思考停止嗜好症 ―単純化とどう向き合うか―
「話を簡単にしちゃダメ」
内田樹氏のエッセイを読んでいたら、そんなことが書いてあった。
「絶えざる前言撤回によって、漸近線的には近づくけれど、決して十全には記述できない何かが『わがうちにある』と言う違和感、つまり『隔靴掻痒』性こそが人間を人間足らしめている根源的な要件ではないか。」
この文章には、本当に強く共感した。これこそ、私が常日頃から思っていたことだ。
私は何かを言葉で表現しようとする事が好きだ。説明しようと、解明しようとする事が好きだ。
それは自分で感じた事、考えた事、疑問に思ったこと、そして分からないこと……様々な事について、私は考えるのをやめようとはしない。
しかしたいていの場合、私の仕事は完成しない。「完成しない」と言うそのもどかしさが、また私に語らせる。新しい言葉で、さっきよりももう少し正確に、丁寧に「完成」に近づこうとさせる。
ときには私は「語る事が出来ない」と言う事実を述べる事で、一見匙を投げるような形をとることで、語ろうとすることもある。英語にもそう言う表現がある。beyond description、言葉に出来ない。
そんなあの手この手を使ってでも、私は少しずつ少しずつ、真相に近づこうとするのだ。そしてそのたびに、少しずつ自分のことを知っていくような気がする。自分の中で何が起り、何を感じ、何を考えていたのか。そう言う事を自分自身に説明して行こうとする行為だからこそ、私はそれをやめられない。
未完成だと思いつつも、私は今日も「今日の私の言葉」で語る。「今日の私」に語れる最大限を。
「世界は思ったよりずっと簡単だ」と言う言葉が、私は大嫌いだ。
この言葉を見ると大声で「違う!」とそう叫びたくなる。だって世界はこんなにも難しくて、だから私達は悩んでる。一生懸命考えて、悩んで、だけどわからない。自分の感覚に嘘をついても仕方ない。難しい。
例えば「世界を難しくしているのは他ならぬ自分自身だ」と主張する人がいるとする。それは確かに、ある意味で正しいかもしれない。だけどそれは「世界は難しくない」と言う事にはならないでしょう。だって、貴方も、私も、その世界の一部なんだから。違いますか?
世界は簡単だと主張する人、その人が振りかざす伝家の宝刀、それが単純化。本当は難しい事をばっさばっさと切り落とし、角を切り取り丸くして、ほらこんなにも分かりやすいって……嘘じゃないか、そんなの。
単純化。単純化は怖い。それはスケールを小さくし、理解を助ける事ではない。それが物事の一部を切り落としてしまう以上は本質ががらりと変わってしまうというリスクすら孕んでいる。
単純化の手順を、逆に辿ってみよう。拙いながら例を作ってみる。
「AさんはBくんの誕生日にプレゼントを贈りました。Bくんに喜んで欲しくて、一生懸命選びました。しかし、Bくんはそれを開けることもなくすぐにゴミ箱に捨ててしまいました。Aさんはそのこと知ってショックを受けましたが、Bくんのことが本当に好きだったので、それを許すことにしました。気に入らないものを選んでしまった自分にも問題があったのだろうと思い、もっと彼の事をきちんと知ろうと考えました。」
これを読めばまず誰でも、Bくんは何て酷い人なんだ!と感じてしまう。一般的に、他人から貰ったプレゼントを開けもしないで捨ててしまうというのは非情な行動に見える。少し単純化を解いてみよう。
「Bくんには他にCさんと言う彼女がおり、Aさんはそれを知りながらBくんにしつこくアタックをかけていました。」
この情報だけで、少し事情は変わってくる。もしかしたらBくんは、Cさんとの関係を尊重するために、他の女性からのプレゼントを受け取る事を拒否したのではないだろうか。それにしてもすぐに捨てる事はないかもしれない。受け取ってから捨てる、と言うのもやり方が良くない。それは確かに、否めない。では次は。
「AさんはBくんとCさんを別れさせる目的で、何度もCさんを脅迫していました。Bくんに対しても、Cさんの悪い噂を流したり、何度も家に押しかけたりしていて二人はAさんのことを本当に迷惑だと思っていました。彼女の行為は度を超えており、警察に相談するべきではないかと言う話まで出ていました。そして、彼女のプレゼントは食べ物でした。Bくんは怖くて、食べられませんでした。」
ここまで情報が出揃えば、もはや誰もBくんを責めようとは思わないだろう。物事の様相はもはや一変している。こんなの後出しだ!と言われるかもしれまないが、まさにその通り。後出しに過ぎない。でも、私達は普段最初の一個だけ、つまり単純化の最終段階だけを提示されて、最後まで「後出しすらしてくれない」状態のまま終わらせられている、そう言う風には考えられないだろうか。
もちろん、後出しされて痛い目にあうことだってあるのだが……
でも単純化は全否定できない。私達は単純化なしで生きられない。全ての事をつぶさに、詳細に受け止めて、そのままの姿で扱うには、あまりにも時間と労力がかかりすぎるから。
じゃあ結局どうするんだ。そう感じるかもしれない。結局何だかんだ言っても単純化に頼るしかないじゃないか!その通り。私達は単純化に頼って生きていく、そう言う生き方しか選べない。
でも違う。それで終わりではない。単純化の利便性と共に、その恐ろしさを「知って」おかなければならない。いつも頭の片隅で「今私は単純化の落とし穴に片足を突っ込んでるんじゃない?」と、そう自分に問いかけ続ける。
それは手間がかかる。わずらわしいと思う。だけどそうしなければ、いつ大きな過ちを犯すか分からない。
