とある魔女の憂鬱
「マスター、もう一パイントだ」
そう言って紙幣をカウンターに叩き付けたのは、赤銅色の髪をした女だった。
酒場の薄明かりの中でも、頬が上気しているのが分かるほどに、酔っている。
「かしこまりました」
マスターはジョッキになみなみとビールを注いで、女の前へと置く。
一パイント。ここロンドンの酒場では、ごく当たり前に使われる単位だ。すなわち五百六十八ミリリットル。大の男でも一度に飲むのはきつい量を、その女はいとも簡単に飲み干した。
その豪快な飲みっぷりを、すぐ隣に座っている、眼鏡を掛けた黒髪の男が、呆れたような顔で眺めている。
「飲みすぎだ、メリル」
「何だ。君はもう飲めないのか」
赤銅色の髪をした彼女の名を、メリル・シェーラザードという。その名は一部の人々の間では、あまりにも有名な名だった。つまりは、魔術師達の間で、ということだが。理の王、あるいはランカシャーの魔女などという通り名を持つ彼女は、この世界でも数人しかいない最高の位階Iに達している言霊使いの魔術師である。あらゆる魔術師から尊敬の念を集める魔女は、黒髪の男を据わった目で睨み付けた。それに対し、彼は軽く首を振ってこう返す。
「いや、飲まないだけだ」
「そんなんじゃ、女性にもてないぞ、武明君」
普段メリルにそんな呼び方を全くされた覚えのない黒髪の男は、あまりの怖気に、全身鳥肌を立てた。メリルはいつも彼のことをこう呼ぶのだ――異常愛博士、と。その呼び方も彼はどうかと思っていたのだが。
彼の名を西武明という。メリルには及ばないものの、彼もまた魔術師達の間では有名人だった。魔術系統の中でも、決して戦いに向いているとはいえない死霊術を自在に使いこなし、死者の恋人の名で呼ばれる死霊術師である。武明は小さく舌打ちした。全く悪酔いの内でも、絡み酒ほど厄介なものはない。
「私のことは放っておいてくれ。お前こそそんなに飲んでいたら、男にひかれるぞ」
「これが飲まずにはいられるか。まさかあのアーノルドに子供がいたなんて」
メリルは、今日何度目になるのか分からない愚痴を武明にこぼす。
「そりゃあ、あの話には魔術組合中が驚いたけどな。そこまでショックを受けることはないだろう。あんな鉄面皮のどこがいいんだか、私には理解できない」
二人の話題に上がっているアーノルドという人物は、魔術師達の互助組織たる魔術組合においても、高い地位にある人物だった。位階こそ上から二番目のIIだが、魔術組合の長であるリチャード・バロールの補佐を務めていて、魔術組合に所属している魔術師からは一目置かれている。
そして、天才として名高いメリルがアーノルドに惚れていることは、ロンドンの魔術組合本部では、周知の事実だった。ただしアーノルド本人を除いては。
このアーノルドという男、救い難いほどの朴念仁だったのである。眉目秀麗かつ有能な魔術師である彼を、魔女達が放っておくはずもなかったのだが。生粋の仕事人間である彼は、言い寄る女性陣を無意識のうちに玉砕させていったのだった。そんな彼に付いた渾名は、鈍感王、だ。例のごとく本人はそう呼ばれていることに、全く気付いてはいない。
「あの顔が私の理想を体現しているんだ。ああいうのを黄金比というのだよ」
「顔より性格のほうが重要だと思うけどな」
「ふっ。それは平凡な顔をしている君の負け惜しみさ」
メリルにそう指摘された武明は憮然とした表情をして、眼鏡を押さえる。
「平凡で悪かったな。しかしそれが一般論だろう」
「性格は付き合ううちに本性が出てくるかもしれないけれど、顔は決して期待を裏切らないぞ」
きっぱりと言いきるメリルに、武明は頭が痛くなった。どうすれば、こんな言葉が出てくるのか。ほんの少しアーノルドに同情する。
「……マスター、半パイント頼む」
武明はビールを注文する。その様子を眺めていたメリルは目を見開いた。
「やっぱり君も飲むんじゃないか」
「いや、お前の話を聞いていると、何故だか飲みたい気分になってきた」
武明はマスターからジョッキを受け取ると、少しずつ飲む。それから口を離して言った。
「だいたい、彼が奥方に先立たれていることは、お前も知っていただろう。子供がいることぐらい予測できたんじゃないのか」
「子供がいるのなら、もっと頻繁に家に帰るはずだ。彼はいつも本部に詰めているから、とてもそうは思えなかったんだ。しかしどうしよう」
メリルは下を向いて俯く。彼女らしくない意気消沈した表情に、武明は少し意外な一面を見た気がした。
「お前が、好きになった男に子供がいたぐらいで諦めるような人間だとは思わなかった」
「だって、子供が可哀相だ」
武明は、相変わらず彼女の思考回路は理解不能だと思った。
想い人のどこがいいのかと聞かれて、顔が好きだ、と臆面もなく言い切る豪快さと、父親に恋人ができた子供の立場を思いやる繊細さが同居している。
「問題はきっと思うよりも単純だな。アーノルドの子供に、お前が好かれればいいだけの話だ。そうすれば、諦めないで済む」
武明の無責任な言動に元気づけられたのか、メリルはゆっくりと顔を上げる。先程まで視点の定まっていなかった茶褐色の瞳は、いつもの光を取り戻していた。
「そうか。……そうだな。今日は付き合ってくれてありがとう」
