その者大海の覇者の背に乗りて地獄より来たる
ここからは三人称視点です。更新は不定期になり気味ですが、空いた時間にでもお楽しみいただければ幸いです。
青い空。白い雲。果てなど存在しないとでも言いたげな、広い広い大空。
青い海、白く立つ波。底など存在しないとでも言いたげな、深い深い大海。
青と白に挟まれたその場所、海上にて動く影が一つ。
体表は深い青色の鱗に覆われ、太陽の光にキラキラと輝く様は宝石にすら劣らない。
海面から突き出された三ツ首は悠々と持ち上げれ、六つの瞳は己が進む先を静かに見据えている。
広い背を海面に晒し、度々姿を表す長い尾はご機嫌に揺れている。
その姿はまさに龍。この世で最も偉大で自由な種族。
他者と馴れ合わず、己の意思を優先する、力こそが全ての暴力の塊。
だからこそ、人はその存在に恐怖する。
そして、もしも。
この偉大なる海の覇者を見た者がいたならば困惑しただろう。
その背に居る畏れ知らずは誰なのか、と。
腕を頭の後ろで組み、両足を伸ばしてリラックスしたように仰向けで寝そべる人影。黒い長髪は風でなびき、同様の黒い瞳を閉じて沈黙する女性。口には紫煙を漂わせる煙草が咥えられている。もしここがビーチなどの観光地だったならさぞ目を惹く事だろう。だが生憎、この世界にビーチは存在しない。
そしてその女性の姿も異様だ。
頭部以外を艶の無い真っ黒な鎧で包み込んだその様相。無骨で鈍重な印象すら持たせる鎧の形状は実用性を重視していることが一目で分かる。肘や膝などの関節からは黒と様々な緑色からなる迷彩柄の下地が覗く。
身に付けているのは腰の鞄と一振りのメイスのみ。だが女性の傍らには大きな荷物袋と白い弓、そして矢筒が立てかけてある。
戦士?狩人?いや、どちらでもない。"人間的"に言うならば、そう、彼女はただの旅人だ。
「…どうしたの?」
フッと瞼を上げて頭を動かす。その女性———黒瀬亜希奈は咥えた煙草を手に取ると、そう口を開いた。
「………」
ジッと亜希奈を見下ろす二つの青い瞳。三ツ首の内一つを振り向かせ、吼えるでも唸るでもなく、ただ瞳だけで語る海の覇者。その視線は亜希奈自身というより、先ほどまで咥えられていた煙草に向かっているように感じられた。
「ああこれ?この世界にも禁煙席があるとは思わなかったよ」
そう言って女性は静かに笑って見せる。
対して覇者は微かに首を傾げる。それもそのはず。この世界に禁煙席などという概念は存在しない。軍の支給品で安く粗悪なものが配布されるか、高いものは金持ちの嗜好品であり、推奨こそされるが禁止などされるはずもない。勿論、この世界の常識を今の亜希奈が知っている訳も無く。
「これは山奥の湧き水近くで群生してた魔香草ってやつでね。乾燥させて刻んだ魔香草を、同じく乾燥させた茎に詰めた物だよ」
そう言って女性は腰に付けていた鞄から別の一本を取り出す。それを興味津々といった様子で見つめる大きな頭部。
何の前置きも無く覇者の頭部に投げつければ。待ってましたと言わんばかりに、人間数人を余裕で収められるであろう大口を開けて食らいついた。
しばしの咀嚼…。口のサイズに全く合っていない小さすぎる煙草の味が分かるのかと疑問を持つが、案外グルメだし味覚は鋭いのかな。と女性は勝手に納得した。
覇者は暫くするとべっ!と海に向かって内容物を吐き出した。心なしか眉間に皺がよっている様に見える。女性は表情豊かな奴だと笑った。
「煙を楽しむ物だからね。私も食べたことあるけど渋いし苦いしで食えたものじゃない」
じゃあ何でそのまま寄越したんだ…。そう抗議する様に巨大な頭部を女性に押し付ける。
潰されるのは勘弁と、身を捻って抜け出しその勢いのまま立ち上がる。手に持っていた煙草はいつの間にか咥えられ再び紫煙を上げている。
「悪かったよ、ごめんごめん。いつかサイズが合いそうなものを用意するからさ。ね?」
そう弁解しながら覇者の頭部を撫でる。暫くそのままの態勢で半眼で睨んでいた覇者も取り敢えずは納得したのか、頭を持ち上げ再び三ツ首を並ばせた。
