静かなる幕開け
この日、湘南ベルマンスのホームスタジアム、『平塚sippuuスタジアム』には、スタジアムを埋め尽くすほどの客が来場していた。客の大半を占めていたのはもちろんホームサポーター集団である『湘南応援隊』だ。
今日の彼らはいつになく緊張した面持ちだった。それは皆分かっていたからだ。この試合が、湘南ベルマンスが昇格するための大一番だということを。
現在湘南ベルマンスは現在8位。昇格プレーオフへの参加が現実的な目標であるが、そのためにもライバルである4位のアウローラ伊勢FCをここで倒さなければならない。チームの大一番を応援するために、湘南ベルマンス公式のサポーターグループである『湘南応援隊』のほとんどのメンバーが駆けつけていたし、湘南の街中からクラブの大一番を見守ろうとたくさんの観客が集まっていた。
そんな観客たちの熱気に茹だるスタジアムに、選手たちが入場していく。選手入場の応援歌は、湘南を代表する日本のバンド、サザンオールスターズの『希望の轍』だ。湘南ベルマンスの選手たちの全員が湘南出身と言うわけではないが、湘南ベルマンスというクラブと地域との繋がりを感じさせるこの曲に、いつも何か熱い気持ちが込み上がっていた。無論、クラブの象徴たる草加もそうだった。
入場を終えた選手たちが互いに握手を交わし、それぞれの陣地へ散っていく。観客の異様な熱気とは打って変わって、ピッチではピリピリとした緊張感が漂っていた。試合はその熱気とは裏腹に、静かなスタートとなった。
* * *
試合はホームの湘南ボールで始まった。キーパーを混じえた最後尾でボールを動かしながら、ジワジワとディフェンスラインを押し上げる湘南。
一方で、伊勢は積極的なプレスを仕掛けていた。前線の選手もハードワークを厭わずにボールを追う。ここ最近のアウローラ伊勢FCの戦術は、プレスから始まる。とにかく前でボールを奪って速攻を狙う。キックの精度が高い選手が揃い、安定したゴールゲッターがいるため、この戦い方はチームにマッチしていた。
「ヒデさん!パス!」
「ほいっ!西田、もうちょいライン上げっぞ!」
最後尾でボールを回すのは、湘南のバンディエラコンビの坂東と西田。長年、同じクラブでプレーするこの2人はお互いを知り尽くしている。そのためなのか、パスを専業とするポジションではないものの、2人のパス交換がズレることはなく、重波の果敢なプレスを受けながらも冷静にディフェンスラインを押し上げていった。
「ヒデさん!下さい!」
そこへ中盤から下りてきた宝村がパスを要求。要求通りに坂東が宝村へパスを送ると、宝村はそれを右サイドの草加にダイレクトで展開した。
草加にボールが渡ると、湘南サポーターのチャントの声が大きくなった。皆、ようやく戻ってきた10番のプレーが待ち遠しいらしい。草加はボールを受けると、そのまま前へ前進する。すると、すぐに伊勢左サイドバックの西貝が距離を詰めてきた。
「なんだ。今日はあのカモルーキーじゃないんだな」
「残念やったな。完全復活はまたの機会になるわ」
両者共に煽り合い、睨み合う草加と西貝。守備の名手西貝と草加のマッチアップが始まる。
「こっちだ!草加!」
「えっ!?」
「フッ、よろしくユザ(湯里)」
その寸前、草加のいる右サイドラインの外から右サイドバックの湯里が、2人を抜いてサイドを駆け上がった。草加はそれに一瞬気を取られた西貝の股を抜くスルーパスを出し、自身は中央へと走り出した。2人のマッチアップ、最初の一戦は草加に軍杯が上がった。
「待てコラ!」
「ユザ!もう1回!」
「おう!」
「あっ。ヤバい!ゾノさん!」
「うっしゃ!」
湯里を追いかけた西貝を嘲笑うかのように、湯里からフリーになった草加にボールが渡る。ボールを受けた草加に、すぐに松園がボール奪取に向かうが、草加は松園が奪いに来る前にパスを出した。緩いグラウンダーのスルーパスは、松園がボールを奪いに前に出て出来たスペースへと向かい、そこへ我浜が颯に体を寄せられながらもスペースに走り込んできた。
