廃墟の雨
たくさんの雨粒が、僕の部屋の中に降り注いだ。
もちろんこれは比喩表現などではない。文字通り、雨は僕の部屋の中へと降り注ぎ、柔らかい毛で覆われたカーペットを濡らしていた。僕の部屋には屋根がなかった。僕がこの部屋を与えられたときから、すでにこの部屋には屋根がなく、また僕にしたところで、屋根がなくとも特に問題がないと思っていた。なぜ人は雨に濡れるのを嫌がるのだろうか。体温が奪われるから? 服が濡れるから? どちらも問題ではないね。死に関わる問題でない限り、多くの問題は僕にとってはどうでもいい。だから、僕の部屋に屋根などいらなかった。
この部屋、もといこの家は僕の父が建てたものだった。
父は廃墟巡りをするのが趣味であり、世界中の廃墟を見て回っていた。そもそも父は定職につかずに、主に廃墟巡りしかしていなかった。それだけが彼の生きがいであり、人生のテーマだった。しかしここで一つの疑問が浮かぶはずだ。廃墟巡りに限らず旅をするにはお金がかかるもの、定職にもつかない人間にどうして旅をする金がある? あなたはそう思うかもしれない。しかし父にとって、その心配をする必要など全くなかった。父は地主の息子であり、何もせずとも金は入って来たし、その金を転がして持続させると言うことは、少しばかり頭を使えば難しいことではなかった(むろん父はその金転がしを他人に任せて、自分は廃墟を巡っていたわけだけれど)
母と父が出会ったのは、廃墟巡りを通じてインドを旅していた時だった。
インドには、世界で初めて出来た廃墟と呼ばれる「マトゥージャ・ミルカダ」という名の、廃墟マニアにとっては聖地とも呼べるスポットがあった。そこで父と母は出会ったらしい。このマトゥージャ・ミルカダはもともとは宮殿だった建物だが、今では風化し過ぎていて、ただの岩の塊と、草や苔が生い茂る場所(少なくとも僕にはそう見えた)になっている。
なにせ宮殿自体は紀元前三千年に建てられたものなのだ。既にそれは建物としての体を為していないし、廃墟と呼んでいいのかも怪しい。しかしこの廃墟はブッダの息子、ラーフラのお嫁さんが住んでいた宮殿らしく、何故かその時代にここだけが取り壊されずに、自然に浸食されながらずっと後の時代を見守り続けてきたと言われている。辺りはとても美しい草原が続いていて、爽やかな風が吹く午後には、波のような美しい草の揺れを見る事が出来る。羊たちが自由に草を食み、太陽がゆっくりと傾いていく。とても穏やかな気持ちになれる。ここには一度行ってみる事をお勧めする。
話が逸れてしまったが、マトゥージャ・ミカルダで二人は意気投合し、その日のうちにミルカダでセックスをし、一週間後に結婚した。そして僕を産んだ。このように書くと二人は本当に馬鹿みたいな人物に思えるが、事実なので仕方がない。
しかし、勿論のことながら、子供が出来れば必然的に家庭というものを作らねばならなかった。が、父は各地を旅して一所に留まる生活をしていなかったために、自らの家を所有していなかった。だから我々家族には、家が必要だった。家庭を作るための家だ。
父はもちろん普通の家に住むことを拒否した。
だから父は、普通の人では想像もできないような発想をするに至った。
――廃墟を建設して、そこを我が家にしよう。
これには誰もが絶句した。もちろん母も同様だった。
そもそも廃墟を建設するとは、どういう事だろう。建設された建物が使われなくなり、そのまま放置されて自然に呑み込まれていくのを、我々は廃墟と呼んでいたはずだ。
父は早速信頼できる建築家たちを呼び寄せ、廃墟を建設するために各方面に申請をすることにした。しかし勿論、申請を受ける立場の彼らはお役所仕事をする人々であり、頭が固いことが仕事であったから、廃墟を建てることなど認めはしなかった。
以下の文が、彼らの見解だ。