「…見えた」
同時に、女性も首と首の間から先を見据えた。
まだ遥か遠いが、確かに見える大きなシルエット。横に広く長く引き伸ばされた陸地...大陸だ。
「二年もかかった。新しい陸地に、人がいる大陸に来るまで」
視線を落とし手元を見る。女性の手には経年で茶色に変色しながらもしっかりと形を残した四角い布が握られている。
両手で両端を掴み広げれば、腕を一杯に広げなければいけない程の大きな地図が露わになった。
ある日見つけた白骨死体の遺品。その中にコレはあった。運が良かったとほくそ笑むその姿は、これから目にするであろう新たな世界に心躍らせ目を輝かせる少女の様で...。
だからこそ、その姿を横目で見ていた覇者は思う。この人間の皮を被った化け物は一体何者なのか、と。
突然現れ、地上というハンデはあったものの自分と力で互角に渡り合える強者。暫くぶりの満足出来る戦闘を提供してくれた新たな好敵手。未知でありながら大変美味な食い物を作れる賢い者。それが、覇者が黒瀬亜希菜に向けた評価であった。
そして...。
「もうひと頑張り頼むよ。"ドライ"」
自分をドライと呼んだ名付けの親。
一頭一体と三頭一体は様々な想いを巡らせながら進む。確かに変化し始めた世界を共通の認識としながら。
「…と、いう訳で到着っと」
女は陸に飛び降りた。
陸地が見えてからは平穏そのもの。邪魔が入る事も無く順調にここまでたどり着く事が得来たことに満足げに背を伸ばした。
「じゃあここまでありがとう。死なずに且つ縁があればまた会いたいね」
そう言ってドライの頭を優しく撫でる。わざわざ籠手を外し素手で撫でるあたり、心からの感謝と期待を籠めているのだろう。そうドライは考えた。
今思えば海岸で出会い殺し合い、和解してここまで来てしまった。いや、要求され船代わりとなって乗せて来たのだ。なぜ自分がこの化け物に協力しているのか、ドライ自身明確な理由を思いつけないでいた。だが、何の後悔も葛藤も無かったという事はこれでいい。そう言えるだけの自信はあった。
龍は別れの言葉を言わない。永遠に近い時を生き、他種族との交流が極端に少ない龍にとってそれはあまりにも意味がない言葉である。だが、この時ばかりは言葉を話せないことをもどかしく感じた。ドライ自身がその事に驚愕し、自分の変化に気付くのはまた後の話だが。
一つ鼻を鳴らしてドライは踵を返す。彼は龍であり覇者だ。支配する領域を長く離れる訳にはいかない。
女もそれを理解していた。ドライがここまで連れてきてくれたのはただの気まぐれであり、これ以上自分から何かを言うべきではないと。自分とドライは決して友などではない。場合によっては今度こそ全力で潰し合うだろう。
海に沈みゆく巨体を見送る。その後を追う様に海面に渦が巻くがそれもすぐに治った。後に残ったのはさざ波の音と鎧の人影。
「いざ参ろうか新天地へ」
ふざけた言葉遣いで気分を切り替える。さあ進もうと足を踏み出した所でふと立ち止まる。
この先は人の世界。正確には人間とそうでない者の世界か。そして奴等がいる。懐かしくもあり、だからと言って会いたいとも思えない者たちが。
「化け物、モンスター、モンストロム。名前どうしよう。本名はもう昔のものだし捨てたいんだよね」
「けど、それでも今まで常に着いて回っていた名前だ。多少の愛着もある」
「クロセとアキナでクロア。安直だけど悪くない。私のコレも真っ黒だし丁度いい」
コンコンと鎧を叩く。一瞬、表面の漆黒が揺れた様に見えたのは気のせいではない。その奥に白銀の輝きが見えたことも。
「さてと。それじゃあ行きますか」
背負った荷物入れから兜を取り出す。顔全体を鎧と同様黒に染まった金属で覆い、視界はYの形に入った黒い隙間から通せる形になっている。隙間には荒い金属の網目が張ってあり、鏃や剣先が通らず目の動きや肌色すら認識させない。
不気味な鎧の旅人はようやく歩き出す。
この日。人の大地に災厄と混沌と理不尽を振り撒ける存在が降り立ったことを、人間はまだ知らない。