新人さんいらっしゃい
富山県の東部に滑川という小さな市がある。一説によると「骨川スネ夫」の名の由来はこの「滑川」にあると言われたり、言われなかったりもする。そんな滑川市の海の見える場所に風変わりな喫茶店があった。店の外観はオシャレな洋風スタイルで、一般的な喫茶店とさほど変わらないのだが、店の前の立て看板は異様だった。何しろ「米騒動」という物騒な文字が刻まれているのだから。
喫茶店の醸し出す異国風味の非日常感は、店名によって全て打ち消されていると言っても過言ではない。しかし店のオーナーはそれで一向に構わない。何しろこの「米騒動」こそがこの喫茶店の誇るべき名前であるのだから。
この妙ちきりんな喫茶店にはいつも数人の常連客がたむろしていた。彼らは皆、富山県民ではあるものの、その出身地域は異なっており、富山市、立山町、上市町、魚津市、高岡市……など様々な地域に及ぶ。
郷土をこよなく愛する滑川市在住の喫茶店マスターのもとで、平均年齢ちょい高めな常連客は地元について語り合い、時に議論しあうのがこの店の定番なのであった。しかしオッサン達の議論は時々暴走することもある。
「だ……黙れ!遊園地もないクセに。それでよく県庁所在地を名乗ってられるな」
「その発言だけは撤回しろよ!だいたい蜃気楼なんて金にもならない観光資源を持ちやがって!出現が不意打ち過ぎて、アンタも一度も見たことないんだろ。よくそれで自慢しやがったな」
このような白熱しすぎる議論は、喫茶店の端で英単語を覚えようとしている常連高校生客(つまり俺)にとっては邪魔でしかなかった。
「elmentary、paragraph,……なんだっけ……ああ忘れた!」
オッサン同士の言い争いはあまりにくだらな過ぎて、集中力が削がれてしまっている。単語を覚えることに限界を感じ、恨みがましい目で喧嘩中の2人を睨む。
「全くうるさい中年達だな。富山でも魚津でも、どっちの勝ちでもいいだろ。どっちも大差ないわ。剣岳の偉大さの前ではな」
他の客達が普通に談笑している中、互いのネクタイを掴み合う愚かなオッサン2人はギリギリまで顔を近づけ合い相手を罵っている。
「だったらお前も埋没林と一緒に埋没してろっ!海の底に沈め!」
「な……なんだと貴様。謝れ。俺じゃなくて全魚津市民に謝罪しろよ。東の方向を向いて謝罪させてやるからな。覚悟しろ」
「魚津市」とは富山県の東部に位置する市であり「埋没林」とは魚津市の観光スポットの1つなのだ。
──なんちゅうくだらん喧嘩してんだ。小学生かアイツらは!
収まらない喧騒に頭を抱えるしかない。
愛する地元を侮辱されたことに怒った長身のサラリーマンは、両手をグッと伸ばし中肉中背のアラフォーのサラリーマンの胸ぐらを掴み、持ち上げている。彼らは互いの胸ぐらを掴み合っていたものの、リーチに優る魚津サラリーマンがこの勝負には優勢であったために、侮辱した側はあっさりと降伏した。
「こ……こらっ!そこそこ本気で引っ張るんじゃない。ぐええっ、首が締まるってのっ。謝るから~っ!全魚津市民の皆様ごめんなさい」
「もう手遅れだぁぞ~!アンタを埋没林と一緒に富山湾に沈めてやるからなっ」
俺は単語帳をテーブルに叩きつけて立ち上がった。
「いい加減にしてくれ!こっちは勉強に集中できないんだ」
「上市町民には関係ないだろ!スイッチバックの駅だからって、中年を舐めるなよ」
「なんでだよっ」
いい加減に見かねた客の1人が喧嘩を止めに入った。勇敢な彼女は高岡市在住のオバサンであり、背は大きくないものの男3人を引き離すに十分の迫力を持った体格をしている。
「ちょっと!そこのアホ県民3人、やめられ」
弥陀ヶ原台地から落ちていく称名滝の如きパワー溢れる張り手で、我々3人の横腹をドシドシと押してしまう。正直、なんで俺まで巻き込まれたのかよく分からない。
「ぐほっ!ぐははっ!」
