梅の花
和風・現代ファンタジー・親子・手に痣
家への帰り道、黄昏刻にそれは突然現れた。
「右手を出して」
生成りの和服のような古めかしい衣装を着た年嵩の男にそう言われて、私は訳も分からず素直に従い差し出された掌の上にそっと置く。
手に着けていた手袋を外されてから、手首を返された。露わになる親指の付け根に咲く花が、俄かに香りを放ち始める。
甘酸っぱい梅の香が、私と彼を包み込んだ。
「見事に咲いたな」
ほう、と息を零した彼が顔を近付けてより多くの香りを吸い込もうとしてか深呼吸する。私の手に咲く梅の花から何かが彼へと流れる感じがして、思わず手を引こうとしてしまうけれど。
「逃げては駄目だ。もっと愉しみたい」
「……っ」
「行くぞ」
彼の腕が逃げを打つ私の身体ごと浚って、彼と私は風になった。
日常の風景が凄まじい速度で流れるのを黙って見つめ、これから私は非日常の世界に取り込まれるのだということを静かに理解する。
もう二度と戻れないのだろうということも同時に悟り、お母さん、と小声で呟いた。
*
右手に梅の花。
そんな珍しい痣を持つ私と母は、人前に出る時は常に手袋を填めていた。
誰かの前で外しては駄目、という母との約束を守り、子供時代から今日に至るまで私は人前で手袋を外したことが無かった。
手袋を外さない私のことを珍しがる子も少なからずいたけれど、皆優しい子たちで穏やかに接してくれた。大きくなってからもそう。出会う人々は皆優しい人たちばかり。私たち母娘に、身に余るほど親身に接してくれる人ばかりだった。
度々言われた「良い匂いがする」という言葉。それは私たちと接した人々が一様に口にした言葉だ。私にはそれが何のことなのかは分からなかったけれど、その言葉を聞く度に母は悲しげな笑みを浮かべていた。今思えば、母はこうなると分かっていたのかもしれない。
「良い香りだ」
「ああ全く」
「五霞の名に相応しいな」
彼に連れられた場所で私を待ち受けていたのは、彼と似た装束に身を包んだ人々。彼に抱き上げられたままの私の周りを取り囲み、私の匂いを嗅いでいる。
「邪魔だ」
私を彼らから隠すように胸に抱き込んだ彼が不機嫌な声を出すと、私たちを取り囲む人々が一斉に身を引く。
「おっと、そう怒るなよ五霞」
「そうだそうだ。折角の満開の香りじゃないか」
「お前が羨ましいぞ。俺の花が芽吹くのは一体いつになるやら……」
口々にそう言う彼らの間を縫うように彼が歩き始める。彼の胸に身を埋めていた私の背を宥めるように撫でられて、私自身がとても緊張していたのだと知った。
「……暫くの辛抱だ」
その言葉が意味するところは、彼の歩みが止まるまで先程の人々と似たような声を掛け続けられる、ということだった。
良い匂いだと色んな人々に褒めそやされながら辿り着いた場所は、大きなお屋敷の中に立つ一本の古木の下。
「ここだ」
そう言って私を下ろした彼は葉も花もつけていない古木の幹に近寄ると私を手招いた。
ふらりと覚束ない足取りで彼に近づくと右手を取られ、抱き込むようにされながらその場に座り込んだ。胡坐を掻いた彼の膝の上に私が座り、左肩に彼の顎が乗る。右手を取る彼の両手が親指の付け根を撫で擦り、その度に馨しい梅の香りが放たれた。
「ああ、久方ぶりだ」
感慨深げな彼の呟きを左耳が直に拾う。すん、と鼻を鳴らして嗅がれるのを居心地悪く感じながら、近すぎる彼との距離に不思議と嫌悪感を抱くことは無かった。
「吉野の花は何分まで咲いていた?」
唐突なその問いに一瞬何を訊かれたのか分からなかった私に「お前の母だ」と言われ、最後に見た母の右手を思い出す。
満開の私より少し花開いた蕾が少ない母の右手。
「……確か、八分くらい、です」
私が声密やかに言えば、「そうか」と頷かれた。
「吉野はもう暫く掛かるな。……一人は不安か?」
「……」
何と答えて良いものか分からず、沈黙を返す。もう母に縋るばかりの子供ではない。かといって一人は怖い。けれどその不安を彼に示したとしても、どうなるというのか。
黙る私に何を思ったのか、彼は「はあ」と少々大げさに過ぎる溜息を吐いて見せた。
「お前が心配することは何もない。後で吉野も迎えに行く」
「……母も、こちらに来るのですか」
「ああそうだ。吉野の花が満開になったらな」
満開という言葉と同時に手を擦られる。ここに来てから私の右手に咲く梅の香が強くなっている気がする。
これまで知覚したことの無かった「良い匂い」の正体を、私は漸く理解した。
私と母に接する人々は、これを嗅ぎ取っていたのだろう。私には分からなかった、薄らと香る梅の匂いを。そしてそれを、母は知っていた。右手に咲く梅の痣が香るということを。
満開になれば迎えに行くと彼は言った。つまり母より一足早く満開になったから私が先にここに連れてこられたようだ。
もしかすると、隠すように手袋を着けさせていたのは彼に見つからないようにするために……?
