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早すぎるんだよ。君が

 

 

  インターホンが鳴った。

  掠れた音が家中に響く。耳障りのする不快な音で、直そう直そうと思っているうちにもう三年が経つ。幸いにも劣化はそこで止まり、三年間同じように掠れて僕のもとまで音は届いた。

  食べかけの朝食をそのままに、僕はふらふらと玄関まで向かった。

 

  「おはようございます、整さん」と彼女は言った。

  僕より幾つも下の少女だ。黒い髪を腰まで伸ばした彼女は勘違いしそうになるぐらい惚れ惚れするような笑みを浮かべて、僕にそう言った。

  中学生ぐらいの背格好の彼女ともう二十歳にもなる僕のツーショットは如何にも…といった感じに違いない。事実彼女は中学生だった。

 

  「おはよう」


  僕はまずそう返した。挨拶には挨拶を…、そんなものは園児にだってわかることだ。かくいう僕はそれができずに彼女にこっぴどく叱られていた。

  それも昔の話で、今はこうしてちゃんとできている。自慢するようなことではないけども。

  僕の気怠げな挨拶に彼女は満足したようにその笑みを深くして、少しした後にジロリと僕の全身を見回した。


  「まだ着替えていないじゃないですか…」

 

  咎めるように彼女は僕を少し睨んだ。


  「いや、早すぎるんだよ。君が」


  僕の食事や支度は人と比べて確かに遅いが、それでも一食に一時間もかけたりはしない。そして僕はもしも一時間かかってもいいような時間に起きているはずだった。

  今の時刻は七時ちょうどか少し過ぎているぐらいだろう。僕と彼女が乗る電車は八時のものだった。ここから駅まではどれだけゆっくり歩いても十分もかからない。

 

  「早く、ないです」


  「どう考えても早いって……。ああ、僕まだご飯食べてる途中なんだよね、時間まで中でゆっくりしていってよ」

 

  「……そうします」


  いつも通りの会話。ここ二、三年、彼女はこうして僕の部屋に上がって僕よりも慣れた手つきでキッチンを使って、お茶を入れて僕の真向かいにちょこんと座っている。


  彼女の名前は遊咲 優奈という。

  割と近しい関係の僕から見ても贔屓目なしに可愛い少女だった。学校のアイドルに違いない。彼女は容姿以外にも色々な面で魅力的な少女だ。流石に僕の食指は動かないが、僕がもう少し子供で、もう少し彼女から遠い存在であったのならば、今頃ファンだっただろう。もっとも、彼女の行く先を応援しているという意味であれば僕も間違いなく彼女のファンである。

  彼女は中学三年生だった。受験の年だ。……僕のところに来ていていいのだろうか。

 

  「それ昨日の残りですよね」


  僕の朝ご飯(昨日の残り)を見て物言いたげな目で、というより実際僕に物申しながら推定学校のアイドルはお茶を啜った。

 

  「そうだね」


  その通りだったので僕は頷いた。


  「ダメじゃないですか! ちゃんと食べて、って言ったのに!」


  「…そうだね」


  「そうだね…、じゃないです!」


  ごめんね。と軽く言い出せるような空気ではなかったので僕は黙って彼女を見ていた。

  僕はこう見えて空気は読める人間だった。活かした経験は少ないけども。


  このご飯を作ったのは彼女だった。彼女はほとんど毎日僕のところでご飯を作って帰っていく。情けない話だが、僕よりも年下の彼女が普通母親がやるような家事をこなしていた。だがそれは僕に母親がいないから、というわけではない。

  僕の母親はとにかく家にいない人だった。仕事でそこらじゅうを飛び回って、僕にはお金だけを落としていく。たまに家で見かける時もあるが、それは一年でも数えるほどだ。

  父は僕が生まれた時にはもういなかった。だから僕はずっと家では一人だった。

  そんな子供時代だったから家事だってべつにできないわけではない。高校に上がるぐらいまでは質はともあれ一人でこなしていたし、不自由がなかったとは言えないが、まあ生きていくのには支障はなかった。

  そして彼女がきたおかげで、僕は今ようやく人並みの生活が送れている。


  「折角朝ごはんだって用意しておいたのに…!」


  「それは夜に食べるから」


  「だ、ダメですよ! 晩ご飯は晩ご飯で作りますから!」


  「いや勿体ないし……。だから今日は来なくても大丈夫かなあ」


  来いなんて言ったことないけど。


  「だ、め、で、す! 夜は夜で作りに来ますから! 朝ごはんは……、私が今食べます!」


  彼女はそう言って冷蔵庫まで行って、彼女が自分で用意した朝ごはんを温めて、僕の前に座って食べ始めた。

  この子は何をしているんだろう……。

  もう既に一食入っているはずなのに、次々に彼女の口の中へ消えていく食事に僕は驚くより他なかった。かなり量はあったはずだ。彼女は毎回作りすぎる。僕だってもう中学生や高校生ではないし、彼女が作る量は食べきれないのだ。それに何か運動をしているわけでもないから余計に僕の食欲はか弱い。再三彼女に言ってはいるが、彼女がそれを直す様子はなかった。

 

  「ごちそうさまでした」と行儀よく手を揃えて、彼女は微笑んだ。


  さあ行きましょう、とでも言い出しそうな雰囲気だ。だけれど生憎にも僕はまだ食べ終わっていないし、もっと言えばまだ時刻は七時十五分ほどだった。家を出るには三十分は早い。

 

  結局、僕が食べ終わったのは二十分を針が回ってからで、そこからは二人でだらだらとテレビを見たり、他愛ない話をしていた。


  彼女は中学生だった。

  まだ遊び盛りだ。僕みたいに枯れた老後のような人生を送っているというわけでもなさそうだし、彼女にも友人はいる。電話でやり取りしているのを何度か見ている。いつも楽しそうに、時折真剣な様子で、彼女が友人たちと何を喋っているのかは知らなかったし興味もなかったが、僕以外の誰かと関係を持っているのなら僕はそれで満足だった。

 

  最初から彼女とこうやって親しかったわけではない。彼女の母親と僕の母親が昔から懇意だったらしく、その繋がりで僕も彼女のことはは知ってはいたが、それだけだ。

  ある出来事をキッカケに自堕落だった僕の世話までしてくれるようになったが、そもそも彼女は僕の所有物ではないし、彼女もこれから先ずっと僕に構っているつもりもないだろう。

  しかし僕は変わらない生活が好きだった。彼女の存在は最早僕の生活の一部であって、それを自分から取り除くことはあり得なかった。だから僕は何も言わなかった。それがいけないことだと知りながら。

  もし彼女が自分から旅立つ日が来たら、そうしたら僕は笑顔で送ってあげよう。

  それが僕にできる精一杯の罪滅ぼしだった。


  ああ、いつまでもこの生活が終わらなければいいのに。

 

  しかしこの世に時間があって、そしてそれが一方通行に流れていく限り世界は変わり続ける。僕の望みはたった一つだけだが、叶え難いものだった。ならばせめて少しでも反抗を。


  「あれ、もうこんな時間だ」


  彼女が時計を見ながら驚いた。針は七時五十分を指していた。もうそろそろ家を出なければならない。見ればリビングの外まで彼女は出ていた。急げ、と催促するように手を振っている。テレビを消して、僕もバッグを持って彼女に続いて家を出た。

 


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