再会
早朝。愛媛県宇和島市沖・御五神島の断崖絶壁を、人間がよじ登っている。気付いた磯の釣り人が下から呼びかけると、その人間は瞬く間に姿を消す。
また別の日の昼間。やはり磯の釣り人が、数十メートル向こうの海に、島から何かが飛び込むのを目撃する。浮かんできたのは三十分後、人間の男らしかった。
「おーい、大丈夫かー!」
と叫ぶと、その男は海中に消え、二度と浮かんで来る事はなかった。
そんな目撃談を、一年程前から聞くようになっていた。
御五神島には、昭和四十年代には開拓団が住んでいた。が、今は季節風吹き荒ぶ無人島である。あたりは潮の流れも速く、遊泳禁止。人間が泳ぎきれるわけがない。
新種の生き物か、それとも猿を見まちがえたのではないかとか、いろいろな憶測が飛びかっていた。
その頃、宇和島市内にある県立高校では、大学受験を控えた一人の高校生が注目を浴びていた。
愛媛県立海洋高校。学力の全国レベルは平均。スポーツも一度だけ、野球で甲子園に出場した程度。そこに、高校始まって以来の秀才が一年ほど前に転校して来た。『神龍亜輝』だった。
全国模擬一位、IQはなんと三百以上。東京大学合格間違いなしと、教師陣も太鼓判を押した。
ただ彼は、大学受験を頑なに拒否していた。
惜しむ声に彼は、
「僕には、やらなければならない事があるのです。」
の一点ばりだった。
「天は二物を与得ず」という諺が当てはまらない彼は容姿端麗でもあった。なおかつ人に対して、すこぶるやさしい。当然のことながら、女生徒からはよくもてた。彼の靴箱には、ラブレターが入らない日はないし、通学及び下校の際には、いつも女生徒がまわりを囲んでいた。
彼の同級生は、うらやましがったり、妬んで嫌がらせをする者もいた。しかし彼は、どんな事をされても、いつもニコニコ笑っていた。そして不思議な事に、どんな美人の女生徒とも、否、どんな女生徒とも付き合おうとしないのである。
ある時、同級生が言った。
「お前ほどのマスクと頭があれば、やりたい放題だぜ。まったく、お前は何を考えているのかわからんなぁー」
そんな彼を、師と仰ぐ下級生も、少なくなかった。実際、男から見ても、ほれぼれするぐらい、いい男なのだ。学業優秀なのに、ガリガリ勉強している様子もないし、スポーツも、学年でトップクラスの成績なのだ。
そんな彼だが、妙な行動をとることがあった、知り合いの渡船屋の、おやっさんに頼んで、釣客を渡すときには、ついでに乗せてもらっているのである。その際には必ず、何らかの食料を用意しているのである。おやっさんに、
「その食料を、どうするつもりだい。」
と言われると、
「イヤー」
と言って、口をつぐんでしまうのが、おきまりの、パターンだ。釣客も、おやっさんも、不思議でしかたなかった。磯に降りるわけでもなく、食料を誰かに渡すでも、自分で食べるでもなく、ただ御五神島の近くに来ると、食いいる様に島を見つめていた。側から見ると、誰かを探している様にも、見えた。
おやじ「島がそんなにめずらしいのか。」
亜輝「ええ、すごい絶壁だなと思って。」
おやじ「ああそう言えば、最近、変な噂が流れててねえ。島に人が住んでいるんじゃないかっていうんだよ。」
その話を始めたとたん、少年の目つきが変った。
亜輝「おやっさん、その話を詳しく聞かせて下さい。」
少年の意外な反応に、おやっさんはとまどってしまった。しかし気を取りなおして、話を続けた。
いろいろと今までの事を話していると、少年の頬を涙がつたっている事に気が付いた。
おやじ「どうしたんだい、泣いているのか。」
亜輝「い、いえ、ちょっと目にゴミが入ってしまって。」
おやじ「そうか。」
おやっさんは、そう言ったものの、その涙は、あきらかに、ゴミなどではなく、感情の涙なのである。おやっさんは、妙な気持ちのまま少年を港まで送って帰った。
帰港した際に、少年は、おやっさんに礼を言って去っていった。おやっさんは、何か腑に落ちないといった顔で、少年の後姿を、見送った。
その後、少年は姿を見せなくなった。
心配したおやっさんは、少年の下宿先に行ってみた。
おやじ「どうしたんだい、最近、見えなくなったが。」
亜輝「すいません。」
と言ったまま、黙り込んでしまった。
おやじ「元気そうでよかった。」
そう言って帰ろうとすると、少年は思いつめた表情で、