悲しい顔で微笑む母の姿が思い浮かぶ。
「……何故」
気付けばぽつりと疑問を声に出していた。か細い呟きだったというのに、彼はそれをしっかりと聞き取っていて「うん?」と聞き返された。
「なにが何故なんだ?」
自分の胡坐の上に乗せた私の身体を、まるで幼子にするように揺らす彼。ゆら、ゆら、と緩やかにあやされる仕草に、遠い日、母にも同じようにされたことを思い出した。
「小町?」
穏やかに名を呼ばれて、何故か心が仄かに綻ぶ気がした。
母の名を知っていることにも驚いたが、私の名前まで知っていたとは。喉に痞えていたしこりのようなものが取れて、私は再び口を開く。
「何故、私たち母娘なんですか」
「何がだ」
「梅の花……」
「これか」
大きな掌が私の右手を持ち上げる。左肩に乗る彼がよく見えるようにと持ち上げられると私にも痣がよく見えた。
「これは五霞の梅だ」
「五霞、の?」
「そう、今お前の頭上に枝を伸ばすこの木を五霞という。霞の様に香る五弁の梅を付けることからそう呼ばれている」
「それは、あなたの名前では……?」
私の右手を取るのとは反対の手が、くしゃくしゃと私の髪を掻き混ぜた。
「そうだ。この木は俺で、俺はこの木。お前の手に咲くこの花は俺の花なんだ」
何故だか嬉しそうにして彼が言うから、私は掻き乱されるまま彼の好きなようにさせる。
「お前は俺と吉野の間に出来た梅の実だ。あいつはお前を間引かなかった。こんな嬉しいことは無い」
「……え?」
「早く吉野も満開になれば良い。そうすれば親子三人で末永く暮らせる」
「…………え?」
「楽しみだな。ああ、楽しみだ」
本当に、本当に嬉しそうに言う彼の言葉を理解するならば。
「……おとう、さん?」
「ああ、そうだとも。お前にそう呼ばれるのは存外こそばゆいものなんだな」
烏の足のような皺を目尻に刻みながら笑うこの人が。
どうやら私の、父親、らしい。
*
「五霞の実」
ここに来てからどれほどの時間が経ったのだろう。長くも感じられるし、短くも感じられる。色々な人が私のことを見に来ては右手の梅の花を見せてくれとせがんでくるから退屈を感じる暇なんて無かった。
「無視するなよ、五霞の実」
私の父親という五霞は、忙しない人だった。私の顔を見に来る以外で屋敷に留まることはしないし、私をこの世界に連れてきた日以来自分自身だという五霞の梅の木に近寄りもしなかった。
私はそんな彼に放っておかれている状態だけれど、今までいない存在だった父親だ。受け入れはしたものの未だ慣れるものではない。だからむしろ忙しなくしてくれている方が気楽だった。
「………っ、小町!」
「なぁに?」
「俺を無視するな」
「私のことを無視していたのは貴方でしょ、三潴。私にだって名前があるんだから」
ようやく私の名前を呼んだ三潴と目を合わせたら途端に赤い顔をして、ぐっと言葉を飲み込んだ彼は、私の父親である五霞と同じこの世界の住人。まだまだ若木だと、いつだったか五霞が言っていた。
「でも五霞の実であることには代わりないだろ」
「それでも。私は小町という名前があるの。貴方に三潴という名前があるみたいにね」
何もないこの世界で私が退屈しないのは、三潴がいるから。
彼らと私の時間の流れは全くの別物らしいから本当の年齢は私には分からない。けど、見た目で言えば私と同じかそれより下。中身はもっと下かもしれない。
「生まれたての癖に生意気だぞ」
「じゃあ貴方はもうお爺さんなのね?」
「誰が爺だ!」
縁側に座っていた私の手を引いた三潴の力強さに私の体が宙に浮く。そして易々と私を抱き上げた三潴は今日もどうだと言わんばかりの得意顔で私を五霞の屋敷から連れ出した。
