はじまり
プロローグ
「惨劇」
それは、こういうことなのだろうなと、どこか他人事のように考えている自分がいた。
机や椅子などで塞いだ扉の向こうからは、誰のものなのかは疎か、男女の区別さえもつかない喚き声や叫び声が間断なく聞こえてくる。
足元に伝わってくる地響きのような音からだけでも、外にいる人々が必死に逃げ惑い、廊下を我先にと駆けていく様が覗い知れる。
ただ一方で、壁に何かを大きく打ち付ける音や、割れ物が勢いよく砕ける音、金属が擦れ合う音―それらが一体何をしている音なのかは分からない。
ただ分かることは、それらの音が徐々にこの部屋に近づいてきているということ。
そしてそれが、何か得体の知れない、恐ろしいものだということだ。
喉元にせり上がってくる恐怖を何とか堪えようと、目の前のに立つマリアの袖をぎゅっと握りしめた。
「…もう、ここも時間の問題でございますわ…」
マリアは意を決したように振り向くと、胸元から彼女の掌ほどの大きさの小袋を取り出し、私の手に握らせた。
滑らかな赤いシルクの生地に、獅子と薔薇の刺繍が金糸で施してある。
「これを持って、できるだけ遠くへお逃げください。決して…決して戻ってきてはなりませんよ。これは、いざという時にお使いください」
「これは―」
「ぎゃあぁぁーーーーーー」
扉のすぐ外から響いた断末魔の叫び声が、私の言葉を遮った。
「さあ、早く!そちらへ!」
「…!」
マリアは戸惑う私たちの背中を押しやり、強引に部屋の右奥の壁際へと追い立てた。
そうして自分は、そのすぐ傍にある柱時計に駆け寄ると、長針と短針を半時計周りに動かし始めた。
「マリア…あなた一体―」
12時25分。
カチッと鍵がかかるような音がしたかと思うと、私たちの正面にあったはずの壁がぐっと奥へと凹み、音もなくゆっくりと横にスライドした。
人一人なら何とか通れそうな隙間の奥は真っ暗で何も見えない。
存在は知っていたが、使うのは初めてだ。
「ここから続く階段をまっすぐ降りれば外に繋がっているはずです。お二人はそこから―」
「マリアは?…マリアはどうするの?」
どうしても震えてしまう声でそうきくと、マリアの頬がこわばった。
「…わたくしは…」
「おい!!この部屋から話し声が聞こえるぞ!」
「!!」
鋭い声が上がったかと思うと、扉の向こうに複数の靴音が集まり、ガチャガチャとドアノブが乱暴に回される。
続けて、今度は扉に体当たりでもしているのか、ドンッという低い音と共に部屋が大きく揺れ始めた。
「早く!もう時間がありません!」
「でも―あっ!」
さらに言い募ろうとしたところで突然マリアに突き飛ばされた。
「姉上!」
後ろに倒れる私を支えようと手を伸ばした彼と一緒に、暗闇の中に勢いよく倒れ込んでしまった。
ただ、覚悟したほどの痛みはなかったのでそっと目を開けると、柔く温かな感触が私を包み込んでいた。
「…っ!」
「…!大丈夫?!」
身を呈して衝撃から守ってくれた彼の胸から即座に起き上がると、その無事を確認する。
「…はい…僕は大丈夫です…」
彼はそう言ってゆっくりと起き上がると、庇う時に強かに打ち付けたであろう背を抑えながら、無理に笑ってみせた。
「…こんな時にまで無理をして…」
彼が心配をかけまいとする時にいつも見せるその顔に手を伸ばしたその時、彼の顔を照らしていた部屋の光が、徐々に細くなっているのに気付いた。
ハッとして振り返ると、扉である壁が閉まるところだった。
「待って、マリア!」
もはや半身さえも通らないほどの隙間から叫ぶと、微笑みを浮かべたマリアが姿を見せた。
まさに今閉まろうとしているその扉は、中からは絶対に動かせない作りになっていることを私は知っていた。
そして、それは勿論マリアも知っていたはずで―つまりは、きっとそれが、先ほど聞けなかった彼女の答えだったのだろうと思い至る。
「どうか…どうかお二人に神のご加護を…!」
「マリア!嫌だ!」
「姉上、危ない!」
咄嗟に手を伸ばした私を、後ろにいた彼が痛いくらいに強い力で引いた。
再び背中から倒れるようにして彼の胸に受け止められ、伸ばした手の向こうで、青白い顔に微笑みを浮かべたマリアが消えていく。
「マリアっ………!」
引き止める彼の手を無我夢中で振り払って縋り付いた扉はしかし、ザラザラとした石造りの、ただの壁になっていた。
「マリア……」
足の力が抜け、その場に膝をつく。
突如放り出された暗闇の中は冷たく、静かだった。
嫌でも澄ましてしまう耳には、外の音はおろか、隣にいるはずの彼の息遣いさえも入ってこない。
それはもしかしたら、唯一の救いだったのかもしれない―マリアの悲鳴を聞かずに済んだのだから。
「…いききましょう、姉上」
どれくらいそうしていたのだろうか。
突然の呼びかけには、咄嗟に答えることができなかった。
「…」
「…いききましょう。それが、今僕たちにできることです」
「…」
彼は何も答えない私の腕を掴んで立たせると、その存在を確かめるように強く手を握った。
「僕たちは生きてます、姉上」
「…私たちは…生きてる」
「そうです…生きましょう…」
彼の手を握り返すと、彼はもっと強く握り返してくれ、私を先導して暗闇の中に築かれた階段を降り始めた。
この城はおろか、自室からも殆ど出たことのない私が向かう「遠く」とは一体どこなのだろうか。
想像しようとすると、自然と身体が小刻みに震え、奥歯がカタカタと鳴る。
この震えは、寒さに凍えているせいだけではない。
なぜ、自分たちの城なのに逃げなければならないのだろう。
これまで城から出ることも許されなかったのに、今はどこにだって行ける。
自分たちの国なのに、追われるように出て行かねばならないなど…なぜこんなことに…。
これで誰に何を言われることもなく、外の世界を知ることが出来る。
だが、私はこんな形を望んでいたのだろうか?
浮かんでは消えていく考えの中で、たった一つだけはっきりした形のものがあることに気付く。
「みんな…みんな、いなくなればいいのに…」
それは、生まれて初めて感じた憎しみ―目の奥が熱くなり、吐き気がするほどの―だったのだと思う。
「…必ず取り戻しましょう。この城を…いえ、この国を、僕たちの力で…」
「…お前…」
目の前にある―今は暗闇でよくは見えないが―彼のアッシュグレーの髪を見つめた。
「あの愚かで、忌まわしい土民から…僕たちから全てを奪った野蛮な者達から国を取り戻し、きっと後悔させてやりましょう」
その堅い声音から、彼の気持ちが痛いほどに伝わってきた。
「…ええ…そうね…」
気づけば、自然と笑みがこぼれていた。
彼も同じ気持ちであることに、心の底からの安堵を感じて。
私は一人ではない。
「必ずや復讐を果たしましょう、姉上」
「お前がいれば…二人でなら、きっと何でもできる…」
復讐―それは私が初めて外の世界で学んだ言葉だ。
繋いだ互いの手を熱くし、暗闇での悴むような寒さを忘れさせてくれた、甘く美しい、残酷な言葉。