怒れる魚津在住サラリーマンは相手から手を離し、そのままバツが悪そうにカウンター席についた。彼は脇腹を押さえてさすりながら不満を呟く。
「ちょっと中村さん。不意に強烈な張り手をかまさないでくださいよ!貴方の本気なんだから」
まったく同意する。
「だって西田さんが本気で林さんを富山湾に沈めそうだったから、やむを得ず」
「あんなの美しい富山湾に沈めるわけないじゃないですか……。いたたた」
一番バツが悪かったのは、あっさり謝罪に追い込まれた中肉中背の富山市在住サラリーマンの林さんである。彼は乱れたスーツを直し、髪をポリポリと掻きながら、テーブル席に戻った。
「いや~参った。蜃気楼のことで西田さんがあんなに怒るとは思わなかったな。魚津市民の心は分からん。なあ佐伯くん。そう思うだろ?」
同意を求められても、できるわけがない。
「両方、言ってることが分かんないですよ」
揉める客達をよそに店のマスターである佐藤淳二は、カウンターの中で平然とコップを拭いていた。中曽根元総理のような髪型をしている彼は、口元に白ひげを蓄え老眼鏡をかけた60代の男性である。店の名前を「米騒動」などという不穏なものにするぐらい郷土愛に溢れている男だ。
彼は微笑みを浮かべながら渋い声でゆっくりと語りはじめる。
「まあまあ、2人の喧嘩なんていつものことじゃないの佐伯君。しかし林さんの他市に勝負を挑むスタイル。僕は嫌いじゃないな」
マスターの懐の深さは常連客達にとっては魅力の一つである。しかし俺にとっては懐が深すぎて、どうにも理解できない発言だった。
もちろんマスターがこの件で富山市民の林さんに肩入れするのは、魚津市民の西田さんにも面白くない。彼はマスターのさし出したコーヒーを飲みながら、ついついくだらない文句を言ってしまう。
「県庁所在地には甘いなぁマスターは……。お子さんが富山市民だからって、林さんに肩入れしなくてもいいですよ」
「それは誤解だよ西田さん。私は県全体を平等に見てるつもりだよ」
林さんはテーブル席から拍手を送った。
「いよっ!さすがマスター」
西田さんはため息を一つつくと、カウンターを中指でトントンとイラだたしそうに叩く。
「そもそも『米騒動』だって魚津が発祥の地と言われてるのに……。寺内内閣を総辞職に追い込んだのは魚津市民の力なんですよ。富山市民じゃない」
呆れる発言に俺は、テーブルにドンと単語帳を置いた。
「なんちゅう自慢だ」
しかしこれ以上、西田さんと言い争っていても不毛である。そこで俺はカウンターの方に体を向けて、どうでもいい疑問を常連客達にぶつけることにした。
「ところで皆さんは揃いも揃ってプレ金なんですね。ある意味で首都東京より先進的ですよね、ここは」
微妙なところを突かれた常連客達はいっせいに反論する。
「うるさいな!高校生には分からん奥ゆかしい事情もあるんだよ」
「つまり仕事をサボってここに来ている……」
ここぞとばかりに林さんはマスターに訴える。
「マスター!佐伯君はココア1杯だけで1時間も粘ってるんですよね。営業妨害ですから追い出したらいいんじゃないですか?もう出入り禁止にしちゃって」
「アンタだって、カレーの1皿で4時から粘ってるだろっ!どの面で言ってんですか」
「高校生はファミレスに行け!」
マスターは笑顔を浮かべて、我々を宥めた。
「はははは。まあまあ。皆さん、落ち着いて」
我々は常連ではあるが、決していいお客ではないだろう……。マスターの懐の深さに感謝しきりである。
○○○
5時半を過ぎると、不思議とマスターに落ち着きがなくなってきた。彼は店の時計を見て呟く。
「そろそろ5時38分か。もうすぐ店に来てもいい頃なんだけどな。どうしたんだろう」
店内のテーブル席でまだカレーを頬張っていた林さんがマスターに尋ねる。
「どしたんですかマスター。なんか嬉しそうですね」
「いや、今日からね。アルバイトを雇うことにしたんだ。でもってその子は大学生なんだよね。夏休みが9月いっぱいまであるから、それまでウチで働いてくれることになったわけ。それも女の子で……」
