序章
ごく普通の高校一年生十五歳。
それが私。
そして、その私白水彩夏は三日前に大切な友人を失った。
幼馴染で今年の四月に同じ高校に入学した蓼原みなみ。
雨の中で起きたスリップ事故に巻き込まれ即死だった。
彼女がいなくなる。
みんなは、「悲しんでいても死んだみなみちゃんは帰ってこない。だから、残された者は彼女の思い出を胸に前を向いて歩かなければならない」と言う。
もちろん私だってそんなことはわかっている。
でも、言葉で言うほどそれは簡単なことではない。
今日。
「行きたくないのはわかるけど、あとで後悔するから、みなみちゃんとちゃんとお別れをしてきなさい」
母親にそう言われてやってきた通夜には同級生が大勢来ていた。
当然だ。
みなみは性格がねじ曲がっている私と違ってクラスの人気者だったのだから。
私は同級生が集まっている一画とは離れた席に座った。
理由は特にない。
ただそうしたかっただけ。
淡々と式は進み、焼香が始まる。
私の番がやってきた。
私を見つける写真の中のみなみは笑っている。
「……バカじゃないの?あんたは死んだのよ」
私は心の中でそう言った。
もちろん、返事などない。
いや、ないはずだった。
「……彩夏」
私を呼ぶその声は突然やってきた。
「彩夏」
その声はもう一度私の名を呼ぶ。
懐かしく、そして、もう一度聞きたかった声。
間違いない。
みなみの声だ。
「みなみ」
私の呼びかけにその声が応える。
「悲しませてごめん。彩夏」
「いいよ。気にしないで」
「それで、彩夏。お願いがあるの」
「何?何でも言って」
「彼に会って話を聞いてほしいの」
「だ、誰よ。彼って」
「すぐにわかる。約束して。必ず会うと」
「わかった。約束する」
「よかった。じゃあ、またあとで……」
「白水さん。白水さん」
みなみとの会話はそこで終わり、私を呼ぶみなみのお母さんの声で私は我に返った。
「大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
涙をぬぐった私が言えたのはそれだけだった。
もちろん、本当は「みなみが話しかけてきた」と言いたかった。
だけど、そんなことを言っても信用してもらえるわけではないし、そもそも冷静になって考えれば、死んだみなみが話しかけてくるわけがない。
さっきの声は、みなみに対する私の強い思いによってもたらされたただの幻聴。
私は自分にそう言い聞かせた。
「気をつけて帰ってね。今日は来てくれてありがとう」
みなみのお母さんは優しい笑顔でそう言った。
……でも、それはすべて偽り。
……心の中では、なぜみなみが死んでこの子が生きているの?と思っているに違いない。
私は心にある暗い思いを隠して小さな声でそれに応えた。
「失礼します」
そう。
いつもと同じ。
言いたいことを言えず、グズグズとつまらないことばかり考えている人間。
それが私。
みなみもよくこんな私と仲良くしてくれていたものだ。
そうして、しばらく続く、いつもの自己嫌悪。
でも、これだけは言わなければならない。
そのためにここに来たのだから。
「さようなら。みなみ」
私が外に出ると、止んでいた雨がまた降り始めていた。
……この雨がみなみを殺したのだ。
私は心の底から天を恨み、雨空を睨みつけたが、もちろん私の思いが届くはずはなく、ただ濡れるだけだった。
「はあ」
またつまらないことをしたと小さくないため息をつき、その場を離れようとしたそのときだった。
「白水さん」
それは私を呼ぶ男の人の声だった。
ふり返る私の背後に立っていたのは同じ学校の制服を着た少年だった。
「僕がわかるかな?」
「……えっと」
少しだけ言葉に詰まったが、もちろん私は彼を知っている。
神崎淳一。
同級生のひとりだ。
だけど、私は彼と話したことは一度もない。
おそらくそれは大部分の同級生も同じだ。
無表情で親しい友人はひとりもおらず、生きていることをつまらなそうにしてひとり佇んでいる。
そんな印象しかない目立たない少年だ。
そういえば、みなみはよく彼と話していた。
「みなみ。なんで、あんなのと話しているの?もしかしてタイプなの?」
こう言って私はみなみをからかったことがある。
その時、みなみが何と言ったかは忘れてしまったけど、その後もふたりは時々話していた。
だけど、私は知っている。
みなみは彼が好きだったわけではない。
孤立している彼を見かねて親切心から声をかけていただけなのだ。
それがわかっていたのに、私はみなみにそんなことを言った。
そして、ここでまた自己嫌悪。
とにかく、彼にとってみなみはクラス内で唯一の話し相手であったのは間違いない。
だから、彼がここにやってきたとしてもおかしなことは何もない。
だけど、何で私に話しかけるの?