メリルは穏やかに微笑して立ち上がる。酔っているとは思えないしっかりとした足取りで、彼女は踵を返した。入り口の扉が音を立てて閉まる。
一人取り残された武明は、小さく呟いた。
「さて、魔術組合本部の胴元によれば、この三ヶ月以内にメリルの想いにアーノルドが気付く倍率は百対一、だそうだが、若干変動するかもしれないな。今のうちに少し賭けておくか」
メリル・シェーラザードの恋路はなんと魔術組合本部では、賭けの対象になっていたのだった。
*
ロンドンの中心部、テムズ川の畔に、その建物は存在する。過剰な装飾を廃したお蔭で、何様式で建てられたのかさえ判然としない。その重々しい外壁の色だけが、重ねた年月を感じさせる。それは世界でももっとも優れた魔術師達が集う場所だった。魔術組合本部である。
その廊下を、衆人の注視をものともせずに、急ぎ足で進む一人の女がいた。メリル・シェーラザードである。文字通り風を切って歩き、彼女が足音を響かせるたびに、赤銅色の髪は、鮮やかに翻る。彼女が着ているのは、華やかな真紅を基調としたドレスだ。太腿の辺りまで、深くスリットが入っている。その開いた胸元に輝くのは、身に纏う服と同色の紅玉石だ。
魔術師達は、基本的に派手な装いを好まない。なぜなら、その存在は、世界から秘匿されなければならないからだ。とはいっても、魔術組合に所属する魔術師の正装ともいえる、古典的な黒ローブ姿をしている魔術師がそうそういる訳でもないが。
それでも、魔術組合の魔術師達の感性からすれば、現在のメリルの格好は、明らかにおかしかった。
――あれ、ランカシャーの魔女じゃないか? あの服、一体どういうつもりだ?
――確かに理の王、だよな。
彼女を目撃した魔術師達は、例外なく驚きに目を見開き、囁くように言葉を交わす。
メリルは、周囲の声にも気付かないほどに、自らの思考に没頭していた。
「ふふふふふ。一分の隙もなく、完璧だ」
何やらご満悦な表情で、メリルは一人呟く。
迷いなく階段を昇り、廊下の突き当たりにある一室の扉を、勢い良く開ける。
「アーノルド」
呼ばれて振り向いたのは、色素の薄い碧色の瞳をした、端正な顔立ちの銀髪の男だ。年の頃は三十に達しているかいないかというところだろうか。しかし、魔術師の年齢というのは一見しただけでは分からないものである。
「何の用です、理の王」
「魔術組合長が私に依頼してきた任務を、変更してもらえないだろうか」
メリルは、口元に艶やかな微笑を浮べる。
任務、というのは、魔術組合が、魔術組合に所属する魔術師に依頼する仕事のことである。一般的には、メリルのように高位にある魔術師は、任務を依頼されれば、断ることができないことになっている。実際には、何がしかの理由を付けて、任務から逃げ回る魔術師もたくさんいるのだが。
もし、依頼された任務をこなすことが自分には不可能だと思えば、任務変更を申請する必要がある。しかし、これはなかなか煩雑な手続きであり、何度も行う者はそうはいない。
アーノルドは不機嫌そうな顔を隠そうともせずに、こう聞いた。
「これで何度目ですか」
「うむ。五度目だ」
頷いて、馬鹿正直に答えるメリルに、アーノルドは呆れた視線を向ける。
「……私はあなたがここに来た回数を聞いているのではありません。それぐらいは私も把握している。私はいい加減、あなたに任務を選んでほしいと思っているだけだ」
「そうだな。次こそは、きちんと選ぶつもりだよ」
メリルはアーノルドのほうへ、手に持っていた書類をひらひらさせながら、ずずい、と身を乗り出した。何故だか、吐息がかかるほどの零距離である。
鼻腔を刺激する香水の匂いに、アーノルドは思わず顔を顰めた。それから半歩ほど下がる。
「この間も、あなたは同じことを言っていたと思うのですが、私の気のせいでしょうか」
「あくまでも希望的観測だから、任務依頼を見てみないと分からないな」
メリルはそう言って、アーノルドが距離を取った分だけ、また近付いた。それから上目遣いで、懇願するように目を潤ませながら、こう口にする。
「私からのお願いだ。次の任務依頼はなるべく簡単なものにしてくれないか?」
「今の魔術組合には、あなたみたいな高位階の人間を遊ばせておく余裕はない」
メリルの様子にも動じることなく、アーノルドはきっぱりと断言する。それから、メリルの手にあった書類を奪い取って、彼女に背を向けた。
「手続きはこちらで行っておきますので」
冷淡な口調でそう告げたアーノルドの背を見つめながら、密かにメリルは小さく嘆息した。
*
アーノルドは窓際に佇んで、はるか遠くに霞む時計塔が、十二時の鐘を鳴らす様子を、疲れたような顔をして眺めていた。
「また、理の王が、任務変更を要請してきた。彼女は一体何を考えている」
彼はメリル・シェーラザードの通り名を苛立たしげに口にしてから、色素の薄い碧色の眼を険しくさせて、手に持った書類に視線を落とす。
「落ち着きたまえ、アーノルド」
椅子に深く腰かけて苦笑しているのは、金髪をした壮年の男だ。彼の顔の中で、左目を覆う眼帯だけが異彩を放っている。彼は透徹したような蒼色の片目を、銀髪の男へと向けた。
邪悪なる瞳、あるいは賢者の蒼眼などと呼ばれる彼こそが、全世界の魔術師達の頂点に君臨する男であった。魔術組合の長、リチャード・バロールである。