「爺にこんな真似出来やしないだろ?」
「五霞は出来るよ」
「……あいつと比べるなっ」
くすくすと私が笑うと三潴は顔を赤らめて渋い顔をする。私を抱き上げながら歩くその足取りは、五霞よりも軽々しくは無いけれどしっかりとした安心感があった。
「別に比べてないよ。それより今日はどこに連れていってくれるの?」
私が退屈しない一番の理由。それは来たばかりの頃から、こうやって三潴が私を連れ出してくれるから。この広い世界の、五霞の屋敷の周辺という狭い範囲だけれど、三潴は至るところへ私を強引に連れていく。
岩を破って根を張った木。二本の幹が絡まり合って一本になった木。今にも枯れそうなのに青々とした葉を繁らせている木。
三潴が見せてくれる珍しい木々は全て梅の木だという、それらが植わる場所に彼は連れていってくれる。
「小町、水の中に立つ木を見たことあるか?」
「ううん、無い」
「じゃそこに連れてってやる」
とん、とん、とん。三潴の足取りが急に軽くなる。走るような早歩きになり、私は思わず彼の首に回した腕に力を込めた。
「…………わぁっ、」
連れていかれた先は、目に鮮やかな蒼くて綺麗な泉。蒼く揺らめく水面の中は、底が見えるほど透明すぎて生き物は何も棲んでいないような静かな場所だった。
そんな泉の中央に一本の木が立っていた。
私の父親である五霞の木からすれば頼りないほどに細いけれど、古木である父親の木と比べれば生命力溢れる若々しさだ。
ようやく私を降ろした三潴から離れて私は泉へと近付いた。
しゃがんで恐る恐る、もう手袋で隠さなくなった手を伸ばして、恐ろしいほどの蒼い水に右手の指先で触れる。ひんやりと冷たく、と思えば不思議なほど温かい。ちゃぷりと水に浸した手を上げればそれはすぐにさらりと乾いてしまった。
私の隣に腰を下ろした三潴に私は聞いた。
「この木はどうして枯れないの? 根腐りしない?」
「枯れる? 小町は可笑しなことを聞くんだな。むしろこれはこうでないと枯れるんだ」
木と泉は一体のもの。
三潴はそう言い、履物を脱いで素足を遠慮の欠片もなく泉の中へと入れてしまった。
彼がじゃばじゃばと飛沫を立てて遊ぶ姿に呆れつつ、少し、楽しそうだなとも思ってしまった。
「そんな顔するくらいなら小町もやれば?」
「だって、この木の持ち主さんに悪いもの」
「何言ってんだ。断りなく最初に触ったのは小町だろ」
「それはっ、ちょっとだけだったし……」
「ちょっともいっぱいも同じことだ」
悪戯めいた笑みで私を見る三潴に後押しされるように私も靴と靴下を脱いで裸足になる。そしてスカートの端を持ちつつ、冷たくて温かい蒼い水に両足を浸した。
「気持ちいい……」
「だろ? 俺なんか毎日ここで水浴びしてるぞ」
「貴方はちょっとくらい遠慮しなさいよ……」
彼ほど大胆には出来ないから控え目にちゃぱちゃぱと足を動かした。
ひんやりとした温もりのある水が足に絡むけれどすぐに乾いてしまう、なんて不思議な感覚に私が楽しんでいたら三潴は両足を泉に入れたまま仰向けに寝転んでいた。
遠くを見るように空を見上げている姿に気付いて私も同じように空を仰ぐ。
薄雲が掛かる春の空だ。日の出があって日没もあるけれど、この世界は常に春であると教えてくれたのは三潴だった。
ぼんやりと二人で空を眺める。言葉少なく過ごすこんな時間も、良いものだなと思った。
空が暮れてきた頃、連れてきてもらった時と同じようにして三潴はまた私を抱き上げた。自分の足で立てるのに、と不満を漏らしても聞く耳を持ってくれない。それは三潴だけじゃなく五霞にも言えることだけど。
