外を吹く風は、いつもと比べると荒く、鋭い音をさせながらしかしどんよりと重く感じられた。