「彼女には彼女なりの考えがあるんだよ。君もそれが分からないようでは、まだまだ青いな」
アーノルドは、顔を上げて少し眉を顰める。
「この間、海神の顎門にも似たようなことを言われました。見た目が私より若い彼にそう言われると、さすがに堪えます」
リチャードはアーノルドに向かって、穏やかに笑いかけた。
「人を見た目だけで判断するのは、魔術師としては問題ありだな。ああ見えて彼はこの魔術組合の誰よりも長く生きている」
「理屈では分かってはいるんですけれどね」
「いいや、君は分かっていない。物事の本質を見極めることが肝心だ。無駄に見える理の王の行動にも、きちんと意味はある」
「とてもそうは思えません。私の手間が増えるだけだ」
アーノルドは断定するように厳しい言葉を吐く。それに対して、リチャードは、聞き分けのない子供に言い聞かせるように、辛抱強く語り掛けた。
「君はもう一度、彼女の行動を考え直すべきだよ」
「そうですか?」
どこか腑に落ちないといった顔をして、アーノルドは首を捻る。彼はしばらく考え込むようにしていたが、何かを思い出すようにして、こう言った。
「それでは、失礼します。私はこの書類を提出して来なければなりませんので」
アーノルドが部屋から出ようと扉を開いたちょうどその時に、何故か口元を押さえている白髪の若い男が入れ替わるようにして、部屋の中に入ってきた。アーノルドは少し不審に思うが、丁寧に頭を下げて退出する。
リチャードは新たに入ってきた男へ、親しげに声を掛けた。
「やあ、ジョーズ・クリス」
白髪の男の通り名を海神の顎門、名前をクリスタロス・ヴァイナモイネンという。続けて言うとあまりにも長ったらしいので、彼は略してジョーズ・クリスと呼ばれることが多かった。彼もまた最高位階Iに達している魔術師であり、見た目は非常に若いが、魔術組合の生き字引とも言われるほどの古株である。
彼はアーノルドの後ろ姿が完全に消えるのを見送ってから、口元から手を離す。可笑しくて仕方がない、と言った感じで彼は満面の笑みを浮べた。
「まさしくあれは傑作だ。あの問題児の理の王がまさかあんな風になるとは。今日の彼女の格好を見れば、お前もきっと笑わずにはいられないよ。あの胸元の開いた服ときたら! こんなに愉快な気分になったのは、随分と久しぶりだ。リチャード、ほんとお前の部下は最高だな」
「まあ、彼のあれは今に始まったことじゃないけれど、あそこまで積極的なアプローチに気付かないのも、おかしな話だ。亡くなった奥さんはどうやって彼を射止めたのやら」
「聞くところによると幼馴染だったそうだ」
それを聞いたリチャードは沈痛な面持ちで言葉を発する。
「……多分苦労した挙句、早死にしたんだろうな。気の毒に」
「全くだ」
クリスタロスは同意して頷く。リチャードは話題を変えるように、努めて明るい口調で言った。
「で、例の賭けだが。君はどっちに賭けたんだ?」
「もちろん、理の王が玉砕するほうに十ポンドだ」
クリスタロスは何の迷いもなく、即答した。
「やはり君は堅実だな。しかし世の中何が起こるか分からないものだ」
「私に博打の才能は皆無だから、確実なほうを選ぶさ」
「君はリスクヘッジのためのオプションですら否定するタイプだからなあ」
心底呆れたような顔をするリチャードに、クリスタロスはむっとして聞き返す。
「そう言うお前はどうなんだ、リチャード」
「君と同じほうに二十ポンド賭けている。アーノルドの性格はいつも側にいる私が一番熟知しているからな」
リチャードは至極当然といった風に、あっさりとそう言い放つ。
「……報われんな、理の王も」
やれやれ、と言った様子で、クリスタロスは天を仰いだ。
*
メリル・シェーラザードは顔中に渋面を浮べながら、一人ぶつぶつと呟いていた。
彼女が座っていたのは、ロンドンの魔術組合本部の地下にある食堂である。時刻は昼を少し過ぎて、人気は既に少ない。しかし時折、行き交う魔術師達はちらちらと彼女のほうに視線を向ける。それもそのはず、彼女の服装は非常に人目を惹くものだったからだ。身体のラインを敢えて強調するような、真紅のドレス。彼女は首を傾げながら、茶褐色の瞳を物憂げに細める。
「ううむ。おかしいな。確かにこの本の通りに行動したのだが、何が悪かったのだろうか」
彼女の手にしている本には、『How to make every man fall in love with you(世の男性を貴女の虜にする方法)』などというタイトルが書いてあった。睨み付けるようにして開いたページを見ながら、文字を指でなぞる。
「そんなハウツー本に頼るから駄目なんですよ」
彼女にやんわりと頭上から声を掛けたのは、手にコーヒーカップを持った女だった。ぱっと見た感じでは、年齢は定かではない。亜麻色の髪を特徴的なまでに長く伸ばしており、黒曜石を思わせる瞳は、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。
「ソフィア」
ソフィアと呼ばれた彼女は、魔術師の中でも特異なドルイドだ。誓約を重んじ、森と共に生きるケルトの魔術師。メリルと同じ位階であり、緑なす深淵の通り名を持つ彼女は、メリルに対して同等に接する数少ない魔女だった。
