第2話「翼の折れた闖入者」
その時間、様々に労働を終えた1987地区の住民たちによってパブ「腐乱死体」は賑わいを見せる頃だった。しかしながら、今日は普段にも増してやんややんやと下品な笑い声や野次がうるさい。その原因となっているものは店の中央の柱に括りつけられているのだが、既に思い思いの歓迎(暴力の意である)を受けた後らしく、白い翼はおかしな方向に曲がり、意識も朦朧としているのか首もだらりと前傾に垂れ下がるような姿勢のまま動かなくなっていた。
そんな様子の彼に対して、取り囲むようにした者たちはけたけたと笑いながら空き瓶や残飯を投げつけつつ、やれ腹を裂いて腸を引きずり出そうだの頭を割って脳漿を吸おうだのといった冗談とも何ともつかないことを言い出す。すると、そんな荒くれ者たちの間をぬって細いピンヒールの踵で床を弾きながら悩ましいシルエットが柱へ近づいてくる。荒くれどもの中からは歓声と口笛があがった。
「お客さんご機嫌いかがかしら」
彼女は片手に携えていた木のバケツいっぱいの水を柱に括られた彼の頭へぶちまける。また荒くれの群れから高い口笛が上がった。冷や水の刺激に意識を取り戻した彼は低い唸り声とともに頭を上げようとするのだが、ままならずまたぐったりとしてしまう。
丁度そんなときに、入口のドアベルをがらんがらんと鳴らしてリンクスが入って来た。
「ようママやってるかよ」
「すっかり黙っちゃって、張り合いがないったらないわ」
はあ、と悩まし気な溜息を落とす彼女がこの店の女主人、シャローネ。蒼白い小さな顔を隠すように流れるしっとりとした髪の間には時折うぞうぞと大きな蛆が見え隠れし、それをして彼女もまた美しいながらにまごうことなき地獄の住民であることを示していた。
依然ぐったりとしたままの彼を視界の端にとらえて、聞こえるような音で舌打ちをしたリンクスは底の厚い靴でのしのしとすぐ横にまで近づくと、ひどく無遠慮にその顎を蹴り上げた。
「おらよ、おはようさん」
鈍い音とともにうめき声が上がって、彼の口からどろりとした血が吐き出される。そのまま彼はまたげほげほと咽返ったものの、今度はその切れ長の瞳でぎろりとリンクスを睨み上げた。しかし睨まれた方のリンクスはべえと舌を出しながらしゃがみ込み、彼の額に張り付いた前髪を掴み首を持ち上げる。
「あんたも、天界の偉いさんだったなら、どんな場所にも法律みてーなもんがあることなんざ知ってらあな。この地区で抜き身の鉄剣振りゃこうなる。あんたら天使様がさんざ見下してくれちまってる俺らの国土世間にも、守られる安全てえのはあるのさ。そういうわけだ」
「くそくらえ悪魔ども!」
首を持ち上げられた状態で噛み付くように精一杯の怒号を上げる彼。しかしリンクスは更にまた愉しそうな表情で彼の前髪を掴んだまま左右に揺さぶった。
「おうおうお上品な口からくそときたもんだよ」
「リーンクス……プロフェッサーのお越しまでお待ち」
最早括りつけられた彼をおもちゃとして扱いはじめているリンクスに対して躾けるような口調になるシャローネ。リンクスの側はちぇ、などと言いながら口先を尖らせて彼の頭を解放する。
「やあ、ママ。どうも」
ドアベルの音がして、店の入り口にはエミリオとアントーニョの姿。彼らの来店に、また客の荒くれ連中は手を振りながら待ってました、などとはやし立てる。
「いらっしゃいプロフェッサー。こっちよ」
シャローネはそう言って、依然威嚇するような目線をあちこちに向けるぼろぼろの天使をあごでしゃくった。エミリオはゆっくりとした足取りでリンクスの隣あたりまで来ると、手負いの獣を相手にするようにゆっくりとしゃがみ込みながら顔を近づけて微笑む。
「プロフェッサー気を付けてください! 危険ですよ!」
彼の背後からアントーニョがそんな声をかけるが、エミリオは穏やかな調子を崩すことなく傷だらけの彼へ語り掛けた。
「私はこの十三地区の治安維持に関する責任を負う立場の者です。報告によると、あなたはこのたび堕天されて住民に取り囲まれた結果、危険物を振り回して地区の安全を脅かしたということですが、こちらについては間違いありませんね」
本人は事情聴取と言おうか、事実確認の目的での語り掛けなのだろうが、如何せんその山羊頭の威圧感はすごいもので、食い入られるようにした天使の彼はすっかり縮み上がって歯も噛み合わない。
「あ、悪魔め……」
そんなように毒づくのが精いっぱいの彼の代わりに、隣のリンクスが奥歯をほじりながらエミリオに応じた。
「それで間違いないぜ旦那」
「ありがとうございます。ちなみに負傷者の報告は受けていませんが、それも間違いないですか?」
「応さ。怪我人が出る前に俺がのしちまった」
「それはお手柄だ」
きひひ、とまた下卑た笑いを漏らすリンクス。穏やかな微笑をたたえたエミリオとの対比は一層不気味で、もはや掠れた声しか出ない天使の彼の顔いろはますます悪くなっていった。
「ではこの状況から……あなたが天界から堕とされたことは否定しようがないと思うのですが、お名前や階級などをおうかがいしても?」