お互い失ってはいけないものを失った者同士、傷口を舐めあうつもり?
でも、悪いけど私はまっぴらごめん。
あんたとは、いや、あんたとだけはみなみの思い出を語りたくない。
たとえいなくなっても、みなみはこれからもずっと私のものなのだから。
「同級生なのだからもちろん知っている。それで用は何?」
八つ当たり気味に口にした私のかなり強い言葉にも神崎淳一は怯む様子はなく、それどころか笑みを浮かべてそれに応えたことに私は驚いた。
そして、その笑みは「あの無表情な神崎淳一が」と声に出してしまいそうなほど美しいものだったのだが、その美しい笑みを残した口がゆっくりと開けられ、そこから流れ出した言葉を聞いた私はさらに驚いた。
「彼女の声を聞いたかな」
「えっ?」
聞き違いかと戸惑う私に神崎淳一はある人物の名前を加えてもう一度言った。
「君は聞いたはずだ。蓼原みなみの声を」
「……彼に会って話を聞いて」
あの時、みなみは確かにそう言った。
だけど、それだけではその彼が目の前にいる神崎淳一だとは限らない。
でも、私がみなみの声を聞いたことを神崎淳一が知っているということは、そういうことではないのか?
いや、そもそも私は本当にみなみの声を聞いたのだろうか?
「あんたが言っている意味がわからない」
混乱した私がやっとの思いで口にしたそれは答えとしては意味不明なものだったはずなのだが、神崎淳一はなぜかすべてを理解したかのように頷き、教室では見せたことがないその笑顔を崩すことなくこう言葉を添えた。
「近くの喫茶店に行こう。そこでそれについて詳しく話す。君が聞いた蓼原みなみの声のことについて知りたければついてくるといい」
私はその言葉に引き寄せられるように頷き、すでに歩き出していた神崎淳一の後に追った。
大声で自慢することでもないのだが、清々しいほど何もない私が住む田舎町では、近くのと限定しなくても喫茶店といえば、私とみなみが放課後によく立ち寄ったカフェ「ムーン・チャイルド」を指す。
当然のようにその店にやってきた私たちだったが、目を合わせたこの店のマスターがちょっと驚いた表情を見せていたのは、おそらく私が見かけぬ男子とやってきたからだろう。
あれだけニュースになったのだ。
当然みなみが死んだのはマスターも知っている。
そんな状況でマスターがここに来た私たちを見れば、私を親友が亡くなった直後に知らない男子を連れてやってくる実に節操のない女だと思うのは仕方がないことではある。
でも、本当はそうではない。
こんな男とみなみとの思い出の場所であるここに来たくはなかったのだが、色々事情があってこうなったのだ。
どのような言い訳をすればそのことをわかってもらえるだろうかとウジウジ考えていた私にマスターが声をかけてきた。
「お通夜の帰りですか?」
「……はい」
「白水さんはいつもの紅茶でよろしいですか?」
「……はい」
「それで、こちらの好男子は何になさいますか?」
結局いつもどおり何も言えぬまま終わってしまったものの、サイコロは悪い方向には転がらず一安心した直後、私の耳にとんでもない言葉が飛び込んできた。
好男子。
どこをどう見たら神崎淳一が好男子になるのかと一瞬私は耳を疑ったものの、すぐに思い返す。
……いやいや、確かにあの笑顔だけを見れば好男子に見えなくもない。
……でも、そうなると、やはり私がいやらしい気持ちで神崎淳一をここに連れてきたとマスターは勘違いをしているのではないのか。
一度は落ち着いた心臓の鼓動が再び早くなる。
だけど、小心者というだけではなく、意地っ張りでもある私は心の中に充満した不安な気持ちなどおくびにも出さず、頭の中からひねり出した言葉をサラリと口にした。
「ここは何でも美味しいけど、男の人はブレンドコーヒーを……」
実を言うと、これはマスターが一見さんによく言っている言葉だったのだが、ここで正直に白状する。
実は私もみなみもコーヒーはあまり好きではなかったので、それを注文したことは一度もない。
つまり、私は自分が飲んだこともない代物を他人に勧めていたのだ。
まあ、それはそれとして、何を迷っているのかは知らないが神崎淳一はまだメニューを睨みつけていた。