「彼に正攻法が通じるとも思えません。あれだけ鈍い人間というのも、私は見たことがない」
「やっぱり君もそう思うか」
メリルは小さく頷き、顔を上げてソフィアへ問うような視線を向けた。
「だが一体どうすればいいんだ」
ソフィアは椅子をひいて、メリルの隣に座る。
「あなたお得意の言霊で、彼を操るとか」
「私の言霊では人の心までは支配できない。それにそんなことをすれば、かえって嫌われるだけだ」
コーヒーに一口付けてから、深く息を吐いてソフィアは答えた。
「彼の周囲の人間を味方に付ければいい。まずは外堀を埋める必要があります」
「将を射んと欲すればまず馬を射よ、ということだな」
「あまり聞き慣れない言葉ですが、まあそういうことになりますね」
ソフィアの言葉を検討するように、メリルは顎に手を添わせる。
「しかし、彼の一番身近な人間といえば、魔術組合長、ということになる。アーノルドより万倍も厄介な相手だぞ」
「アーノルドに実は子供がいた、という話はあなたも聞き及んでいると思います。あなたが彼の子供に好かれれば良いのではないですか」
メリルは腕を組んで、考え込むような仕草をする。
「そう言えば昨日の夜、武明も同じことを言っていたな」
「あの死者の恋人と全く同じ意見、というのも何だか癪に障りますね」
眉を顰めて見せるソフィアに、メリルは咎めるような口調で言った。
「君も死霊術師が気に入らない類の人間か? 君がそんな偏見を抱くとは意外だった」
「いえ。私は単に彼個人が苦手なだけです。彼にはどこか得体の知れない所がある」
メリルは不思議そうな顔で、ソフィアを見返した。
「そうか? あれは結構単純な人間だと思うがな。まあ、君の意見はいろいろ参考になったよ。ありがとう。試してみる価値はありそうだ」
メリルが席を立ち去るのを見送って、ソフィアは小さく嘆息する。
「……しかし、このやり方でも、あのアーノルドの気を惹くのは、なかなか難しいでしょうね。私はどちらに賭けるべきでしょうか。彼女を応援したい気持ちはありますが」
ソフィアはそう呟いてから、残っていたコーヒーをゆっくりと口に運んだ。
*
「ここまで歩くのはさすがに疲れた。彼の家は、どれだけ不便なところにあるんだ」
メリル・シェーラザードは、赤銅色の前髪を掻きあげ、額の汗を拭いながら独りごちた。日は中天にあり、明るく緑の丘を照らす。一日のうちでも、もっとも気温が高くなる時間帯だ。彼女は朝からずっと歩き通しだった。空を飛ぶ鳥が、足元の草むらに影を落とすのを眺めながら、立ち止まって大きく息を吐く。
ここはイングランドの北端、スコットランドと国境を接するカンブリア地方であった。
彼女の出身地であるランカシャー北部だって、十分に田舎だ。しかしさほど深い山奥という訳でもないのに、十キロ以上も歩いて人っ子一人いないということには、彼女も少々驚いていた。
「運動不足の解消には、もってこいだけれど。転移魔術で無理に来ずに、レンタカーでも借りて来れば良かったかな」
彼女がわざわざ何キロも徒歩で歩いているのには、理由があった。それは、彼女が転移魔術を用いてこの地に来たからである。転移魔術とは、魔術師のよく使用する移動手段で、遠隔地を一瞬のうちに行き来することを可能とする魔術であり、非常に便利な代物だが、この魔術には一つ大きな問題点があった。それは、座標と時刻を記した魔法円というものを、転移元と転移先の両方に設置しなければならないという点だ。つまり、魔術師のいないところには、跳べないのだ。魔術師が転移魔術で移動するときには、通常、知り合いの魔術師に頼むか、魔術組合経由で、移動したい場所の近くに住んでいる魔術師に依頼するかのどちらかの手段をとる。
今回彼女が取った手段は後者だったのだが、転移できた地点は目的地から二十キロも離れた場所であった。それでも、人口密度の低いこの地に、彼の他に魔術師が住んでいたことは、僥倖といってもいいだろう。
メリルは地図を取り出して、現在の位置を確認する。あと数分もすれば、アーノルドの家に着くはずだ。後もう少しだと自分に言い聞かせて、歩を進める。
そうやって、しばらく歩いていると、どこかから人の声がする。訝しく思ったメリルは声のしたほうへと視線を向けた。
大きく枝葉を広げた楓の木の幹に凭れかかって、本を広げて朗読している銀色の髪をした人物がいた。
光の加減で顔は見えないが、まだ幼い少年だろう、というのは遠目にも分かる。
「おい、そこの少年」
声を掛けてみるが、返事は返ってこない。メリルは何となく悪戯心を起こして、彼を驚かせてみたくなった。歩いていて人の姿を全く見かけなかったので、多少人恋しくなっていたのだ。
メリルは口の中で、短く呪文を詠唱した。
「大いなる精霊よ。我が姿を消せ」
それだけで、メリルの姿は周囲に溶け込むようにして消える。彼女は容易にそれをやってのけたが、姿隠しの魔術は、地味な割に非常に難易度の高い呪文であった。
そっと少年の後ろから近付いて、彼の読んでいた本を取り上げる。
「うわっ」
驚いたのか、その少年は薄碧色の目を大きく見開いて、素っ頓狂な声を上げた。
自分の試みが成功したことに満足して、メリルは魔術を解除する。そして人懐っこい笑みを少年のほうへと向けた。
「やあ、村の少年A」
