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地獄界1987地区  作者: 上田きつら
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第1話「掃き溜めの哲学者たちへ」

 天に眩き聖都あり、地に穢れた魔窟あり。そのはざまの地上に人の住処はありて。

 天上には人の世の清らかさと善、善行の管理を行う世界があり、地下深くには人の世の愚かさや醜さや悪行、悪そのものの観測を行う世界がある。

 それは全体として人の住処の善悪を調律するように、双方が意見を交わし時に争い時に労わりあうなかで天秤の平衡を保ち続けていた。

 けれども千年ほど前に、「人の世の清浄のために」という理由で天上の民は地下の民との交流を断絶。一方的に武力を行使して、地下の世界と人の世界を繋ぐ門を破壊してしまった。

 その後、人の世界と天上の世界がどうなったのかを、地下の世界の者たちが知るすべはない。しかし彼らは、いっそそれでよかったのだ。


・・・


「お疲れさまでした。それではいつもの、に行きましょうか」

 立派な二本の角を生やした山羊頭の男がやんわりといった風に話しかける少年の首には、くっきりと痛々しい麻縄の痕がこびりつくようにしてある。しかしその彼はその病的極まる見た目とは裏腹の快活な笑顔を宿して、半ば跳ねるような調子で応じた。

「ありがとうございますプロフェッサー! 今日は、また大漁でしたね」

「ええ。これほどの黒バエの蛆が手に入るとは思っていませんでした」

「ママが喜んでくれますね!」

「そうですね。きっと今夜は彼女の奢りでたくさん御馳走をいただけますよ」


 周囲一帯に常に腐った肉とし尿の臭いが蔓延し、天は鮮血のように紅く流れる雲はそれが雲であるのか焼焦げた煙であるのかわからないほどに黒い。悪夢のような風景ではあるものの、そこに生きる人々の多くは、生命力に満ちた表情をしていた。

 地獄界 1987地区。屈強な肉体を持った山羊頭の男、プロフェッサー・エミリオの管轄下にある区域だ。この地区は退廃と暴力に満ちた地獄界の中にあって、住民の暮らしを守る機構がよく働いている。かつて千年の昔に、地獄の入口に蓋がされてしまってからというもの、天界を追われ堕天した天使や、地上での生を終え天界入口での裁定により堕とされた人間が時折細い通気口のような孔から転がり出てくるのだが、地獄でのゆくすえに希望を持てないものは自らここで朽ちることを選ぶことが多い。(そのような者たちの残骸は、自然の摂理に則って無惨にも腐り果てていってしまう)

 首に麻縄を提げたこの少年 アントーニョもまた、地上でその生を自ら断ち切ったことで、裁定により地獄へ落とされた。しかし、彼はこの魔窟において生前よりもよほど生き生きと毎日を送るに至っている特殊な人間だったのだ。

「人間として死んでから間もない君には、まだこの辺りの臭いはきつくありませんか」

「いえ! とんでもないです。僕はここに来た日から、死ぬより前にいた場所よりもずっと息がしやすいと感じていますよ」

 問いかけに対してはきはきとした様子で応じる少年に、山羊頭のエミリオは大きな歯をむき出しにして笑う。

「おかしな子だ。しかし、それは何よりだ。とてもいいですね」

「はい!」

 軽い足取りで二人が向かう先にあるのはこの1987地区の中心部。住民の唯一の娯楽施設であるパブ「腐乱死体」だ。この酒場は、陰気で口が悪いが美人なママ目当ての客足が絶えない。

 

今日も街角の死体処理の仕事をこなした彼らの抱える袋には、時間経過によりぐちゃぐちゃに腐った死体の上を這いまわるクロバエの蛆がいっぱいに詰まっており(これはママへのお土産となる)、これをして彼らは廃油の臭いのする酒と血生臭い肉塊のディナーにありつくことになる。

 道の先にあるしあわせな晩餐を思い描いて更に足取りが軽くなるアントーニョ。しかしそんな彼の目の前に、ばさばさと大きな羽音をさせて骨ばったシルエットが舞い降りた。


「よう、旦那、面白いニュースだぜ」

 

やや焦点の定まらない虚ろな三白眼をぎょろりとさせて鱗に覆われた翼をたたむ男の名はリンクスといって、かつては天界との武力抗争にも駆り出された“やり手”であり、今はエミリオの右腕として1987地区の治安維持をつとめている。

「どうしました」

「まぁた天使が堕ちてきたんだと」

 酒臭い吐息を振りまきながら下卑た笑みを宿してそう口にするリンクスに対してエミリオは半端に伸びた顎髭をさすりながら鼻から長い息を漏らした。

「今日日珍しいことでもないでしょう」

「それがだぜ旦那、聞いて驚けよ」

 きひひ、といった掠れた笑い声の後に、またリンクスは得意げな様子でわざとらしくひそひそという身振りで言葉を続ける。

「勲章もちの、やんごとないご身分であられる将官サマらしい」

「おや」

 それはなんとまあ、とエミリオは感嘆ともいえる反応を示しながら腕を組みなおした。すると、それに呼応するようにしてアントーニョがわかりやすく不機嫌そうな表情を見せる。

「……僕、天使ってやつは大嫌いですよ。あいつら、いつだって自分たちが一番賢くて尊いと思ってる。自分たちは万能で、全知全能なんだと。まったく、反吐が出るったらありません」

 いがいがとして様子を隠さないアントーニョの様子を、エミリオは笑った。

「そう嫌うものではないですよ。この世界の“本当”を知るものなど誰一人としていないんです。誰しもが真理に対しては等しく無知で愚かであることだけが真実なんですよ。そう思えば、彼らのその根拠のない全能感なんていうものはいっそ滑稽でかわいらしくすらあるでしょう」

「……僕はプロフェッサーのお考えには賛成です。ただ、かわいいなんて思えない。あいつらの傲慢さは、それがそのまま裁かれて然るべきものなのに」

「それは、確かにそうかもしれません。ただ君がそれを考えて得をすることはないでしょう。ならば考えない方がいい。水たまりばかりを眺めて虹を見ないなんてまったく損だ。君は賢いのだから、どちらでもいいことにこだわる癖は直していったほうが楽しい余生を送れるはずですよ」

 うふふ、と笑いながらそんなことを説くエミリオに、アントーニョの方はやや釈然としない表情のままではあるが、しかし敬愛する彼の言葉を無碍にするわけにもいかず、はい、と落ち込んだ声のまま応じた。

 その返事を頷きながら聞いたエミリオは、退屈そうに痰を吐いているリンクスを呼び止める。

「さてリンクス。私たちももとよりパブへ向かうつもりでした。先に行ってママへ伝えてくれませんか。すぐにうかがいますと」

 呼びかけられた側のリンクスはまた虚ろな目をぎょろりと剥いて、同時にばさりと大きな翼を広げた。

「応よ旦那。待ってるぜ」

 彼のつま先が地面を蹴ると、風が逆巻いてその大きなシルエットが赤黒い空に舞い上がる。

 蛆の入った袋を担ぎ直したエミリオは、未だ浮かない顔のアントーニョの背中を軽く叩いた。

「さあ、さあ、行きましょう。今日のおつとめはまだ終わりではないですよ」


Noteと並行して連載をしている創作小説です。全5回の連載を予定しています。

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