亜輝「おやっさん、すべての事は、一ヵ月後にお話しします。それまで待っていてください。」
おやじ「何か訳がありそうだな。こんな下宿生活も気になるし、御両親の話も聞かない、それに、あの島の事も気になる。その事を、一ヵ月後に話すというのか。」
亜輝「はい。それと一つのお願いがあるのですが。」
おやじ「何だ。」
亜輝「一ヵ月後、お会いした時、船を出していただけませんか。」
おやじ「ああ、それはいいが。」
亜輝「すべての訳は、船を出していただければ、わかると思います。」
おやじ「わかった、後は何も聞くまい、一ヵ月後に会おう。」
そう言って、おやっさんは、去っていった。
そして、一ヵ月後。
彼がこの一ヵ月、何をしていたのかは、わからなかったが、渡船屋に来た少年の姿を見ておやっさんは、驚きをかくせなかった。その様子は、服はボロボロ、体中傷だらけのすさまじい姿であった。
おやじ「おいどうしたんだ、その姿は。」
亜輝「ああ、気にしないで下さい。それよりも早く船を出しましょう。」
おやじ「病院に行った方がいいんじゃないかぁ。」
亜輝「いえ、このほうがいいんですよ。」
その意味するものが、なんなのかは、わからなかったが、おやっさんは、ただならぬものを感じながら、準備を始めた。
おやじ「じゃ行くぞ。」
亜輝「お願いします。」
そう言って、少年は黙り込んでしまった。おやっさんは、少年を気づかって、無言のまま船を進めた。
船は進み、御五神本島に近づいた時だった。それまで黙って、平静を装っていた少年だったが、島に近づくにつれ、その体は、ブルブルと震えだし、その手は、握りこぶしを作って、その手の平からは、うっすらと血がにじんでいた。
おやっさんは、そんな少年の姿を見るのは、初めてだった。
おやじ「おい、どうした、寒いのか。」
と問いかけると、少年は、黙って、うつむいたままだった。おやっさんにとっては、不思議な事だらけだった。
そして船が本島に接岸する直前だった。
亜輝「おやっさん、止めて下さい。」
そう言うのと同時に、すっくと立ち上がり、船の先端に歩き出した。その時には、少年の震えは、止っていた。
そして船の先端に立つと、顔を上げ、両目を「カッ」と見開くと、島の頂上付近に目をやった。その光景は、まるで絵に描いたような、情景であった。神々しくもあり、鬼気せまるものがあった。これから何が起こるのか、おやっさんには、想像すらつかなかった。
すると少年は、島中に響き渡るような大声でこう叫んだ。
亜輝『我皇、我皇項志、時が来たぞー』
その声の迫力に、おやっさんは、びっくりしたような顔で少年の方を見つめ、こう思った。
おやじ……我皇とは、いったい誰の事なのか、それに島に向かって……
おやっさんは、「はっ。」とした。
おやじ……もしかして、あの噂と何か関係があるのか……
そうしていると、島の頂上付近で、人影のようなものが動いた気がした。
そして、次の瞬間、その人影は、船めがけて、飛び込んで来たのだ。
あぶないと思った時、空中で三回転し、船の横スレスレで着水した。
おやじ「何だ、どうした、何が飛び込んで来た。」
おやっさんは信じられないというような表情で海中に目をやった。亜輝も同じ様に海中に目をやった。
するとまだ、あどけない、年の頃でいうと亜輝と同い年ぐらいの少年が顔を出した。
項志「ヨオ、久しぶり。」
そう言うと、少年は、「ニコッ」と笑った。しかし、顔は日焼けと、海焼けで真っ黒、髪の毛も、ボウボウで、浮浪者とまちがわれても、仕方ないありさまだ。
亜輝「項志、この一年の間、御苦労だったな。」
そう言うと、手をさしのべた。
しかし項志は、その手を取らずに、こう言った。
項志「亜輝、今から修行の成果を見せてやる。」
そして泳ぎ出したのだ。おやっさんは、何が起こったのか、訳がわからず、ボー然としていたが、ハッと我にかえり、
おやじ「何をする気だ、バカなまねはやめろ、死ぬ気か。」
おやっさんの言う事も、うなずけた。この海域は、潮の流れが速いので、有名なのだ、人間が泳いで帰れる所ではない、それに救命具も着けずに、海に入る事は、自殺行為であり一度海に沈むと、死体を捜すのも困難なのだ。
しかし、そんな事とはうらはらに、
項志「丁度いい、おやじ、おれと勝負しようぜ、港まで競争だ。」
そう言って泳ぎ出した。
おやっさんは、びっくりした。