少年は驚愕で固まっていたが、しばらくしてこう言葉を発した。
「……おばさん、誰」
「少年。私のことはお姉さんと呼びたまえ。たとえ心の中で、酷い年増だと思っていたとしても、だ。それが処世術というものだよ」
いきなり現れた人物に説教紛いのことを言われた銀髪の少年は目を白黒させる。
黙ったままの少年に、メリルは重ねて問い掛けた。
「この辺りにアーノルドという男の家があるはずなのだが、知らないか、君」
その問いに、銀髪の少年はこう返した。
「アーノルドは僕の父さんだけど。父さんは滅多に帰ってこないから、ここにいても無駄だと思うよ、おばさん」
最後の一言を、あえて嫌味ったらしく言う少年に、メリルは眉を顰める。
「ううむ。これが例の馬か。これを射るのは案外難しいかもしれないな」
何やら訳の分からないことを言っているメリルを、銀髪の少年は訝しげな顔で眺めた。
「何言ってるのさ、一体。ともかくその本、返してくれない?」
銀髪の少年はメリルの手にある本を取り返そうとして、手を伸ばすが、メリルはそれを軽々と避けて、本を渡そうとはしない。彼女は本の開いたままのページへと、視線を落とす。そのページには、次のような英詩が記されてあった。
"Up with me! up with me into the clouds!(私を連れて、雲の中まで昇ってゆけ)
For thy song, Lark, is strong;(雲雀よ、お前の力強い歌で)
Up with me, up with me into the clouds!(私を連れて、雲の中まて昇ってゆけ)
Singing, singing,(歌えや、歌え)
With all the heav'ns about thee ringing,(お前の周りのあらゆる天に鳴り響かせながら)
Lift me, guide me, till I find(私を引き上げ、導いてくれ)
That spot which seems so to thy mind!"(お前の心が分かるところに達するまで)
「雲雀に寄せて。君はワーズワースを読むのか」
その詩に付けられたタイトルに目を向けながら、メリルは銀髪の少年に聞く。
「まあね。母さんはワーズワースを読むのが、この地に住む者の義務だって言ってたから。その詩は結構好きなほうかな」
「しかし、ワーズワースと言えば、郭公のほうが有名だろう。雲雀の詩が好きなんて、ちょっと変わってるんじゃないか?」
メリルの言葉に、銀髪の少年は少し表情を曇らせた。
「僕は郭公はあんまり好きじゃないんだ」
その様子を見たメリルは不審気な面持ちで、銀髪の少年を見据える。
「どうして」
「だって、郭公ってさ、他の鳥の巣に自分の卵を産み付けて、代わりに育ててもらうんだよ。ご丁寧にその鳥の卵まで蹴落としてさ。そんなのって無責任だと思う」
メリルは得心したような顔で、首を縦に振る。
「……ふむ。確かにその通りだ。よくよく考えてみれば、母親を早くに亡くしたかの詩人が、郭公を讃えているのも変な話だな」
「で、おばさん。それ返してよ」
少年は先程と同じように、また手を伸ばして、メリルから本を奪い取ろうとする。それを軽くあしらいながら、メリルはにやりと人の悪い笑みを浮べる。
「私のことをお姉さん、と読んでくれたら返してあげてもいいぞ」
銀髪の少年は、実に嫌そうな顔で、渋々とこう口にした。
「分かったよ、お姉さん」
その様子を見たメリルは満足げに頷いて、少年の頭をぽんと叩いた。それから本を少年に向けて差し出す。
「よくできました、少年」
銀髪の少年は半ばひったくるように、メリルの手から本を取った。
「ねえ、こっちが譲歩したんだから、お姉さんも、僕のことを少年って呼ぶの止めてくれない」
メリルは首を小さく傾げる。
「名前を聞いてないから、他に言いようがないな」
「そう言われれば、そうだね。僕はエックハート。って、父さんの知り合いなら、姓は知ってるか。ティル・エックハートだ」
「ふむ。ティル・エックハートね。なかなかいい名前じゃないか。では、ティル。私の名は、メリル・シェーラザードだ。以後よろしく」
メリルはとっておきの笑顔で、自己紹介をした。
*
ティル・エックハートと名乗った銀髪の少年は、緩い傾斜の坂道を歩いていた。坂道の両側にはヒースが鮮やかな緑色をして生い茂っている。メリルはその後を追うように、足早に歩いた。
しばらくして、ティルは一旦足を止め、後ろに振り向いた。彼は顔全体に渋面を浮べて、メリルを見据える。
「お姉さん。どうして僕に付いてくる訳?」
「いや、せっかくここまで来たんだから、君の家を見てみたいな、なんて思って」
「……父さんの家、だろ?」
丘の上に立っていたのは、随分とこじんまりとした建物だった。急勾配の切妻屋根と煙突が印象的な石造りの家だ。ティルはその家の扉にゆっくりと手を掛ける。
家の中も、外側と同様に簡素な造りになっていた。けれども、その白く塗られた内装はどこか暖かさを感じさせる。入ってすぐに目に付くのは、木製の大きなテーブルだった。メリルはその真ん中に置いてある写真立てを、何となく眺めてみる。
見慣れたアーノルドの顔に、今よりももっと幼い目の前の少年。そしてもう一人。その女性は穏やかな顔をしてこちらを向いていた。
