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サユリの心の中の大部分を占めるのは、今も昔も“ナホ”だ。
オレ達が小学4年生の夏、学童保育にやってきたバイトの指導員。
犬と猫でいえば、ネコの顔をした、一見近づきにくい感じの面立ちのナホ。優しくて、怒るとすこぶる怖くて、からかっても笑って流してくれて、かなり気の利く彼女は子供たちのお気に入りだった。
その中でもサユリとカレンは、特にナホに懐いていた。
中学の時も、高校になってからも、何かと言うと二言目には「ナホが」とサユリは言う。
オレだってナホには懐いている方だ。高校生になった今も、部活の後にナホの家に寄ったりするくらには。
でも。あまりにもサユリが、ナホ、ナホばかりだから、オレはナホが嫌いだ。
それをどれだけ態度に出してみても、サユリには睨まれるし、ナホの中では「かわいいなぁ」で済まされてしまうのがなんとも言えない。
***
「え、私は☓☓教育大学、受けるけど?」
高校3年も間近に迫った部活帰り、珍しく一人で歩いているカレンを見つけて、捕まえた。
進路調査票、なるものが配布されたからだ。
カレンから進路の話が出たのを聞いたことがなかったから、何も決まってないものだと思い込んでいた。
サユリとセイジは、ずっとナホのいる○○大学を目指して、しのぎを削っている。リリコは早々にヘアメイクの専門学校へ進むことを決めているようだったし、ダイキも専門学校とか言っていた気がする。カオリはすでに、東京の大学への推薦を視野に入れている。
あれ、何も決めてないのはオレだけか。
「教育大学…?」
「そう。幼稚園教諭の資格、取ろうと思って」
「よーちえん…」
似合う、と思ったことは言わなかった。
カレンは呆れたような顔をして、呆然とするオレの肩をぽんと叩く。
「リョウタがなにしたいのか知らないけど、2年生から期末の点数もそこそこだし、死に物狂いでサユリ追いかけてみたら?」
ばれてる、と心の中で舌打ちをして、オレはカレンを睨み付ける。オレの怖い顔なんか屁でもないですよ、というように涼しい顔をしたカレンは、よいしょっとカバンのストラップを肩に掛けなおす。
これからナホのところに相談に行くから、じゃあね、とウキウキしながら去って行った。
サユリを追いかける。
つまり、サユリと勉強をすればいい。
それもいいかも、と思ったオレの頭は、きっと相当単純な造りをしているんだろう。
***
高校の廊下で、まさかオレが座り込むとは思わなかったんだろう。
サユリは半分は恥ずかしさ、残りの半分は面倒くささで顔を歪めながら、オレの勉強を見てくれるという約束をくれた。相変わらずサユリと一緒にいるカレンが、後ろで必死に笑いをこらえて肩を震わしていたのを、オレは見ないふりをした。
オレだって、ちょっとは恥ずかしかったんだ、これでもさ。
そして、高校3年の1学期の期末テスト。
オレの点数は、やっとこさ順位表の10位に手が届いた。
その代りにサユリの順位は3位まで落ち込み、狙っていたかのように、順位表の一番上にはセイジの名前。またもカレン、サユリ、セイジ、オレの4人で示し合わせたかのように並んで順位表を見上げ、セイジきもい、とカレンがやっぱり妖怪でも見るような顔をする。
セイジが勝ち誇ったような笑顔でサユリを見下ろし、サユリが悔しさに唇を噛んでいる。
「俺、ぜったい毎週金曜日にナホん家行くから」
セイジは輝かんばかりの笑顔で、サユリに向かってそれだけ言うと、さっさと背を向けて教室へ戻っていった。あーあ、と苦笑するカレンと目が合う。
あれ、これってオレのせい?
おどけてそう言えば、カレンが向こうで、あちゃーっと頭を抱える。サユリは射殺さんばかりの目でオレを睨んだ。
「リョウタ如きに勉強教えていたくらいで、点数下がるとか」
この瞬間、サユリの体からボッと立ち昇る炎が見えた。という、オレとカレンの意見が一致した。正直怖すぎて、オレの毛の生えた心臓でさえ止まるかと思った。
くるりと踵を返したサユリが睨んだ先には、随分と優しい表情で携帯電話を覗き込んでいるセイジがいた。
サユリの視線をまっすぐ受けられるセイジが、羨ましかった。
オレのことは、見てもくれないのに。
センターは絶対負けない、とサユリが呟いた声は、いやにはっきり聞こえた。
***
はぁ、とサユリのため息が聞こえる。
顔を上げれば、サユリは赤ペンを握って窓の外の闇を見つめていた。
「なぁ、サユリさぁ…」
図書館の窓に、向かい合って座るオレとサユリがくっきりと映っている。ガラスに映るさかさまの時計は、7時半。
窓の中で、ゆっくりと顔を上げたサユリとオレの視線がぶつかった。
「金曜日にナホん家行かないのってさぁ…」
サユリの瞳が揺れた。
そこにオレは、いない。その両目には、セイジとナホ。
「セイジが、」
セイジがナホを好きだから?
そんなセイジが、サユリは好きだから?
「……リョウタ」
吐き出すように呼ばれた。サユリの目が伏せられて、オレは窓の中から視線をはがした。まっすぐ前を向けば、サユリはそこにいる。ぱたん、と参考書が閉じられた。
「約束、だから。」
センターまでの金曜日、とサユリは早口で言って、赤ペンをペンケースに戻す。静かな図書館に、サユリが動く音だけが響く。
「もう暗いから帰ろう」
おもむろに立ち上がったサユリは、まだ座ったまま動けもしないオレを見下ろしながら、ポンとペンケースをカバンに放り込んだ。
はやくして、と言ったサユリは、オレを置いて図書館の出口へと歩き出す。
たとえサユリの目にオレが映らなくても。たとえサユリが、他のだれが好きでも。
今は、この状況を作ってくれたセイジに、すこしだけ感謝だ。
「ちょっと、待てよー」
あわてて追いかけるオレに、サユリは肩越しに視線を投げた。
センター入試まで、あと少し。
お読みいただき、ありがとうございます。
なぜか男性視点の方が、さくさくと筆が進みます。