「悪魔に名乗る名などあるものか!」
必死な様子で啖呵を切る彼に対し、またエミリオは顎髭をさすって少々困ったという顔をする。
「なるほど。ですが残念ながら、ご存じと思いますがこの地獄は出入り口に蓋をされて久しいのです。通気口のような細い通路は、今日では目下罪をおかした天使の堕天と、地獄行きの沙汰を下された人間の魂送りに使われるのみ……おそらくあなたが天界に戻れる路はないのですよ。これから地獄の住人として生きる気力がおありになるのなら、どうぞ情報提供にご協力を」
淡々とした口調で事実を告げるエミリオに対して、天使の彼はやっとイニシアチブを握れると言わんばかりに嘲笑まじりの吐息を形のよい鼻から漏らした。
「ふん、馬鹿を言うな! 俺は天界の裁定官に言われたのだ。地獄の軍団長の首を持ち帰ることができれば罪状を消して座に帰らせてもらえるとな! 貴様ら悪魔がいかに天界の治世の真似事をしようが、正義はいつもこちらに」
あるのだ、と。そう口上をきめようとした先から酒を噴き出したリンクスの高笑いに、彼のよくとおる声はかき消されてしまう。
「おーいおいおい、なんてこったよ!」
机を叩きながら腰を折り曲げて、たまらないという具合にリンクスはげたげたと笑い転げる。
「何だよこいつ、てめえが棄てられたこともわかってねえんでやんの!」
周囲の客たちもつられて腹を抱えて笑い出す中、エミリオだけは哀れそうに天使の彼を眺めた。
「……お生憎ですが、あなたは放逐されたのだと思いますよ。ここにはそんなような天使であった方もたくさんいます。どんな罪によって堕とされたかはわかりませんが、働き口の世話なども不可能ではありません。ですから、ね。そのあたりはどうかご安心を」
変わらない穏やかで優しい口調をそのままに語り掛け続けるエミリオに対し、混乱した天使の彼は声を荒げて騒ぎ立て始めてしまう。
「でッ でたらめを言うな! そんな、そんな戯言を誰が信じるものか! 俺を貶める悪魔め!」
ぎしぎしと柱と縄を軋ませて暴れる天使の彼に、おやおやと困り顔のエミリオ。リンクスをはじめ荒くれものたちは彼のそんな様子をまた指差して更にげたげたと笑う。
しかしながら、そんな様子をエミリオの背中ごしに眺めていたアントーニョは、ひどくうんざりとした表情のまま吐き捨てるように言った。
「そうやってあんたたちはいつでも自分たちが一番お綺麗で正しいと思い込んでる傲慢な連中なんだ」
苦々しく呟かれたその言葉は確かに当人の耳に入り、彼の鋭い視線はアントーニョの姿をとらえる。
「……お前、もとは人間だな」
アントーニョの小さな体躯は、彼が地獄に堕ちて間もないことを象徴するものだ。それを読み取った天使の彼はやれやれとばかりに、哀れで矮小な生物に向けるような冷たい言葉をかける。
「天界入口で裁定を受けたんだろう。それによって地獄に堕ちたとなれば、どうせ生前ろくなことをしていないつまらん奴だったということだろうに」
ふん、という吐息交じりに放られた言葉は、少年を激昂させるには十分なようだった。
「ああそうさ! あんたたちの審美眼ならきっとそうだ。けど悪いね、僕はここが気に入ってるんだ! 薄気味悪い天界への門を開けていただかなくてよかったよクソ野郎!」
よほど頭に血がのぼったのか、一息に怒鳴り散らすようにしてアントーニョはそのまま店の出口へ向かって駆け出し、去って行ってしまう。
その背中を眺めて、深いため息を落とすエミリオ。
「あの子は、人としての生を自ら終わらせてしまったのだそうですよ」
「……そんなところだろうな。まったく思慮の足らない人間らしい」
「それは違います。あの子にはきっと色々な自由があった。けれど目に見えない鎖が彼の首も体も締め付けていってしまったんですよ」
あなたの方こそいささか想像力が足りないようだ。と、そう言葉を続けたエミリオに、酒を煽っていたリンクスも同調する。
「ああそうさ何もかも、おたくら天界の連中が地獄の蓋を無理に閉めやがったから。お陰で地上の奴らのぼやきが毎日聞こえてうるせえったらねえ。“息が詰まりそうだ”ってな」
「誘惑や欲望がなければ人間が正しく生きられるというお考えだったのでしょう。結果それが作り出したものはシンプルなディストピアだったのでしょうね」
揃って責め立てるような口ぶりになるエミリオとリンクスの態度に、拘束されたままの天使は更に居心地の悪そうな表情でまたふん、と息を吐いた。
「天界入口の、死者に対する裁定も随分乱暴になったいう話も聞きますよ」
「それは地獄行きの沙汰が下されるような自堕落な生き方をしてきた者が大勢来るためだろう。清廉にして潔白な生を送っていれば自ずと天界への門は開かれるものだ」
「お言葉ですが、あなたがたのおっしゃる清浄であるということがよい生き方であることにはならないでしょう」
「ふん、悪魔の語りそうな詭弁だな」
そんなことはどうでもいいからこの縄を解けというのだ、とまた暴れ始めてしまう天使の彼。すると、そんな時にまた店に備え付けられた電話のベルがやかましく鳴り響いた。