その女性を美人だな、とメリルは少し羨ましく感じる。
家の入り口近くで立ちつくしているメリルに、ティルは声を掛けた。
「お姉さん。そこ、座っていいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
メリルは言われた通り、椅子に座る。ティルは家の奥にある戸棚から、コップを取り出しながら、尋ねた。
「お湯を沸かすのには少し手間が掛かるから、悪いけど、オレンジジュースで我慢してくれる?」
「別に構わない。無理に押しかけたのは私のほうだし」
ティルは手早くオレンジジュースをコップに注ぎ、メリルの前に置いた。そして、聞く。
「で、お姉さんは父さんに何の用だったの?」
用があるのはアーノルドではなく君にだ、とメリルは心の中で思うが、正直に話す気にもなれない。誤魔化すように、若干歯切れの悪い言い方になってしまう。
「魔術組合の仕事のことで、ちょっと話があって」
「お姉さんも、やっぱり魔術師なんだ。まあ、予想は付いてたけど」
嘆息してそう口にするティルを、メリルは意外そうに見つめる。
「もしかして、君は魔術師をあまり好きじゃないのか? 魔術師の息子の癖に」
「父さんが魔術ばっかりにかまけているから、家に帰ってこないんだよ。魔術師っていうのは、魔術以外はどうでもいい人種なんだ」
「違う! アーノルドは、決してそんな魔術師じゃない。彼は本当にどうしようもなく鈍いけれど、魔術のために、周りの人間がどうなってもいいと思うような無神経な人間じゃない。そんな人間なら、そもそも私が好きになる訳ないだろう!」
勢い良く言ってしまってから、メリルは顔を赤らめた。
思わず感情的になって声を荒げてしまったことを、ほんの少し後悔する。
「お姉さんは父さんが好きなんだね」
その年頃の少年らしからぬ、諦念に満ちた投げやりな口調に、メリルは一瞬戸惑い、黙り込む。束の間の沈黙の後、メリルは重々しく口を開いた。
「……ティル。君は父親が嫌いなのか」
「さあ、分からない」
ティルは自嘲するように、口元を歪める。
「分からないって、どういう意味だ」
「以前は好きだった、と思う。母さんが死んでから、どうも父さんは僕を避けている気がする。だから、分からないんだ」
その言葉は、質問の答えにはなっていなかったが、メリルは何となく彼の言わんとすることが分かるような気がした。人間は、自分に向けられている感情を、そのまま相手に返すものだ。特に、まだ幼い子供のうちは。
しかし、とメリルは大きく溜め息を吐いて、思う。まさか、あのアーノルドがこんな問題を抱えていたとは。人は本当に見かけによらない。おそらく彼は自分の息子を見るたびに、亡き妻を思い出して、どう扱っていいのか分からなかったのだろう。けれども、これでは私に全く勝ち目なんてないじゃないか。死んだ人間相手なんて、どう考えても分が悪い。
ジュースにも口を付けず、憂鬱な顔をして、考えを巡らせるメリルに、ティルは訝しげな視線を向ける。
「どうしたの? お姉さん」
「いや、なんでもない。君はこんな所にずっと居て、寂しくないのか?」
メリルの問いを聞いたティルは、先程とは打って変わって、穏やかな笑みを見せた。
「僕はここが好きだから、それほど苦にもならないね。どちらかと言えば、楽しんでおくぐらいの心積りで過ごしてるよ。どうせ、来年になれば、ここを離れなきゃならないから」
「どういうことだ」
続けて問い掛けるメリルに、ティルは苦笑する。
「父さんはこの家を引き払って、僕を魔術学院に行かせるつもりなんだよ。あそこには寮があるからね。僕は別に魔術師になりたいと思ってはいない。だけど、他にやりたいことがある訳じゃないから、僕も父さんに強く反論することはできない」
「なるほどな」
メリルは納得したように、大きく頷いた。魔術師の社会とは、その性質上、閉鎖的になりがちである。魔術師の存在は、一般の人間には知られてはならないのだ。だから、魔術師の息子は、魔術師になるのが普通であって、この年頃の魔術師の子弟は、魔術師の養成所である魔術学院に通わされることが多い。
「まあ、この環境で羽根を伸ばしていられるのも、今のうちかな」
「ふむ。君は本当に自然が好きなんだな、小鳥くん」
メリルの言葉の意味が分からなかったティルは、不思議そうに首を捻った。
「何だって、お姉さん」
「ツィポール。ヘブライ語で、囀る小鳥、という意味さ。空高く飛んで囀る雲雀の詩が好きな君に、ぴったりじゃないかね?」
からかうように笑いかけるメリルに、ティルは面食らって口を噤む。少し経った後に、彼はゆっくりと話を切り出した。
「……お姉さん」
「ん? 何だ?」
メリルは訝しく思って眉を跳ね上げる。ティルはそんな魔女に、こう忠告した。
「人に変な渾名を付けるのは、止したほうがいいと思うよ」
「ううむ。これが私の生き甲斐なのだがなあ」
メリルは腕を組んで、唸るような声を上げた。
*
その後、メリルはティルと当たり障りのない会話をして、別れた。アーノルドとの関係改善において、ティルの援護射撃は期待できそうにない、とメリルが判断したためだ。この二人の親子関係は、どうやら良好という訳ではないらしい。