中村さんは驚きの声を上げる。
「大学生なん!?こんな変な店に若い女子を働かせていいが?」
「こんな店って。うちは変な店じゃないでしょ。それにね、皆さんも彼女に会ったら驚くと思うんだな。それが僕が今から楽しみなんだな~」
「一体なんなんですかマスター?」
「今は内緒だよ、佐伯くん」
我々にはマスターの微笑みの理由がまるで検討がつかないのであった……。
○○○
午後5時45分。カランカランとドアベルを鳴らし、リュックを背負ったセミロングの髪の美女が店内に入ってきた。
「ああ、いらっしゃい。待ってたよ~秋川さん」
店の中に入ってきた美女に向かってマスターは手招きをする。突然の新参者に喫茶店内はざわつきはじめた。何しろこの中高年だらけのディープな喫茶店に、爽やかな女子が入ってくることなど氷見漁港にダイオウイカが水揚げされることよりもずっと珍しいことだからだ。俺に至ってはマスターの話をすっかり忘れて──芸能人でも店に来たのか?などと思ってしまった。
彼女はカウンターの中に足を踏み入れる。呆気に取られていた我々常連客達はようやく先程のマスターの話を思い出した。
「マスター。この子が……?」
「皆さん、紹介しますよ。しばらくこの店のお手伝いをしてくれることになった秋川陽菜さんです」
呆然としてる我々の様子に少し戸惑った様子だったが、すぐに彼女はペコリと頭を下げた。
「秋川です。よろしくお願いします!」
顔をあげた彼女の花のような美しい微笑みに、常連客のテンションが上がる。特に林さんのテンションは露骨なまでに上がっている。
「いやっははは。いいですねぇ。なんか店内の空気がパッと明るくなりましたよ~。女性の平均年齢に至っては53歳でしたもんね。今日は」
「それ私の年齢やねかっ!富山湾に沈めてやる。海洋深層水で頭を冷やされ!」
「あだっ!顔に張り手って中村さん!」
中村さんは林さんの顔に張り手をいれつつ、突然入ってきた女子に知ってる人物の面影を感じていた。
「ところでマスター。この子って、もしかしてあの人の……」
マスターは人差し指を口にあてる
「しっ。他の人達はまだ分かってないから。皆さんまだ分からない?」
ひとりひとりに確認するも、皆キョトンとした顔で首をひねるだけだった。そこで恐る恐る、俺は小声で尋ねる。
「もしかして……マスターの愛人ですか」
「そんなわけがないやろっ!このエロ高生はなんて発想しとんが」
「いや、中村さんなら答えにしそうでしょ!」
見かねた中村さんは美女の正体を明かしてやることにした。
「よく思いだされんか。この子の名前は秋川やぜ。前までよくココに来とった秋川さんておったやろ!?あの人の娘さんやねか」
「あっ!はいはい、そういうこと。なるほど」
西田さん林さんと俺の3人は顔を見合わせながら、皆で納得する。
実は秋川さんの母親は、この店の常連客だったのである。気づかれなかったことに微妙な思いを抱きつつ……。少しはにかみながら彼女は自己紹介を始めた。
「はじめまして。秋川涼子の娘の陽菜です。皆様には母がお世話になっていたそうで……」
我々はようやく合点がいった。俺は挽回すべく大きく頷いた。
「あ……ああ。あ~、はいはい!滑川至上主義者の秋川さんか。そ……そういえば大学生になった娘さんがいらっしゃるって言ってましたね。もちろん分かってましたよ俺は。なんで分からないかなあ西田さんは」
「ははは佐伯くん。バカなことを言うなって」
流れ弾を受けた西田さんは立ち上がって、笑顔で林さんの肩をポンッと強めに叩いた。
「この子も一度だけ店に来たことがありましたね。あん時はまだ小学生だったなあ。言われてみればお母さんそっくり。そんなことも忘れたんですか林さんは」
「なんで僕だけ忘れてることになってるんだ!」
「あはは……」
秋川さんの困った微笑みは、オッサン達と俺にはあまりにも眩しすぎるものだった。