……さっさと決めなさいよ。グズ。
蔑むように神崎淳一を眺めながらそう思ったところで、私の心に小心者らしい不安がよぎる。
……もしかして、実は彼もコーヒーが嫌いだったのではないのか。
……それなのに、私があのようなことを言ったから……。
つまり、私の余計なおせっかいが神崎淳一を困らせているのではないかと思ったわけなのだが、それはとんだ取り越し苦労というものだった。
「……ハイボールを」
「ハイボール?」
唐突に飛び出してきたその単語にびっくりし、私は思わず復唱してしまった。
いうまでもない。
ハイボールとは私でも知っているカクテルの一種。
つまり、それはアルコール飲料であり、当然未成年である高校生が飲んでよいものではない。
マスターが苦笑いしながら口を開く。
「……この店のハイボールは美味しいし、人気もあります。ですが、高校の制服を着て、しかも同級生と一緒であるあなたのその注文に応えてしまっては、さすがにあとで色々と問題が起こりそうだ」
……まったくそのとおり。
私の心の声が聞こえたわけではないだろうが、マスターの言葉に小さな声で、「そうですね」と応じた神崎淳一はあっさりとその注文を取り下げ、あらためてメニューを眺めると、今度はすぐに口を開いた。
「……では、彼女お勧めのブレンドコーヒーを」
こうして、この話は何事もなかったかのように完結したのだが、ここは私もひとこと言わねばならない。
「あんた、なんてものを注文しているのよ。もしかして自分が高校生であることを忘れたの?」
もちろん、これは遥か高みから相手を見下した特上の嫌味である。
だが、私の渾身の嫌味であるそれを軽く受け流した神崎淳一が続けて口にした言葉で立場はあっさりと入れ替わる。
「どうやら君は僕が本当に見た目通りの高校生だと思っているようだ」
「どういうこと?」
「よく考えるといい。君はここにどのような理由でやってきたのかを?……もしかして、忘れているのかい」
ハッキリ言おう。
図星である。
……だけど、それはハイボールなんか注文するあんたが全部悪い。
忘れていたことを認めたくない私はここから顔を真っ赤にしながら言葉を尽くしてそれを否定したわけなのだが、ぞんざいの見本のような態度で応じた神崎淳一は私の言い訳を聞き終わると、いつのまにかテーブルに置かれていたコーヒーをひと口味わい、それからおもむろに口を開いた。
そして、彼が口にした言葉。
それは……。
「ところで、君は蓼原みなみと会いたいかい?」
もちろん、私は飛び上がるくらいに驚いた。
「み、みなみと会いたいかですって?」
「そうだ」
「それは会いたいに決まっているでしょう。でも、みなみはもう……」
「そのとおり。蓼原みなみは死んだ。だが、なぜか君は死んだはずの彼女の声を聞き、僕はそのことを知っている。本当に不思議なことばかりだ。そして、これからそのすべてについて説明するわけなのだが、そのために最初に知ってもらわなければならないのは本当の僕のことだ」
「本当のあんたのこと?」
「そう。先ほども言ったが僕は高校生ではない。それどころか人間でもない。いや、これはさすがに表現に問題がある。僕は生きた人間ではないと言った方が正しいか」
神崎淳一は自らが口にした言葉をそう訂正した。
だけど、その程度の説明で目の前で喋っている人間に実は自分は死んでいると言われても素直に信じる者などいない。
もちろん私だってそうだ。
「あんた、自分が何を言っているのかわかっているの?」
ここぞとばかりに畳みかける私だったが、神崎淳一は慌てる様子など全くなく実にあっさりとそれを肯定する。
「確かに、ここにこうして存在する僕がその言葉をするのは実に妙だ。だが、これは真実だ」
「とりあえず高校生でないというところは色々な事情でその可能性もあるからよしとしても、動き、そして喋る人間が自分は生きていないと言い張るのはどう考えてもおかしいでしょう。そこまで言うということは、もしかしてあんたはゾンビなの?」
もちろん、私だって神崎淳一がゾンビなどとは本気で思っているわけではない。
