伍代克樹の昔話
※この物語はフィクションです。この物語に登場する団体名・人物名などもすべてフィクションです。
「俺はサッカーが好きで好きでたまらない。世界なんて関係ない、俺は俺だ。」
重度のサッカー馬鹿で、平行世界にスリップした新井川未と、仲間たちが日々サッカーに、友情に、恋愛にすべてをかける物語である。
世界から忘れられた選手がいる。大阪市東住吉区の長居競技場をホームとした、J1に所属するセレステ大阪の監督である伍代克樹はそう思った。
クラブハウス内の監督室へと向かう途中、ふと、あの選手がいたらなぁと考えてしまったところであった。
だが、あの選手はこの世にはおらず(と言っても、死亡した、というわけではない。)、自分がサッカー選手としてプロ生活を始めた頃にいなくなった。今では、あの選手のことを完全に覚えているのは自分しかいない。その謎は今になっても変わらない。
監督室の前につき部屋に入ると、伍代はすぐに部屋の中央にあるパイプ椅子に腰かけた。その前の机のあるデータに目を通しながら、あの選手の記憶を脳内から引きずり出していた。
物語は二十年前にさかのぼる。
当時、Jリーグがスタートして間もないころであった1996年、最強のチームとして君臨していたヴィリジス川崎は世代交代の波が来ていた。主力であった伝説のブラジル人ストライカー、ビリー・ボストンが引退し、日本代表のエース、重波義一が台頭してきた頃である。
その頃、伍代は20歳で大学でサッカーをしながら、プロを目指していた。そんな頃、一人の選手がヴィリジス川崎に入団する。ヴィリジス川崎U-18から昇格した17歳のボランチ、新井川未だ。
伍代が彼に注目しだしたのは、入団二年目の第四節、浦和レンディル戦。前節に足首の剥離骨折で負傷離脱した正ボランチ、羽根野清に代わって出場した新井は、若さを感じさせない的確なマークと、正確なパスでチームを牽引した。だが、何より驚かされたのが、その戦術眼と、まるで未来予知のようなパスカット技術である。浦和の選手のパスをどこからともなく颯爽とあらわれ、ボールをかっさらい前線へと送るその姿は、伍代を惹きつけた。
新井はドンドン成長していった。怪我から明けても調子の上がらない羽根野からレギュラーを奪うと、ヴィリジス川崎の攻撃と守備、どちらにも欠かせない存在となる。
また、当時の監督のウィルニーズから絶大な信頼を受け、たまにキャプテンを任せるほど彼のことを認めていた。それに加えて、ウィルニーズの戦術と新井のプレースタイルが絶妙にシンクロしていた。
元レギュラーの羽根野はどちらかというと攻撃的なプレースタイルで、ボール奪取に長けているものの、攻撃こそ最大の防御という持論を持っていて、タメを作らずキラーパスを出したり、自分でドリブルする方が得意な選手だった。
ウィルニーズがボランチに求めていたのは安定感であり、タメを作れてそれでいて高精度のパスを供給することだった。新井はウィルニーズの理想のボランチ像であった。その年、新井は2得点14アシストで最優秀若手選手賞を受賞した。
その次の年、1998年、伍代はジェラー市原シティでプロキャリアをスタートさせた。彼はプロの練習についていくために、次第に好んで川崎の試合を見に行かなくなった。だが、新井を注目するのだけはやめなかった。