行きと違って、帰りはアーノルドの家から魔術組合本部に転移魔術で跳躍すればいいだけなので、メリルは早々にロンドンへと辿り着くことができた。
魔術組合本部の地下食堂で、早めの夕食でも取って帰るか、と思い、階段を降りて、食堂に入ったところで、メリルは思いがけない人物が椅子に座っているのを見かけた。銀髪が印象的な男。アーノルド・エックハートである。
メリルはその横に陣取って、彼に話し掛けた。
「アーノルド」
「何ですか、理の王」
メリルへと向き直ったアーノルドの顔は、どこか憔悴して見えた。それを見たメリルは、励ますようにこう告げる。
「随分と疲れているようだな。たまには家に帰ってゆっくりしたらいいんじゃないか」
「何を言っているんです。あなたが、私の仕事を増やしている張本人じゃないですか」
そう言われると、メリルも返す言葉がない。しばらくの間、二人の間を静寂が支配する。
重々しい沈黙に耐え切れなくなったメリルは、ゆっくりと口を開いた。
「……実はな」
「何です」
先程と同様のそっけない返事が返って来る。メリルはなけなしの勇気を振り絞って、言った。
「私は君のこと――」
「はい?」
色素の薄い碧の瞳が、問うように向けられる。その視線を受けたメリルは、酷く動揺してしまった。彼女の心臓は早鐘を打ち、握り締める手は汗でびっしょりと濡れる。一呼吸置いた後に、メリルは、一気に早口でこう捲くし立てた。
「君のこ、子供のことが気になってな。うむ。あの年頃の子供を放っておくのは良くないぞ。君から魔術でも教えてやったらどうだ」
「……は?」
メリルが唐突な話題を振ったことに驚いて、アーノルドはしばし硬直する。はてさて、理の王は、どうして自分の息子のことを知っているのだろうか。
「来年には、魔術学院に通わせて、しかるべき教育を受けさせるつもりですが。あなたは私の息子のことを、誰から聞いたのです」
メリルはその問いに、数瞬口篭った。まさか、ついさっき家に行って会ってきた、と言う訳にもいかない。
「……ジョーズ・クリスから」
嘘ではない。アーノルドに子供がいることを魔術組合中に吹聴して回ったのは、情報通のジョーズ・クリスこと、海神の顎門、クリスタロス・ヴァイナモイネンである。
「そうですか」
アーノルドは頷いて、顎に手を添わせながら、考え込むような表情を見せる。
「やはり、魔術学院に通わせるだけでは、不十分でしょうか。誰か著名な魔術師にでも、弟子入りさせるべきか」
「いや、そういう訳じゃなくてだな」
メリルはもごもごと、はっきりしない口調で言葉を紡いだ。アーノルドはそれを全く聞かずに、自らの思考に没入してゆく。
「それには、弟子を募集している魔術師を、調べてみる必要がありそうですね」
アーノルドは、脳裏で自身の考えを具体的に検討し始めたようである。
その様子を傍で眺めていたメリルは、ふとあることを思いついた。それを彼女はそのまま口に出す。
「待て。私で良ければ、君の子供を弟子に取ってもいいぞ」
その発言に、アーノルドは度肝を抜かれた。若くして魔術師の最高位に登り詰め、天才として名高い彼女に、師事を求める魔術師も決して少なくはなかった。それを若輩者だからといって、ことごとく断ってきたのは、彼女である。果たして、どういう心境の変化だろうか。
アーノルドは、いかにも心外だ、といった表情で、メリルの顔を覗き込む。
「まさか。……あなたが?」
目を逸らしつつも、メリルははっきりと答えた。
「そうだ」
「本当に?」
「ああ、うん」
顔を近づけて再び問うアーノルドに、メリルは言葉を返す。
今度は少しばかり歯切れが悪かったが、確かに肯定の返事だ。それだけ言うと、メリルは何故だか逃げるようにして、慌ててその場を立ち去る。後にはアーノルドだけが、呆然とした面持ちで取り残された。
*
「マスター、もう一パイントだ!」
時刻は夜十時。がやがやと喧騒かまびすしいロンドンの酒場で、一際甲高い声を響き渡らせながら、半ば自棄気味にビールを注文するのは、赤銅色の髪をした魔女、メリル・シェーラザードである。この間以上の勢いで次々とジョッキを空にしていくメリルの様子を、隣に座っている黒髪の男、西武明は、爆笑しながら見つめている。
「くくくっ! ははははは!」
メリルに事の顛末を聞いた彼は、笑みを堪えるのに必死であった。その目には涙さえ浮べている。赤銅色の髪の魔女は、射殺しそうな目で、武明を睨み付けた。
「笑い事じゃないぞ、異常愛博士」
「ちょうどいいじゃないか。お前、Iの癖に弟子を取ってなかったんだし」
「まあ、それはそうだけど。どうしてあんなことを言ってしまったのか、自分でも分からないんだ」
武明は目に湛えた涙を、指で拭いながら苦笑する。
「二人っきりになって、前後不覚になったんだろう。しかし、お前はアーノルドの息子を、紫の上にでもするつもりか」
「紫の上?」
片眉を上げ、不審気な面持ちでメリルは武明を眺める。その反応を見た武明は、誤魔化すように曖昧に笑った。
「意味が分からないならいい。我が故郷日本の伝統文学だ」
「日本の伝統文学、ねえ」
メリルはしばらくの間、疑問に満ちた顔付きをして武明を見たが、注文したビールが渡されると、それを一気飲みしていく。
「しかし、どうやら今回の賭けは、概ね予想通りの結果に終わりそうだな。まあ、来年に期待することにするか」