だけど、自分は生きた人間ではないなどとたわけたことをぬかす輩にはこれくらいのことを言ってやるべきなのだ。
「……ひどいな。ゾンビだなんて。傷つくよ」
「被害者ヅラして何を言っているの。あんたは自分でそう言ったのよ。自分は死んでいると」
「もちろん生きた人間ではないとは言った。それが事実だからね。でも、だからといって、そこで僕をゾンビだと断定するとは君は見た目以上に短絡的な人のようだね」
「じゃあ、あんたは自分を何だと言うの?」
「君は何だと思う?」
「聞いているのは私よ」
私は自分を小ばかにするようなその言葉にむっとし、さらに強い言葉を返すと、含み笑いをした神崎淳一がもう一度口を開く。
「では、問い直そう。生きてはいない。だけど、ゾンビでもない。そうであれば、君は何だと思うかな?」
「……死んでいるけどゾンビでもない?じゃあ幽霊?」
……しまった。
律儀に答えてしまった直後に同じ質問をされていたことに気づいたものの、後の祭り。
「そ、それで、あんた自身は自分を何だと言うのよ」
さすがに今さら口に出してしまった言葉をなかったことにはできないので、この黒歴史をすみやかに過去の世界に送るべく私が大急ぎで重ねた言葉に神崎淳一が答える。
「君がわかるような言葉で説明するのは難しいのだが、簡単に言えば僕は死者の代理人。つまり、現在は蓼原みなみの代理人となる。それから、もうひとことつけ加えることにする。それは君が聞いた蓼原みなみの言葉だ。……彼に会って話を聞いて。どうだい。さすがにここまで言えば、いくら君が猜疑心の塊でも僕の言っていることを信用するのではないかな」
……彼に会って話を聞いて。
もちろん私はその言葉を知っている。
だけど、なぜそれを神崎淳一が知っているのか?
みなみの死が現実である以上、答えはひとつしかない。
私はここでようやく理解した。
目の前にいるこの男神崎淳一は本当に死者の代理人なのだということを。
ここで私は先ほどの言葉を思い出す。
……君は蓼原みなみと会いたいかい?
その言葉が何を意味するのか?
疑う余地もない。
そして、そうであるのなら、訊ねることはひとつだけだ。
「それで、どうやったらみなみに会えるの?」
私の言葉に頷いた神崎淳一の口が開く。
「その言葉を口にするということは、僕が君と彼女を会わせることができると理解しているということだね。だが、蓼原みなみに会うにあたって君が守らなければならないことがある。まず、それを話そう」
一刻も早くみなみに会う方法が知りたいと気がせく私に異存などあるはずがなく、わかってもらえるように大きく三回頷くと、神崎淳一はそれを語り始める。
「ここで聞いたことを誰にも話してはいけない。もちろんそこには蓼原みなみも含まれる。いや、彼女にこそ言ってはいけない。それが守ってもらわなければならないことであり、君が蓼原みなみと会うためにはまずそれを守るという宣言をしなければならない」
……もったいぶって言うわりには普通だ。
私は心の中でその言葉を嘲笑した。
だけど、嘲笑しながらもその言葉を吟味した私はすぐに神崎淳一が口にしたこの約束にはおかしな点があることに気づく。
……もちろん現実にこのような場面に出会うのは初めてだけど、おとぎ話ではこの手の話は何度も登場する。
……だから、他人に話すなとだけ言われれば私だってすぐに納得した。
……だけど、神崎淳一はわざわざみなみの名前をそこに加えた。
……言うまでもなく、みなみは他の人とは違う。
……すべての事情を知っている、いわば当事者だ。
……そのみなみに自分が話したことを教えるなとはどう考えてもおかしい。
今度こそ簡単に丸め込まれないと心に誓い、私は口を開く。
「でも、さっきみなみはあんたに会えと言っていたわよ。それはみなみがあんたのことを知っているということでしょう」
「つまり、君は僕の言葉には矛盾があると言いたいのだね」
当然でしょうという言葉を飲み込み、私は小さく頷く。
「確かに君の言うとおり、蓼原みなみは本当の僕を知っている。そして、僕が彼女と君を会わせることができることも知っている。僕が話したからね。だが、彼女はもっとも重要な真実を知らない。僕が言っている蓼原みなみに話してはいけないこととはその重要な真実だ」