私達はこの厄介な隣人と上手に、慎重に付き合っていくしかない。
どうしてそう言う単純化は、そしてそれを信じる思考停止は私達にとってこうも魅力的なのか?原因は大きく分けて、二つあると思われる。
一つ目は、それが私たちの無力感を慰める事。
世界は難しい。それは先にも述べた。人間がこの世に生まれてから非常に長い時間、我々は歴史と言うものを積み上げてきた。その上で、複雑に絡み合ったシステムが様々な形で発達してきた。文明、文化、社会、風習、政治、経済……その一個一個が複雑なシステムは、人間の「生活」と言うものを軸にしてこれまた複雑に絡み合う。難しくないはずがない。
私達はその中で、誰とも違う生を送る義務を与えるのだ。さあ頑張れって、その複雑怪奇な世界に放り出されて。たまったもんじゃない。そこで私達は、何度も挫折や絶望に直面する事になるだろう。不安もあれば解消できない疑問に苛まれる事もある。それはとても辛い。そう言うものは私達に無力感を与える……
だから、それを慰める。そう言う単純化の作用は、思考停止の作用は、自然と気持ち良いと受け入れられる。考えないといけない事のいくつかに(ときとしてほとんどに)目を瞑り、一応の整合性を確保する。「ほらほら大丈夫、こんなに簡単なんだ。理解したでしょ?ほら君にも出来た」そういうお手軽な安心感を与えてくれる。
考えるのは疲れることだ。私達はいつも、思考停止を求めてる。食べログ3.5以上のお店に行けばまず間違いないし、迷ったら一番売れてる商品を買っておく。ベストセラーを読んで、視聴率が一番良いドラマを見て、ヒットチャートのCDを聞けば良い。それが一番幸せだ。
二つ目の理由、それは「世界は"本当は"こんなにも簡単だ」と言うその論理の中に、悪人の姿を想定できるという事だ。
我々は常に、不満を抱えて生きている。不満を持たない人間と言うのは非常に珍しい。そのような恵まれた人には無縁の話なのかもしれないが、不満と言うのは一つの出口を求める。不満の原因を、諸悪の根源を探すのだ。誰が悪い?自分か?あいつか?
そう言う時に飛び込んでくる「世界の真の姿」と言うもの、その単純化された姿と言うものがまるで曇り空を晴れ渡らせるかのように視界を開かせる。パーッと、色々なものをクリアに感じる。そうか!今まで分からないと思っていたもの、難しいと思っていたもの、そんなのごまかしだったんだ!こんなに明快な真実は、誰かの手によって隠されていたんだ!
隠していた誰かが、悪者なのだ。そしてそれは多くの場合、強い立場を持つと考えられる人間と結びつけられる。政治家、官僚、資産家、専門家、学者……
彼らが本当に強い立場を持っているかはともかく、彼らのような「人物像」は、陰謀の黒幕にはピッタリの存在だ。
「自分には分からないと思っていた難しい会話を交わす人達、あの人達が騙していたんだ!本当は簡単な事を難しく言って!本当はこんなに簡単なのに!」
ここに上下での対立構造が生まれる。一般大衆は、ある種の先導者によって「啓蒙」される。そして彼らは「知識階層」に対して、反感を募らせる。「そうだったのか!」と分かった気になって「良い質問ですね」と誉めそやされて、おだてられ、乗せられて、思考停止させられて、事実と偽り解釈を、解釈と偽り主張を飲み込まされて……
繰り返しになるが、世界は本当に難しい。何千年も前から人間は、沢山の知恵を絞ってきた。古代ギリシャの時代から、沢山の天才がこの世に生まれ、沢山の思想を残していった。人生を捧げて考え抜いた。今だって、そうやって学んでいる人達が大勢いる。研究してる人達が大勢いる。私たちが逆立ちしても敵わない人達が、人生捧げて、束になってかかって、それでも解けない問題ばかり。そんな世界。
そう簡単じゃあないでしょう。
それじゃあどうするか?やっぱり世界は難しい……私達には無理だ……私はそうじゃないと思う。
私の意見は先にも書いた。始めの話に戻ろう。
私は思考停止をしないこと、これを信条にするべきだと思っている。少しでも考え、少しでも真実に近づこうとし、他人の意見は鵜呑みにしない。100%つっぱねるのも、また思考停止……それは表裏が違うだけ。
考えて、考えて、とにかく考える。昨日の自分よりも少しだけ、本当の事に近づく。それで良いと思う。完成することなんて、完全に理解する事なんてない。何千年かけても出ない答えが、私のたった数十年の人生で出る訳がない。だけどそれは、戦わなくて良いということではない……
人間は考える葦だ、と言うのはパスカルの言葉だ。考える葦。考えなければ、ただの葦。
多分今の時代、考えなくても生きてはいけるんだと思う。思考停止していても、多分何とか、生きてはいける。今更何を言うんだという感じかもしれないが、恐らくそれが事実だ。何より国が「何も考えないで生きていけるように」と制度を整えたのだから。
だけど私は、より人間でいたい。人間らしくいたい。だから考えるのだ。自分の限り或る人生を最大限に使って、どこまでも、誰よりも、人間らしくなるために。
内田樹氏の言葉は、どちらかと言うと表現する事についての言葉でした。
しかし私はその「表現する」と言うことは「理解する」ということとも表裏一体だと考えているので、どちらかと言うと「考える事」に主眼を置いて文章を書きました。それによって、論点がずれてると感じた方がいらっしゃったら申し訳ないです。
多分いつもより、更に見苦しい文章を書きなぐってしまったと思います。
上手くきれいにまとまりませんでしたが、皆様の少しでも考えるきっかけになれば……