――基本的に、景観を著しく損ねる建物を建設することは認められません。新築であるのに窓ガラスが割れていたり、一部の部屋が崩れてしまっていたり、ライフラインが整備されない家と言うのは論外です。建てることは認められません。
息子の僕が言うのもなんだが、彼らの主張はとても正しいものだった。多数的で、社会常識に適っていて、至極正論だった。
勿論父としては、彼らがそんなことを言うとは思っていなかったらしく、彼らのその言葉に怒り狂った。
父は、彼らと徹底的に戦うことを決めた。
デモンストレーションをすることを決めたのだ。
ちなみに、デモンストレーションには大きく分けて二つの意味がある。
――一、抗議や要求の主張を掲げて、集会や行進を行い、団結の威力を示すこと。示威運動。
――二、宣伝のために実演すること。
この二つの意味の内、どちらを父が実行したか。
答えはもちろん、
二つとも実行した、だ。
まず廃墟マニア仲間を集めて、父たちはデモ行進を行った。父がデモを行ったその時代、 つまり二〇一二年は、ネット規制をされた現代とは違い、多くの人がインターネットを嗜んでいた。彼らは面白いことがあるとすぐに飛びついて、その情報を拡散したり、自らのブログに書き込んだりしていた。
勿論、廃墟を立てたいと言う父の(馬鹿げた)行為は、ネット住民たちの格好の餌となり、面白がった彼らによって「廃墟を立てたいって男がデモ行進してるぞwww」などと言う感じで、日本中に父の行為が広められる結果となった。
それは、しかし思わぬ効果を生んだ。多くのネット住民が(大半は周りに合わせたり、面白がってだろうが)父に味方して、日に日にデモの人数が増えていったのだ。そして各地で同じようなデモが行われることとなった。それは社会現象となり、情報番組などでも話題にされるまでになっていた。彼を擁護するコメンテーターまでもが多くあらわれた。
「彼のこの行為は、現代文化への警鐘なのでは、と私は思うんですね。不景気な現在、無意味に多くの似たような施設が立ち、商店街を風化させたり、また個人の便利な暮らしのために建てられた建物に、税金が使われたりしている。
そんな中で街中に、廃墟を建てる。これは、お前らがそういう物を建てるのなら、俺だって意味のない廃墟という建物を建てていいだろう? つまりデモを行う彼は、現在に次々と建てているのは、廃墟同然のゴミみたいな建物だって言ってるわけですね。だったら最初から廃墟を建ててやろうじゃないか、と考えているのではないでしょうか。
これはある意味で、芸術的ですよね。もしかしたら、流行るかもしれませんよ。廃墟を建てることが。そこに住む人だって現れるかもしれない」
父はデモ行進を続ける傍らで、ついに実際に廃墟を建設してしまった。まだ許可を得ていないにもかかわらずだ。それが二つ目の意味でのデモンストレーション。つまりは実際に廃墟を建てて、周りに宣伝する意味でのデモンストレーション。宣伝と言うか、まぁ父はそのような言葉を使っていたけれど、僕から見れば軽い犯罪としか思えない。もちろん父は逮捕された。何の刑だったかは教えてもらってない。
しかし父が逮捕されても、何故かデモは続けられていた。もちろん日本国民の多くは廃墟デモにすぐに興味を失って、また新たなニュースへと飛び移っていったのだけれど、廃墟建設に関するデモは、しかし多くの外国人が興味を持つこととなった。きっかけは父のデモ行進がユーチューブと呼ばれる動画サイトにアップされた事だった。最初に幾人かが興味を持ち、この男は何のデモをしているんだと、コメントした。それに気が付いた日本人が、こいつは廃墟を建てたいと言って、それを認めてもらうためにデモを行っている、と書きこんだ。
それからアートに関心を持つものや、廃墟好きな外国人、さまざまな人が興味を持ち、それに伴って世界中で多くの議論が交わされることとなった。
