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「気が付けばそこは不思議の国。んなわけあるか」
どうやら落下の途中で意識をなくしていたらしいのだが、目覚めたら辺り一面大樹に囲まれた森の中だった。しかも今までテレビでも観たことがないほどの大きさだ。
どう落ちれば無傷でこんな馬鹿でかい木の根に横たわることが出来たのだろうか。
それよりもまずは生きていたことに感謝しなければならないか。いや、なにに感謝すればいいんだ?神様か?
とりあえずは自分の幸運に感謝するも、幸運ならこんな目に合わないよなと思い、取り消す。
自分自身の現状に動揺が収まらない。普段はそこまでしない貧乏揺すりが止まらない。ひとまず深呼吸をして心身の安寧を図る。肺に侵入してくる空気は今まで感じたことがないほどに澄み渡っている。
「空気うますぎだな。ここマジでどこだよ、そもそも日本か?」
俺の常識の中では、日本にこれほど天を穿つような木々が群生している場所はないはずだ。それこそ日本だけではなく、世界においてもそうないだろうと断言出来る。ファンタジーな世界だと言われた方がまだ納得できそうだ。
先ほどまで自身が倒れていた木の根の周りは苔むしていて、この馬鹿でかい木以外にも周囲を見渡すも目に映るは草木のみ。
木々の切れ間から日が出ているであろうことは推測出来るが、日照範囲が極端に狭いため、辺りは薄暗い。
ここで立ちすくんでいても仕方ないか。
「この木のてっぺんまで登れば森の外の様子も分かるんだろうけど」
周囲の木々よりも更に天高く聳えるこの木だが登ろうにも太すぎて高すぎて身体能力に自信がある俺でも命綱なしでは登れそうにもない。
どのみち周囲を確認した所で森の探索をすることは変わらない。まずは持ち物の確認をしておくか。
今着ているお洒落着一式。
何故か午後七時を指している時計。
ボストンバッグ。
汗まみれのスポーツウェア一式。
汗まみれの下着。
使用済みタオルとハンカチとティッシュ。
合鍵を入れた財布。
ランニングシューズ。
半分ほどしか入っていない五百ミリのスポーツドリンクのボトル。
女の子の煙草への火つけ用百円ライター。
キスする前の口臭用スプレー。
香料入りの制汗スプレー。
ジムでのシャワー後のヘアワックスとヘアスプレー。
メモ帳とボールペン。
電源が入らなくなったスマートフォン。
あぁ、買ってもらったばかりのスマフォが壊れている。携帯ショップに行くのあんまり好きじゃないんだけどなぁ。
こんな現実逃避でもしなきゃやってられそうにない。
こんな深い森だ、野生の動物もいるだろう。だが、武器になりそうな物も食糧もない。ただ、生活のお世話になっていた、キャバクラに勤めている女の子用に常備していたライターは役に立ちそうだ。
「どの方向に向かうべきか」
とりあえずは湧き水か川を探しつつ森を抜けることにしよう。よく分からないが折角拾い直した命なんだから大事にいこう。
お洒落着よりはマシだろうと汗で湿ったスポーツウェアに着替え、靴もランニングシューズに履き替える。
なんとなしに日がうっすらと見える方へ三十分ほど向かっていたのだが、前方の視界を遮るように存在する藪のすぐ先で、獣と獣が争っているような咆哮が聞こえた。
その咆哮の対象は俺じゃないにも関わらず、身体を竦みあがらせた。すぐさま側の木に隠れる。
動物園で聞く虎やライオンの低い咆哮とは比べものにもならない。いったいどんな化け物だよ。
二匹の争いは凄まじいようで静かな森の中で時折轟音を響かせていた。
その最中、目の前の藪を突き抜け元凶であろう二匹が姿をあらわした。
木から覗き見るそれは、一匹は三メートルは優にあろう見たこともない赤毛の熊。
これだけでも体を震えさせるには十分なのだが、問題はもう一方。それに相対するは同じく三メートルは超えている双頭のライオンに蛇の尻尾という地球ではあり得ない生物だった。
見た瞬間に息が止まったと錯覚した。それほどまでに二匹とも圧倒的な威圧感を持っていた。絶対にここは地球じゃない。
ここが異世界とかそんなことよりもまずは逃げねば。
そう考えるも二匹はここが決着をつける場だと言わんばかりに俺の隠れる木の前で戦い続ける。巨体と巨体がぶつかり合う音は聞いていて楽しいはずがない。
身ぐるみ全部あげるから立ち去ってくれないかね。人相手なら有効かもしれないが獣には伝わらないだろうな。
今後の対策をたてる為に、物音をたてないように鞄の中を探る。雄叫びが轟く度に手が震えるが無理矢理抑え込む。
「グオォーッ」
双頭のライオンが熊の首を掻ききり決着がついたようで、熊が地面に倒れ伏し、ライオンは天に向けて吠える。その咆哮に脅えた俺の手から鞄が落ちる。
音に反応する依然に匂いで気づかれていたのだろう。ゆったりとこちらへ歩み寄ってくる。
「あのー見逃してくれないですよねー?」
全身から溢れ出る汗を無視し、思わず問いかける。当然理解を示すはずのないライオンは両首揃えて牙を向く。
汗か。そう考えた瞬間には奴の顔が近づいていた。
「南無三。……ばああああああああか!」
反射的に手にもっていた制汗スプレーを吹きかけると、目に入ったのか、きつめの香料を嫌がってか、キャンッと甲高い声をあげ後ろへとライオンが飛ぶ。
効いて良かったと思うと同時に捨て台詞を吐きながら急いでその場から駆け出す。今俺はとっても良い顔をしているだろう。
鞄を置き去りにしてしまったことや背後からまだ奴が追いかけているのではないか等で頭の中をグルグルさせながらも走り続ける足は止めなかった。