武明はビールをゆっくりと飲みながら、メリルに聞こえないように小さく呟いた。
<蛇足以外の何物でもない何か:番外編>
○魔術組合本部の地下食堂。
椅子に座っている銀髪の魔術師が、立ち上がって、挨拶をする。
ティル「えー、はじめまして、の方は、はじめまして。毎度こんにちは、な方は、こんにちは。このコーナーの主にして、この話の影の主人公であるティル・エックハートです」
通りかかった赤銅色の髪をした魔女が、その様子を見やる。
メリル「ふむ、我が愛しき馬鹿弟子よ。誰に向かって喋っているのかね」
ティル「し、師匠。何でこんなところにいるんですか!」
メリル「当然、これが私の話だからに決まっているだろう」
ティル「はあ、そうですか」
メリル「ところで、二人とも本編と微妙に話し方が違うのは何故、とか読者に突っ込まれる前に言っておくと、このコーナーの時間軸は本編よりも十年以上進んでいるのだ」
ティル「なんて不親切な……まるで一見さんお断りな話みたいじゃないか」
メリル「ふふふふふ。時空を超越した素晴らしき感動秘話、と言ってくれたまえ」
呆れた表情をするティル。
ティル「感動秘話なんですか、師匠。感動するところなんか、ありましたっけ」
メリル「麗しき師弟はいかにして出会ったのか、という話だよ」
ティルはメリルに聞こえないように、ぽつりと小さな声で呟く。
ティル「……要するに、師匠が将を射んと欲して馬しかゲットできなかった話だよねえ」
メリル「何か言ったか? 可愛い小鳥くん」
ティル「なんでもありません」
メリル「さて、同一筆者による『災厄の魔術師』の十一話以降を未読の方は全く分からないと思うのだが、このコーナーは作中の名言ネタを解説するために、存在するのだ」
ティル「どうして、あの話で出番のない師匠がそんなことを知ってるんですか」
メリル「聞くだけ無駄というものだ、我が愛しき弟子よ」
ティル「そうですか……調子狂うなあ、全く」
深々と溜め息を吐くティルを横目に、メリルは一冊の本を取り出してあるページを開く。
"Up with me! up with me into the clouds!(私を連れて、雲の中まで昇ってゆけ)
For thy song, Lark, is strong;(雲雀よ、お前の力強い歌で)
Up with me, up with me into the clouds!(私を連れて、雲の中まて昇ってゆけ)
Singing, singing,(歌えや、歌え)
With all the heav'ns about thee ringing,(お前の周りのあらゆる天に鳴り響かせながら)
Lift me, guide me, till I find(私を引き上げ、導いてくれ)
That spot which seems so to thy mind!"(お前の心が分かるところに達するまで)
メリル「さて、今回は、言葉の価値だ。作者が言霊使いの君のために、今まで使わずに取っておいた名言ネタだよ」
ティル「ええと、今回の話でワーズワースが引用されたのは、単に駄洒落なだけじゃなくて、僕が昔住んでいたのが湖水地方のすぐ近くだったからなんだよね。湖水地方と言えばワーズワース、ワーズワースと言えば湖水地方、ってくらいにこの両者の結びつきは有名だとは思っているんだけど、もしかしたら、地元出身の僕しか知らないかもしれないので、一応解説しておこうかな……師匠、よろしくお願いします」
メリル「ふむ。そこで私に振るのか」
ティル「師匠に花を持たせたんですよ」
メリル「なるほどな。まず湖水地方とは、イングランドの北西部、カンブリア地方一帯の丘陵地を指す。北はスコットランド、南はランカシャー地方に接し、その名の通り、大小の湖が存在する自然豊かな土地で、まあ一大観光地だ。そして十九世紀の詩人、ウィリアム・ワーズワースが愛し自らの詩に詠んだ地として有名だな。彼は母親と早く死に別れ、この地の自然を友として育った。彼の好きな鳥は郭公だったが、今回引用されているのは、雲雀の詩だ。これは『Poems in Two Volumes(二巻の詩集)』に収められている詩、『To a Sky-Lark(雲雀に寄せて)』の冒頭部分だな」
ティル「師匠、ありがとうございます。ええと、そう言えば、作者からのメッセージがあったな」
そう言って、ごそごそと懐から一枚の紙を取り出すティル。
メリルはその紙を横から覗き込んで読み上げる。
メリル「なになに、『読者の皆さん。上の詩は作者が適当に訳したので、いろいろまずいかと思いますが、英語の読める方は原文を読んで堪能してください』、か。まあ、詩の翻訳は難しいからな。どんな名翻訳者でも、脚韻を訳すのはまず不可能だ」
ティル「英語能力よりも、むしろ日本語能力が試されるよね……」
小さく嘆息するティル。
メリル「さて、読者の皆さんへ、感謝を。ああ、良ければ私が少し出ている『薔薇戦争』も読んでくれると嬉しい」
ティル「ちゃっかり宣伝してますね、師匠」
メリル「私の出番は基本的に少ないからな」
ティル「では、ここまで長い文を読んでいただいて、ありがとうございました」
ティルが礼をした後に、照明が落ち、幕が降りる。