「重要な真実?」
「そうだ。そして、おそらくそれを知れば彼女は君に会いたいなどと言わなかった」
「……つまり、それはみなみにとって不利益なことなのね」
「いや。それはどうかな」
首を小さく傾けながら私の言葉を消極的に否定したあと、コーヒーを飲むために少しだけ間を開け、神崎淳一はもう一度口を開く。
「最終的には大きな痛みはあるかもしれないが、基本的には彼女は一方的な受益者だ。そして、君の言う不利益と呼べるものがやってくるのは実は君自身だ」
「私?私なの?」
それがあまりにも予想外だったために、私は素っ頓狂な声をあげてしまったが、神崎淳一は笑みもなく淡々とそれを肯定する。
「そうだ。そして、君も知っている通り、蓼原みなみは自身の利益のために友人が不利益を被ることを看過できる人間ではない」
「……だから、みなみに話していないと?」
「まあ、そういうことだ」
「……ちなみに私がその約束を破ってみなみに話をしたら?」
「まず君は二度と蓼原みなみに会うことが叶わなくなる。それだけでなく君自身にとんでもなくひどい罰が待っている。その罰は生きていることが辛くなるくらいのものだ」
生きていることが辛くなるような罰。
おそらくそれは脅しではなく本当のことだ。
だけど、ありがたいことにそれはルールを守れば回避できる。
性格がねじ曲がった私だが、決められたことを守るということに関しては自信がある。
だから、今はそれを無視することにしよう。
そういうことで、私の前にはふたつの道がある。
みなみには会うために神崎淳一が提示した条件を飲んで前に進む。
それがひとつ。
だけど、そうすると私の身にはもれなく何かよからぬことが起こるらしい。
死んだ人間と会うことができるのだから仕方がないのかもしれないが、やはり痛いのは嫌だ。
では、条件を拒否するというふたつ目の選択が正しいのか。
でも、そうなると二度とみなみに会うことはできない。
それも嫌だ。
いったい私はどちらを選ぶべきなのだろうか。
私は考えた。
考えてもわからないけれど私は必死に考えた。
そして、考えているうちに、私はある名案を思いつく。
「聞いてもいい?」
「もちろん。と言いたいところだが、君が訊ねたいことはおおよそ察しがつく。判断の参考にするために蓼原みなみの家族はどのような選択をしたかを聞きたいのだろう」
神崎淳一が口にしたもちろんから続く言葉は悔しいが正解と言わざるを得なかった。
正解を引き当てられた私の渋い顔をつまらなそうに眺めながら神崎淳一は続きの言葉を口にする。
「だが、残念ながら、この件について蓼原みなみの家族は部外者だ」
「なぜ?」
「死者が会える生者はひとりだけだからだ。そして、今回そのひとりとして蓼原みなみが選んだのが君だ。だから、君は自分の歩く道を自分自身の判断で決めなければならない。まあ、どうしてもというのなら、赤の他人の話はするが」
自分の計画をあっという間に看破された私の疑いに満ちた目と、それに相応しい表情に神崎淳一は大きなため息をつき、出来の悪い弟子がしでかした大失敗を眺める師匠のような微妙な表情を浮かべながらこう言葉をつけ加えた。
「疑っているようだが、こんなところで嘘を言ってもしょうがないだろう。今話したことは間違いなく本当のことだ。だが、君が疑うのも無理はない。話を聞いた蓼原みなみが躊躇うことなくもう一度会いたいひとりとして君を選んだときには僕自身も本当に驚いたのだから」
神崎淳一が驚いたのは本当のことだろう。
でも、私はそれ以上に驚いた。
……たぶん。
「……つまり、みなみはお父さんでもお母さんでもなく、私を選んだというの?」
「そういうことになる」
「たとえば、私が辞退したらどうなるの?その……家族の誰かにその権利を譲るために……」
「気配りができた素晴らしい申し入れだけど、残念ながらその願いは叶わない。なぜなら、もう一度会いたい相手は何があろうとも変更できない決まりがあるからだ。つまり、本人が望み、相手もそれを望めばもちろん再会できるが、本人が望んでも相手が拒否すればその機会は永遠に失われるということだ」