「おい、動くなって」
「私、あんまり抱っこされたことないから慣れないんだよ……」
「今のうちに馴れておけ」
「どうして?」
「……そのうち分かる」
ぶすりと赤い顔をした三潴に私は首を傾げながら、徐々に遠ざかる泉に立つ木を眺めた。この木の持ち主は一体どういう人なのだろう。冷たいのに温かい、不思議な人だろうか。
「……三潴」
「なんだ?」
「また、私ここに来たいな。あの木の持ち主に会ってみたい」
私の言うところの木の持ち主というのは意味が違うかもしれない。だってあの木自体がその人自身だと五霞は言っていたから、厳密に言えば私はすでにその人そのものに会っているということになるのだから。
私を抱く三潴の腕にちょっと力が籠ってほんの少しの間だけ彼との距離が零になる。
「ああ、いつでも連れてきてやる」
心なしか嬉しそうに。弾んだ声色に聴こえた気がするのは彼が少し早足になったからだろうか。
「本当に? 約束だよ、三潴」
「約束する、小町」
二人で交わした初めての約束。
三潴の首に掛けた右手の花から、得も言われぬ芳しい香りが放たれた。こんなに強くて甘い香りは初めてだった。私はきゅっとその手を握り締めて、どうか三潴に気付かれませんように、と何故だか急に恥ずかしくなり、帰りの道中ずっとそんなことを願っていた。
*
「ようやくだ」
ある日私の父親である五霞が珍しく屋敷に居たとき、そんなことをぽつりと呟いたかと思ったら霞のように私の前から姿を消してしまった。
さあっと空気に融けるようにしてその存在が掻き消えたのを、私は驚くでもなく見ていた。
遂にその時が来たのだろう。五霞の待ち焦がれていた花が、満開に咲き誇った。
すなわち、母の花が。
お母さんがここに来る。
五霞が連れてくる。
これで親子三人、ここで、暮らす。
三人で―――?
「よお、五霞の実。……ってお前、どうしたんだ? なんで、そんな顔……」
「三潴。私をあの泉に連れていって」
「……小町?」
「お願い」
訪れたばかりの三潴に頼んで、私は手を差し出した。五霞の花が咲く右手。母と同じ花が咲いている手だ。
「連れ出して、三潴」
私と同じか少し小さいと思っていた三潴の、大きな手が私の右手を掴んでくれた。
かたく握りしめられた途端に梅の香が放たれる。強く、強く。三潴は拐うように、私を抱き上げた。
泉は変わらず蒼い。
私は未だこの木の持ち主に会えていないけれど、三潴は約束を守ってあれから幾度となくこの場所に連れてきてくれた。
とん、と泉の淵に下ろされた私はその場に座り込んだ。倣うように三潴も胡座をかいて、二人で泉を見つめた。
揺らぎの無い蒼い水面の中央に立つ若木。初めて見たときより、少し太さと背丈が逞しくなった気がする。隣にいる三潴が日ごと成長しているように、きっとこの木も大きくなっているのだろう。
静謐が似合う泉の世界を壊したくなかったけれど、あえて私はそれを乱したくなってしまった。
「触ってもいいかな?」
「……好きにすればいいんじゃないか」
「ありがとう」
ちゃぷり。私は甘く香る右手を蒼い泉の中へ沈めた。
ぱしゃり。香りを放つ右手を洗い清めるように水をかき混ぜる。
ぴちゃん。濡れない不思議な水は私の右手からその香りを払ってはくれなかった。
右手の親指の付け根を見る。肌の色より濃い色の線が枝を伸ばし、五弁の梅の花を象っている。それに触る。霞のように香る梅の香が、ふんわりと放たれた。
同じ花の痣を持つ母も、これと同じ香りがするのだろう。五霞が真に求める、香り。
「お母さんが、ここに来るんだって」
独り言のように私が言う。隣に座る三潴は「そうか」と相槌を打って寝転んだ。