そもそも世界遺産のほとんどが廃墟ではないか、廃墟とは我々の歴史の証人であり、私たちが二度と過ちを行さないようにするための戒めでもある。
また、こう言った意見もあった。廃墟とは前衛芸術である、廃墟ほど人々の心に訴えかける作品はない。廃墟とは精神の具現化であり、退廃の象徴、人間が向かう先である。
そんな意見がちらほら出てき始め、外国では、アーティストが実際に廃墟を作り始めるまでに至っていた。
廃墟作品や、作品を作る過程などを撮った動画がユーチューブにアップされ、その廃墟の余りの素晴らしい出来に、多くの人が感動し、涙し、廃墟というものに興味を持つ人が着実に増えていった。
フランスの有名アーティスト、ミシェル・コルトリーニが創った『廃墟を継ぐ者』と言う作品は、動画再生数、一億三千万という驚異的な再生数を叩き出した。
『廃墟を継ぐ者』と言う作品は、多くの廃墟が連なって出来た、巨大な作品だった。広大な平野に作られた作品なのだが、これは紀元前から連なる各時代の廃墟を模して、それを順番に並べたものである。例えば石器時代の廃墟では、藁の家が朽ち果てたような建物が建っており、その時代に使われた物を模した破損物などが置かれている。各時代特有の文明の廃墟を作りだし、それを入り口から順番に観客は見ていく。旧石器から始まって、メロウィング朝時代、カペー朝時代、ブルボン期、フランス革命期へと続いていく。もちろんすべてが廃墟であり、歩きにくいし、突然建物が崩れたりする。
その他にもアメリカのジョン・ラッセルが創った『死んでいく希望』。
これは何十年も見捨てられた学校の廃墟に、たくさんの奴隷の死体(を模した人形、かなり精巧でビックリする)を置いたり、たくさんの朽ち果てた拷問器具を置いたり、子供の頭部(これも作り物)、たくさんの血の跡があったり、ガスマスクや、銃(すべて壊れている)、そう言った刺激的な物をたくさんちりばめて、廃墟作品を作り出している。この人の作品も人気だった。パイオニアと呼ばれたうちの一人だった。
そうして、各国で廃墟ブームが巻き起こり、皮肉にも最初にデモを行った日本は、廃墟後進国としてブームから取り残されることになった。もちろん父はそれに対して憤りを感じていたが、その時は塀の中に入っていたため何もできなかった。
父が釈放され、最初に行ったのはもちろん我が家を作ることだった。
父は実家に頭を下げ、ひどく罵倒されながらも金を借りた。そしてその金で、父は廃墟を作ることにした。もちろん日本では、廃墟を作ることは許されていなかったため、法律にうるさくなく、比較的廃墟を建てやすいキルギス北部へと移り(もちろん政治的対立があったり、民族対立による紛争、麻薬組織の暗躍などの地域情勢不安、それに経済の未発達などたくさんの問題はあったはずだけれど、父は何故かキルギスに建てると言い張ったらしい)、父はそこに廃墟を建てることにした。それは僕がまだ四歳になろうかと言う時期だった。
おかげで僕は今、ロシア語に加え、キルギス語も日常会話などをこなせるまでに至った。なにせそこで暮らしてきたわけだからね。日本語のレベルも、まぁこの文章を見てもらえれば分かると思うけれど、少しおかしいかもしれないが問題なく使えている――日本で有名な小説家の本を読んで勉強したんだ――。
キルギスに移った父は、早速キルギス北部の田舎町に、廃墟を建てることにした。その間にもキルギスではたくさんのテロがあり、たくさんの人間が死んだ。たくさんの建物が壊され、たくさんの廃墟が生まれた。廃墟だけの町も誕生した。父はそのことをひどく喜んでいた。人間の命よりも、廃墟の崇高さを大切にするような人なのだ、父は。