「みなみは……みなみはそれを知っているの?」
「もちろんそのことは蓼原みなみには話してある。そして、蓼原みなみはそれを知ったうえで君を選んだというわけだ。よほど君に会いたかったということなのだろうね。そして、君なら必ず受けてくれるという信頼も」
死んだはずのみなみに会うことができる。
それは、私だけではなくみなみも望んでいる。
しかも、みなみはそのために一度しかない貴重なチャンスを私に会うことに使ってくれた。
私にとってこれ以上の喜びはない。
当然、私もそれに応えなければならない。
だけど……。
「会ったあとに待っている罰ゲームってどのようなものなの?」
私の唯一の懸念がそれだった。
「相当怖いようだね。それが」
「失礼ね。怖いわけじゃない。ただ、どういうものか知りたいだけ。嘘じゃない。本当に嘘じゃないから」
神崎淳一の言葉にここでも私は強がって見せたが、言うまもなくもちろんこれは嘘である。
「わかったよ」
自分でもわかるくらいに自ら嘘をついていると宣言しているような私の怪しげな言動から神崎淳一も私が意地を張っていることにすぐに気づいただろう。
だが、どこまでも面倒な性格である私の相手をすることに疲れたのか、単に時間が惜しかったのかはわからないが、わずかにその言葉とともに大仰に両手を上げて降参のポーズをしてみせただけで神崎淳一はすぐに説明の言葉を口にし始めた。
「蓼原みなみと会うことによって君のもとにやってくる、君の言う不利益とは、君が心配するような罰ゲーム的なものではなく、どちらかといえば対価といえるものだ」
「対価?」
「そう。そして、その対価とは死者と会うことを承諾した者、この場合は君になるわけだけど、その者の寿命から一年を頂く」
寿命が一年短くなる。
確かにそれは死者との会話の代償に相応しい。
だけど、本当にそれだけなのだろうか。
「それだけ?」
心の声を口にした私のその言葉に神崎淳一は再び深いため息をついた。
「君はそれだけと言った。確かに君は若い。だから、君の年齢から考えれば寿命から一年くらい失われてもたいしたことではないように思える。だが、君の寿命があと一年なら契約を結んだ瞬間に君はこの世から消えることになる。そのことに君は思い至ったのかな」
もちろん神崎淳一が言われるまで私はそれに気がつかなかった。
そうだ。
そうなのだ。
平均寿命だけで考えればあと六十年は生きられると思っていたけど、実はそれというのは私がそう思っているだけで、一年どころか明日に死ぬことだってあり得る。
そうでなければ、みなみは死ぬことなどなかったのだから。
「ようやくわかったようだね。そして、もうひとつ僕は君に言わなければならないことがある」
「何よ」
「その一年というのは、彼女と一回会うごとに減らされていくものだ」
……一回会うごとに。
神崎淳一が口にしたその言葉は確かに耳には届いていた。
だけど、あまりにも予想外のものだったので、私はすぐにその意味が理解できなかった。
「……一回ごと?一回ごととはどういうことなの?」
「言葉のとおりだ。君はその気になれば何度でも死んだはずの蓼原みなみに会うことができる。もちろん対価は必要なのだが」
……何度でもみなみに会える。
一年分の自分の寿命と引き換えにみなみに会えるものの、それが本当の最後になると思っていた私にとって、神崎淳一が口にしたそれは実に喜ばしいものであったのだが、それとともにそこにはある問題が内包されていることにも気づいていた。
「どうやら君もそのことに気がついたようだね。そのとおり。それはいいことばかりではない。君は知らないかい?誰かが亡くなった直後にその家族もバタバタと亡くなっていく話。つまり、あれは自分の寿命が尽きるまで死者に会い続け、最終的には自分もそちら側の人間になってしまったという出来の悪い笑い話の結果なのだよ」
神崎淳一はそう言って笑った。
だけど、私は笑えなかった。
