表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

流動的な世界の新たな認識方法の導入と存在の揺らぎ

 ありがとうございます。少し難しい話になるかもしれません。しかし以下の文章では至って当たり前のことしか述べておらず、特別な知識を必要とはしません。

 私は朝に家を出て学校へ行く。時間が経過する。退屈な授業を終える。時間が経過する。そしてカフェで時間を潰した。あなたは朝に起きて職場に行く。時間経過。仕事をする。時間経過。その後酒に溺れた。世界の認識についてはこれが一般的なものとされているだろう。空間を固定し、時間軸正の方向に向かって世界を動かしている。世界というのは空間と時間で構成される。またそれは流動的かつ不可逆的なもので、どんなに微小な時間的、および空間的な変化だったとしても、その前の状況を再び再現することはできない。


 私は神である。私は一つの世界を構築した。しかし神であっても世界は時間と空間で構築をする。ここでふと考える。


 時間軸を固定し、空間を正の方向へ移動させることで世界を動かすことはできないだろうか。


 まず前提として世界は流動的なものであり、その変化を見るというのは時間経過と全く無関係であることを共通認識としなければならない。世界が動くというのは“順番“という概念を導入することで初めて理解される。


 一般的な世界認識についてまずは考えよう。空間は固定されている。ある任意の時間を経過させた。すると人々は歩き、雲は流れ、星は廻る。これが世界が動くと言うことだ。この時認識される空間自体は変化していない。ある固定された空間の中で時間経過により世界が変動していると言える。この価値観で言うと我々が神である必要は全くない。私たちは時間の流れに身を任せ、世界をじっと見つめればいいのだ。なぜなら五感を以って生身のまま時間の流れを認識することができるからだ。ぼーっとしていれば時間は進んでいく。


 ここからが本題。時間軸を固定しよう。この空間における私は、そしてあなたは時間の経過に依る行動は禁止された。空間軸が正の方向へと移動していく。


 どういうことか。無限の数ある世界が紙芝居のように切り替わっているということになる。Aという空間の世界、Bという空間の世界は時間固定により単独では一枚の写真のようなものに過ぎない。しかしAからBへと空間が“順番“に進めば、その世界を俯瞰できる視点を持つ者には世界の流動を観測させることができる。


 しかし、この世界の観測には困難な点がある。あなたはもちろん世界の流動を感じて生きている。すなわちAという空間に身を置きながら次の順番にはBという空間に身を置かねばならない。


 この不可思議を解決する方法は二つある。


 一つは順番に沿って常に空間移動をすること。この空間移動とはもちろん日本からアメリカという単純な意味ではない。世界の流動性に沿ってxyz空間からabc空間に移動するという感覚である。これができれば身体を一つ用意すれば世界を認識できるというメリットがある。しかしもちろんのことながら我々が絶えずそのような空間移動を行なっていることを認めなければならない。


 もう一つはあらかじめ無限個の世界を用意し、それを神の視点で順番に観測していくというものだ。パラパラ漫画のようなものといえばいいのだろうか。A空間、B空間を用意し、そしてそれぞれに自分を既に配置しておく。それを神の視点からA空間、B空間と観測していけばいい。この方法では空間間の移動を必要としない。しかし問題点として、自分自身が複数存在していることを認めなければならない。空間が起こるたび、あなた自身の存在は違うものへと変わる。既にあなたはA世界のあなたでもB世界のあなたでもない。あなたは誰なのだろう。


 この世界を紙芝居の観客のように外から、そして流動の中にいるという内から、両方の視点を一つにまとめて認識できれば今まで通り生活を送ることができる。


 私が何かはったりを言っているとお思いだろう。そんなことはない。あなた方が今まで都合のいい世界観測を行っていただけの話だ。誰が勝手に空間を固定していいと考えたのだろう。


 しかしこれを直感的に理解できないのも仕方がないことである。


 もし今仮定している世界観測を普段からする人間からすれば、私たちの認識はとても不可思議なものになる。


 私たちは時間の流れに身を置いているのだ。これはとんでもない感覚だということはお分かり頂けるだろうか。あなたはとあるストーリーを紙芝居一枚で済まそうとしているのだ。紙は一枚なのに世界が動いている。この考え方は到底あっち側の方々には理解して頂けない。


 世界の捉え方を変えるだけで自分の存在というのは大きく拡張される。


 この文章で何が言いたかったかと問われる。それは自身の存在とは、今の世界認識で言うところの神と凡人が共存している状態であり、捉え方一つで存在の仕方すら変わってしまうと言うことだ。存在は定義によってすなわちルールによってガラリと姿を変える。存在というのはそれほど不安定なものであることを頭の片隅に放り込んでおくといいだろう。

 ここまで読んでくださった方はいるのだろうか。本当にありがとうございました。ご理解頂けたでしょうか。感想、レビューをお待ちしています。


 少し前まで「理氏とその世界について」という短編集を書いていました。そちらでも世界とは何かという話は何度かしました。久しぶりにこの系統の文が書けたことは嬉しく思います。


 存在が揺らぐ、自分とは何かがわからなくなる。そう言ったことは理論的に起こるものだと考えます。したがってそんなものは不確定なものだと割り切ってしまうのが最も幸せなのかもしれません。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 認識が合っているかはわからないのですが、 創作物の世界だと基本的に空間も時間も存在も世界の創造主たる作者の好き好きでそれらをコントロールするので、つまり作者自身はその世界の神であり、逆説…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