「お母さんに会えるのは本当に嬉しい。ずっと、ずっと逢いたかったから」
優しくて、女手一つで私を育ててくれた母。
いつも笑顔で私を見守ってくれて、儚げに見えてその実は逞しい人。ただ唯一、父親に関しての話題になると、「見付けてしまったのよね……」と呟きながら悲しそうな表情になった。
私は思った。母に父親の話をしてはいけないのだと。それはずっと、ろくでもない男に振り回された嫌な記憶がそうさせているのだろうという考えに基づいてだ。
でももしかしたら。母が悲しい顔をしていた本当の理由は。五霞に会えないことを悲しんでいたからではないだろうか。仮に母にとって五霞が憎い男だったとしたら、その男との間に出来た私をあれだけの情愛で慈しんでくれることは無いだろう。
好きあった者同士が離れ離れになることほど悲しいものは無いじゃないかと思う。
「ねえ、三潴。お母さんがこの世界に来たら、私はどこに行けばいいのかな」
「どこってお前、今のまま五霞の屋敷に居れば良いじゃないか」
「良いのかな……私が居ても」
「何を悩むことがあるんだ? お前は五霞とお前の母親との間に出来た実だろ。お前たちで言うところの家族ってやつだ。その家族が一緒に暮らすのに良いも悪いもあるのかよ」
「家族……」
いつだったか五霞は言っていた。お母さんは私を間引かなかったと。実を間引くとはすなわち、中絶、ということだろう。
父親と母親がいつどうやって出逢ったのかは私には分からない。けれども二人は愛し合って、その末に私が出来たということだ。
愛し合っていた二人が離れ離れになって久しく、念願の再会の時を迎えたら。…………子供の存在は疎ましいだけでは?
そんなことを。
私は考えてしまう。
二人がまた一緒になるのはとても嬉しい。でもそこに、私は必要なのか分からない。
立て膝に顔を埋めた私は暫くの間その体勢のまま動かなかった。三潴も、ただ静かに隣にいてくれた。
こんなことを聞かされて三潴も迷惑だろうに、今、私の一番近いところに彼が居てくれて、有り難かった。
嬉しいけど、悲しい……とも違う、涙が出てくるような荒々しい感情でもないこの気持ちとどう向き合えばいいのか。静かなこの場所で、その答えを見付けたかった。
先に沈黙を破ったのは、三潴だった。
「小町」
「……なぁに?」
「俺はな、小町。五霞がお前の母親を連れて戻ったら、ちゃんと二人と話をするべきだと思う。多分、いや絶対にお前が心配することは何もない。俺はそう思うが、もし、それでもお前の居場所が無いと感じるなら――――俺に、もがれるか?」
言われた言葉の意味が分からず、顔を上げて隣に座る三潴を見る。
いつもは目を合わせればすぐに赤くさせて渋い表情になる彼が、今は真っ直ぐに私を見ていた。
「どういう、こと?」
「俺が、五霞の枝からお前をもぎ取ってやろうかって言ってんだ。その右手に咲く枝も手折って、代わりに俺の花を咲かせてやる。寂しさなんて感じさせない。俺が小町の居場所になってやる」
どうだ名案だろ、と言いたげに。誇らしげに。三潴が笑みを浮かべながらそう言った。
「三潴が、私の居場所?」
「ああ」
「なって、くれる?」
「おう。……だから、我慢するな」
起き上がった三潴が私をそっと抱き寄せた。
「俺がいる。小町、お前のそばにずっといてやる。泣きたい時は思いきり泣けばいい。俺が隠していてやるから、もう我慢なんてしなくていいんだ」
涙は母を悲しませてしまう。
そうと気付いた私はいつからか泣かなくなっていた。
そんなことを、彼が知るはずもないのに。