「当然ながら蓼原みなみは自分に会いに来る君が自らの寿命を削っていることを知らない。だから、別れ際に必ずこう言う。……また会いに来て。さて、そこで君は蓼原みなみの言葉を拒絶できるかい」
……できない。
「まあ、君には無理だろうな。あれだけ蓼原みなみに依存していたのだから。もちろん君も考えていたのだろう。蓼原みなみに一度会ってしまったら自分は必ず行きつくところまで行ってしまうのではないかと」
……そのとおりだ。
「ハッキリ言おう。君はここで引き返すべきだ」
「僕が生業としている死者と生者の橋渡しはいつもハッピーエンドで終わるわけではない。それどころか、そうなる方が少ないと言ってもいい。だから、契約を結ぶには相当の覚悟が必要なのだが、僕が見るかぎり君からはそのような覚悟がまったく感じられない。もう一度言う。君はここで引き返すべきだ。ここで引き返せば、式場で聞いた蓼原みなみの言葉とここで交わした僕との会話がすべて記憶から消されるが、それ以外には君の身に悪いことは何も起こらない。つまり、君は他の人と同じく蓼原みなみのいない未来を進むだけだ。蓼原みなみにもう一度会える機会を失うことは残念だろうが、それによって君たちの関係が美しいままで終わるのだから君のような覚悟のできていない人間にとってこれはそう悪い話ではないはずだ」
……何を今さら。
知らなければあきらめがついたものを余計な知恵をつけておいてそれはないだろうと私は神崎淳一を睨みつける。
「……自分から誘っておきながら、なんで今頃になってそんなことを言いだすの?」
揺れ動く心のうちまで見抜かれた私ができる精一杯の反論に神崎淳一は薄く笑う。
「君を誘ったのは僕ではなく、蓼原みなみなのだが、とりあえず君の問いには答えておこう。それは形だけではあるが、同級生のよしみ。そして、なによりも間接的であり、また顧客である彼女に対しては裏切り行為にはなるが、親切にしてくれた生前の蓼原みなみへの借りを返すためだ。そして、これは今回だけのスペシャルサービスでもある」
「スペシャルサービス?」
「そう。これは普段の僕なら絶対にやらないことだからね。さて、せっかくだから、ついでに君が契約したらどうなるかも予言しておこう。最初の数回が過ぎると君の心には死の恐怖が忍び寄る。そして、回数を重ねるごとにそれはだんだんと大きくなる。だが、君の裏事情などまったく知らない蓼原みなみには当然苦悩など感じられない。そんな彼女に不満を抱き始めた君の心にはやがて蓼原みなみに対する憎悪の気持ちが芽生える。そして、ある日暴言とともに秘密をばらし、ふたりに永遠の別れが訪れる。たとえそうならなくても、蓼原みなみの顔など見たくなくなった君の一方的な別れにより縁切れとなり契約は終わる。だが、こちらも話はそこでは終わらない。しばらくすると、君は彼女との別れを選択したことをひどく後悔し精神的な苦痛に苛まれる。そして、楽になりたい一心で結局他人に秘密を話してしまう。結果、口にしてはいけないことを口にした君のもとには死より辛い罰がやってくる。つまり、このまま前に進めば、どちらにしても君に待っているのは心身ともにボロボロになる最悪の結末だ。先ほど僕は蓼原みなみに対する間接的な恩返しと言ったが、それはそのような君を彼女が見なくて済むことを言ったものだ」
……そんなことには絶対にならない。
私はそう否定したかった。
……でも、悔しいけどできない。
……それは私自身が思い至ったものと同じだったから。
「さて、そろそろ時間だ。決めてくれ。僕の助言に従ってこのまま引き返し蓼原みなみのいない人生を送るのか。それとも、最悪な結末が待っていることを知りながら、それでもなお生者が死者とつながりを持つことができる『水色のかけら』を手にして前に進むのかを」
……私に待っている未来はこの男が言ったとおりのものなのだろう。
……ハッキリ言って怖い。
……それでも、私はここで逃げるわけにはいかない。
……だって……。
……みなみが私を選んでくれたのだから。
……行こう。
……みなみが待つその場所へ。
「決まったようだね。では、聞かせてもらおうか。君の答えを」
「それはもちろん……」
「『水色のかけら』を私に頂戴」