完璧な決定機。我浜は、草加のスルーパスをトラップせずに直接右足でキック。強烈なシュートはゴールバーからボール一個分程の隙間を貫かんとしたが、そこは巣山が左手一本でビッグセーブを見せ、いきなりの先制点とはならなかった。
「っあー!惜しい!」
「オイオイ。いきなりやられるかと思ったよ。ゾノ!西貝!もっと落ち着いて対応しろよ。」
「悪い!焦った!」
「すいません、ジョーさん!」
この決定機を作らせてしまった2人に声をかけた巣山だったが、内心では伊勢一のフィジカルを誇る颯に体を寄せられながらも、強烈なシュートを左隅に正確に蹴りこんだ我浜に警戒心を強めていた。
(噂以上に面倒くさそうじゃねーの。鹿島の秘蔵っ子はよ。)
試合は湘南のコーナーキックから。草加のキックを坂東がドンピシャのヘディングシュートを放って、あわや決定機という場面だったが、シュートは惜しくもゴールバーの上を行き、ゴールキックからの再開となった。
巣山のキックが伊勢側右サイドへと到達。これを競り合ったのは今日右サイドに入っている鬼柳ではなく紀則。紀則が猿飛と競り合ってこぼれたボールを鬼柳が拾い、一気にサイドチェンジ。左サイドの金丸にボールが渡る。
「ウシャ。行くで〜」
ボールを受けた金丸は、明らかにドリブルで仕掛けますといった攻めの雰囲気を醸し出していた。相対するは先程面白い上がりを見せた湯里。攻撃に比重を置く湯里だが、1対1のデュエルでも割といい対応をする。
「ほら、来いよ。ドリブラー」
「ほなら、遠慮なく」
右半身に重心を置いて半身の体制で構える湯里に対し、金丸はまず急加速で湯里が待ち構える右側から抜こうとして見せる。湯里も食らいつこうと自身の左側に駆け出す金丸にタックルを仕掛けに行く。
しかし、この動きはフェイク。金丸は仕掛けてきた湯里からボールを避けるように左足で自分の後ろ側へ動かし、自らもボールと一緒に半回転して前を向く。つまり、ルーレットで湯里を躱して見せたのだ。
「はい!俺の勝ちィ!」
「クソ!ルーレットとか舐めやがって!」
躱された湯里も簡単に諦めはしない。湯里を抜いて空いた左サイドのスペースを突く金丸に必死に追いすがる。だがそれでも、この勝負の軍配は金丸に上がる。
「行くで!シゲちゃん合わせてよ!」
金丸は湯里に追いつかれても構わず、低弾道の速いクロスをペナルティエリア前へ入れる。このプレーは湘南DF陣の虚を着いた。
「マジかよ!西田!マーク外すなよ!」
「!ヒデさん!前!」
金丸のアーリークロスに対し、西田に声をかけてマークを確認した坂東だったが、マークの確認が必要だったのは自らの方だった。
「ぬおっ!?重波!?」
「……フン!!」
一瞬よそ見をしたのを見逃さずに、坂東の前へ飛び出してきたのは元日本の至宝・重波。遅れて跳んだ坂東を意にも介さずバックヘッドでクロスを逸らす。
「ナイスヘッド!シゲちゃん!」
逸らしたボールに飛び込んだのはまさかの雅。スライディング気味に飛び込んで、右足でボールを蹴った、というか右足にボールを当てた。
しかし、ボールは枠の外へ飛び、この試合初のチャンスを決めきれず。だが、サプライズの連続でこの攻撃に全く対応できなかった湘南守備陣は呆然としていた。
金丸のアーリークロス、重波のバックヘッドに雅の飛び出し。そのどれもが、以前の伊勢にはなかった攻撃だった。
(これが今の伊勢。前半戦とはまるで違うチームだぜ。こりゃしんどい試合になるな。)
シュートに全く反応出来なかった本堂は、心の中で警戒心を強めながら鬼神の如く憤怒の表情で「簡単にやらせてんじゃねえぞボケカス共!」と怒鳴った。
対照的にシュートを外した雅は、両手を合わせて舌を出し、「ごめんねシゲちゃん」と軽い態度で謝っていた。
「……次はないっスよ」
「怒ってる?怒ってる?ゴメンねシゲちゃん」
「怒ってないっス。あとシゲちゃんやめてください」
呆れ顔の重波に対し、雅はしつこくごめんねと言って絡み続けていた。
兎にも角にも、こうして両者共に熱の入った一戦の幕は開けた。静かな幕開けから一転、試合は始まりから両クラブ共が決定機を作り出し、一歩も譲らぬ激しい戦いが繰り広げられようとしていた。