くしゃりと、自分の顔が歪むのが分かる。ひくっ、と喉が鳴ると強く抱き締められて私は三潴の胸に隠された。
悲しいわけじゃない。嬉しいはずだ。離ればなれだった母と父の再会なのだから。
でも、……でも―――
私の世界は常に母だけだった。母と二人きり。そこに、父だという五霞が入り込むのが、私は少し、嫌、なのかもしれない。
ぼろぼろと零れる涙の滴。堰を切って止まらない。久し振りに流した涙の粒は大きくて、三潴の服を濡らしてしまう。
三潴は濡れるのなんて構いやしないと強く胸に押し付けてくれて、慰めるように私の髪を撫でてくれて、私の頭に頬を擦り寄せていた。
すがり付くようにして泣かせてもらった三潴の腕の中は、温かくて、広くて、とても安心させてくれた。
「俺にだけは我慢するな。……俺ももう、我慢なんてしないから」
ああ、どうしよう。
右手から香る五霞の梅の香りが、このとき初めて、邪魔だと思ってしまった。三潴が微かに纏う爽やかな清水の、この蒼い泉と同じ匂いが、嗅ぎとれなくて―――。
*
泉から帰ってすぐに私は母と再会した。
「お母さん!!」
「小町!」
三潴に抱き上げられていた私と、五霞に抱き上げられていた母が、二人揃って彼らから離れて抱き締めあう。やはり同じ香りがする。母に咲いた五霞の梅が香る。初めて人の梅の香を嗅いだ。良い、匂いだと思った。
「心配した……!」
震える声でそう話す母の体は、私がここへ来る前よりもほっそりとした印象だった。
「道すがらあの人から聞いたわ。小町を、連れていったって」
「勝手なことしてごめんなさい」
「あなたが謝ることなんてないわ。悪いのは全部、あの人なんだもの」
怒っている口調の母だけど、でもどこか、嬉しさが滲んでいるのが分かってしまう。
離れたくて離れたわけではない二人だ。ようやく会えた人がそこにいる。嬉しくないわけがない。
だから、私は――こう言った。
「お母さん。私もね、見付けたよ」
母がかつて言っていたように、私も見付けてしまった。
清涼な清水の香りに似た、爽やかな梅の香りを。―――泉に立つ、若い梅の木を。
私とそう身長の変わらない母と目を合わせながら言えば、母は一瞬目を瞬いてから、笑った。
「そう」
「だから、お母さんも」
「……ありがとう」
ぎゅうっと、抱き締め合う。温もりを、忘れないように。
離れがたい母との安らぎの距離。でもそれを、断ち切るのは私の役目。
「三潴」
「小町」
私が呼べば三潴は私の横に立ち、そっと私を母から離してくれる。
「吉野」
「……五霞」
父が母を呼ぶ。母は照れ臭そうにその名を呼び返して、寄り添った。
「二度と会えなくなるわけじゃない。離れて暮らすだけだ」
「……ええ」
母の肩を抱く父がこちらを見る。私と三潴両方を眺めたあと、三潴に視線を止めた。
「三潴」
「言われなくても分かってる。俺は、五霞のようにはならない。……小町を絶対に放すものか」
そう言い切った三潴に抱き上げられる。
「お母さん、幸せに」
「小町も」
「お父さん、お母さんを悲しませたら許さないからね」
「ああ、二度としないと約束しよう」
親子三人揃って初めて微笑み合った。
「行こう、三潴」
「ああ」
三潴が走り出す。
五霞の屋敷から、あの泉を目指して。
意地悪な言い方をする、優しいひと。
あの泉のように、冷たいのに温かいひと。
「三潴、あのね……」
風切る三潴の耳にそっと耳打ちをする。
顔が、心が、果てしなく熱い。その熱さに煽られて、私の右手から五霞の梅が香る。
いつかこの手から、三潴の梅の香りがすると良い。
母の放つ五霞の梅がこの上なく甘美だったように、私もいつか、三潴の梅をそのように咲かせてみたい。