おやじ「おおい、正気か。」
そう言って、船を項志の方に向けた、その後である。信じがたい事が起こったのだ。船が追い着けないのである。
おやじ「おおい、うそだろー」
おやっさんはア然とした。その泳ぎは、尋常でないのである。まるでイルカが泳いでいる感じである。その距離は、離されるばかりだ。さらに驚くべき事は、我皇項志は、いっさい、息継ぎをしていないのである。
おやっさんは、こんな事がありえるのか、という表情で、その泳ぎに見とれていた。
おやじ「亜輝君これは、どういう事なのだ説明してくれ、今までの君の妙な行動は、このことだったのか。」
亜輝「そのとうりです、項志はこの一年間あの島に住みついて、サバイバル生活をしていたのです。」
おやじ「何のために、そんな事をしなければいけないのだ。」
亜輝「それは後日お話しいたします。しかし項志、これほどのものとは……」
凄まじい光景だった。オリンピックにでも出場すれば、圧倒的大差で優勝だ、否、もはや、人間レベルを超越した泳ぎなのである。
おやじ「こんな人間が実在するなんて。」
おやっさんは、仰天を通り越して、恐怖すらおぼえた。実際、項志は船で四十分かかる所を、半分の二十分で泳ぎきったのだ。まさに脅威だ、人間の常識をはるかに、超えていた。
港に着いた項志はすでに、岸壁に上がり、二人を待っていた。そして、あれほどの運動にもかかわらず、平然とした顔で、
項志「よお、遅かったじゃないか。」
と言って、二人を出迎えた。
おやじ「君、本当に人間か。」
項志「ハッハッハッそうですよ、この姿が魚に見えますか?人間、死ぬ気になれば、何でも出来ますよ。」
亜輝「項志、本当に御苦労だったな。」
項志「ああ。」
短い会話であったが、その中には、深い深いつながりが感じられた。
亜輝「おやっさん、今日は本当に、ありがとうございました。今日の事は、誰にも、内緒にしておいて下さい。くれぐれもお願いいたします。」
そう言うと、二人は歩きだした。
おやっさんは、ボー然と二人の後姿を見送るしかなかった。
項志「亜輝、島の生活はいいぞ、わずらわしい事など何もない。それに魚の食い放題だぜ、マダイ、イシダイ、カツオよりどりみどりだ、お前にも食わしてやりたかったなぁ。」
亜輝「項志、スマン、お前にだけ、こんな過酷な生活を送らせて……おれはこの一年間、気のやすまる事はなかった。お前のことを考えると、自分だけ高校に通って、お前が、死にものぐるいで、修行している時、おれは、まわりからチヤホヤされて、それで本当に良いものかと、いつも自問自答していた。お前の噂を聞くたび心がいたんだ、出来る事ならば、おれも島に行き、お前とともに修行したかった。」
項志「亜輝もうそれ以上言うな、このサバイバル生活は、これからのレスキューに役立つことだ、それにおれ自身で決めたこと、誰からの指示も受けていない、それに亜輝お前の気持ちは、いたいほどよくわかる。きれいずきのお前のその姿は、なんだ、体中傷だらけ、それに服も、ボロボロじゃないか、おれに気遣って再会する時は、自分をすこしでもおれに近づけておきたかったという所か。」
亜輝「それもある。しかしこれは、おれ自身のケジメでもあるのだ。これからおれ達がやろうとしている事は、ハンパな気持ちでは、絶対出来ない。なのにおれは、高校で、チヤホヤされ、女生徒達にさわがれ、すこしのぼせ上がっていた所がある。それに対してのケジメなのさ。」
項志「亜輝、お前は変わらんなぁ、このカタブツめが。それより、おれはハラが減ったぜ。島は魚の食べ放題だが、肉がなくてなぁ。あぁ、肉が食いてぇー」
亜輝「それなら心配するな、今日は、たらふく肉を食っていいぞ。」
項志「本当か、お前お金はあるのか。」
亜輝「こんな事もあろうかと、バイトで貯めた金がある。」
項志「さすが兄弟、気がきくねぇーじゃ、遠慮なく食わしてもらおうか、ハッハッハッー」
亜輝は、項志のこの豪快な笑いを久しぶりに聞いて、ホッとした。なぜか安堵感をおぼえた。
それから二人は、一応身なりを整えて、焼肉屋で、たらふく肉を食った。二人といっても、ほとんど項志が食ったが。さすが人間ばなれした項志である。一人で八万六千円分食べたのだった。焼肉屋始まって以来の大食いだった。それを横から見ていた亜輝は「おつかれさん。」と言わんばかりに、満面の笑みをたたえていた。