一年もの歳月をかけて、父は廃墟を完成させた。爆弾を撒き散らされて、廃墟と化した街の中に。僕らは田舎町に家を借りて暮らしていたわけだけれど、廃墟の完成と共に、僕らは生活の圧倒的グレードダウンを余儀なくされた。なにせ新築の廃墟に住まなくてはならないのだ。今まででさえキルギスの田舎町と言う、ほとんど何もないような場所で暮らしてきたのに(本屋も、おもちゃ屋も、スーパーマーケットも無い。ただ雑貨屋が一軒と、食料品店が一軒。よく分からない店が三軒あるだけだ)、それより更に何もない場所に移ることになった。ただ、首都に近い場所でもあったので、買い物は多少は便利になったらしい。けれど、その頃の僕からしてみれば、いきなり屋根も何もない家に引っ越し、テロを行うような物騒な人々が辺りをうろつき、時々銃弾が飛んでくるような場所で暮らすなんて、幼心ながらに理不尽だと思ったし、物凄く嫌だと感じていた。
しかしそこで育ち、それ以上の豊かで便利な暮らしを知らず、ここで暮らすのが当たり前と言う感覚になってみると、逆に屋根のある家に住み、便利な暮らしをしていると自負している人のこと見るとひどく滑稽に思えてくるようになった。なぜそんなにたくさんの物に囲まれて暮らす必要がある? 何故そんなに物を消費する必要がある? 何故自分を幸せそうに見せようとする? 何故自分を綺麗に見せようとするばかりにこだわり、このキルギスで酷い暮らしをしている人たちを見て見ぬふりをする? 僕はこの廃墟で毎日本を読みながら、そんなことを考えていた。たくさんの映画を見たりしながら、何故この人たちはこんなキラキラとした滑稽な格好をして、嘘くさい科白を喋っているのだろうと考えた。この廃墟には唯一屋根がある部屋があり、そこでは父が勝手に引っ張ってきた電気を使って、テレビを見れたし、雨に濡れずに本を読むことが出来た。父はその部屋の事を、プレイルームと呼んでいた。
今、僕は父が建てたこの廃墟の中で、雨に濡れながら考えている。僕はこのキルギスで生まれ、学校も行っていないし、毎日本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたり、絵を描いたり、料理を作りながら暮らしている。もちろんとても貧しいし、ろくな服がないから季節のひどい寒暖に耐え忍ばなくちゃいけないし、両親以外の人と会話をしたことなどほとんどないから会話の仕方がよく分からない。こうやって文を書くのは好きなんだけれど。
たくさんの雨粒が僕の部屋に降り注ぎ、僕を濡らしている。空は真っ黒だし、相変わらず外では紛争ばかりが起こり、すぐ傍でいろんな人たちが死んでいるし、それを僕に救うことだってできやしないけれど、僕はこの廃墟の中で、必死に考え、毎日文章を書いている。それは全くもって社会的に無意味な事だろうけれど、この廃墟の中ではそれくらいしかやることがない。この廃墟は僕の心象風景の象徴であり、父の最高傑作だった。
父は紛争に巻き込まれて死んだ。この廃墟街に多くの廃墟を建てたが、誰にも知られることはなかった。父は自分の墓標をこの街にたくさん建てただけだった。
いつかはこの廃墟も壊されて、僕はこのくらい部屋の中で死んでいくのだろう。でも僕はそれ以外の世界を知らないし、それで満足だと思っている。
母は一回僕に向かって、
「あなたみたいに全く笑わない、川原の石を死ぬまで積むのが仕事のような可哀相な子に、一度ディズニーランドを見せてあげたい。そこで満面の笑みをさせてあげたい」
そう言ったけれど、僕にはディズニーのことはよくわからなかった。彼はきっと精神障害者だったのだろうと思う。だからあんな幻覚的な変な世界を作ったんだ。
でもね、僕は思うんだ。願わくば、いつか廃墟を建てて、世界中を廃墟で埋め尽くせたなら、幸せかもしれない。
ヨウスケ・キタガワ著『世界の終わりの廃墟にて、暗い部屋の子供――僕がまだ世界を知らない少年だった頃――』より抜粋。